上坂会員の2作品目のナビの振り返りのレポートにまたまた注釈を付けてみました。こんな風に自分のナビも振り返りながら突っ込んでいくとナビの腕は上がると思います。でも、一人ではなかなか思うようにいかないので、こうやって仲間と一緒に実践後に振り返って、突っ込み入れてもらって研鑽を図ることが大事だと思います。あの時の切り返しの言葉ひとつ違うと会話の流れがスムーズだったのではないかと反省することもしきりです。では、どうぞ。
平成26年6月22日(土)14:00~
浜田市こども美術館 「はまだの美術」 ナビ 上坂 美礼
会場 伊藤 素軒(いとう そけん)の部屋
来場者 高校生2名
浜田市内から「みるみるの会」を求めて来場した女性 3名くらい
描く連のみなさま 4名
みるみるの会員 4名
市内学芸員 2名
大阪より 1名
2作品目
絹本の日本画が額装された作品で、こちらにも鯉が描かれている。「こちらの作品をご覧ください。先ほどの作品と比較して、
(ここで比較を強要する必要があるだろうか?比較するよう指示するのではなく、鑑賞者が自ずから比較をしながら考える雰囲気をつくるべきだと思う。2作みることの意味も鑑賞者が考えるようにナビする必要があるのではないか。)
あるいは、この作品について、話をしてください。」と、
(鑑賞者にみることを促す時の声かけをナビはある程度つくっておく必要があると思う。マニュアルにするつもりはないが、例えば「今日は、3作品を鑑賞してもらおうと思っています。3作品鑑賞する意味も併せて考えてみてください。では、最初の作品です。」などと言って1作品目をみ始め、程よく会話が弾んだところで、「みなさん、会話が盛り上がってきましたが、盛り上がってきたところで、2作目にいってみたいと思います。次の作品は・・・。」とつなぎ、最後の作品に入るころには「そろそろ、なぜ作品を1作品目、2作品目とみてきたのかを考えている方もおられると思いますが、最後の作品に移りたいと思います。最後の作品はこれです。」という感じでつないでいくというのはどうだろうか。ナビはあまり自分の主観を交えずに進行し、鑑賞者がしっかり考えるように促すことに腐心するべきだと思う。そのためのナビである。)
ナビは言ったに過ぎないが、壁面のキャプションなどを見れば、同一人物の作品であることは暗黙のうちに知れたことだったかもしれない。
(キャプションを隠さない場合、キャプションに書かれていることを鑑賞者に周知する必要があるのではないか。キャプションがみえている人とそうでない人がいるのは不平等であると思う。隠さないのなら、機をみて周知することを心がけたいと思うがどうだろう。)
誰も、特に「先ほどの鯉を描いた人の作品だと思います。」とは述べなかった。もっと深く、作品そのものの魅力について述べる人ばかりだった。
(それならなおさら、「皆さんもすでにお気付きと思われますが、先ほどの板絵の鯉を描いた作家が描いたものです。」とネタばらしをし、鯉の描かれ方などから気付いたことを語ることに統一した方が話題が散漫になるのを防げると思う。)
「右下の白い鯉が、画面の構成上のバランスをとっている。」というコメントにも大いに助けられたと思う。また、「水の波紋がくっきり描かれている。」ことも述べられ、「鯉の動きがあまり感じられない。冬眠中のよう。」という指摘もあった。「くっきりと明快に水の波紋が描かれているのに、あまり鯉の群れの動きが感じられない。」という発言は、みごとな対比!(比較したからこそ出た意見かもしれない。)とナビである私も感激して絹本の鯉の作品を見ているうちに、さきほどの四枚の板の襖に描かれた鯉について改めて新たな意見を述べた人が現れた。「先ほど見ていた作品について述べてもいいですか。四枚の板に描かれている鯉の絵は、画面の左側に池のコーナーがあり、そこの岸からエサを投げてもらっている。画面の右側は池が彼方に広がる感じ。」という。その発言の主は、絹本の作品の構図について最初に「右端に描かれた白い鯉が、作品を見る者の視線を右側に促している。白い鯉だけが縦に垂直に描かれていて、四角い画面のなかで、視線を右に引っ張っている。」と構図について述べられた方だ。作品の構図について述べることで、作品そのものの魅力について語られている!と感銘を受けた。
(感銘を受けたのなら、そこをもっと評価して鑑賞者に返すべきだと思う。また、構図を語ることで作品の魅力に迫っているのなら、そのことをパラフレーズし、鑑賞者全員が構図から受け取る印象と作品の魅力について考えられるようにナビすると、話題が散漫にならなかったと思う。)
もしかしたら、対話をしながら自然な流れで作品の構図について「なぜ、このような構図なのか。」と考えて推察することは、鑑賞のねらいのひとつなのではないかと感じた。
(鑑賞のねらいのひとつなのではないかと感じた。とあるが、そのことについては、ナビはあらかじめ予測していたのではないのか?3作品をみる中で、描かれているもの(この場合は鯉)とそれらの動き(構図)がこの作品の魅力なのだから、逆にいえば、そこに気付いてくれないとナビの意味がないくらいに思ってないといけないと思うのだが、やりながら感じた手応えだとしたら、もっと、驚き、感動を鑑賞者に返すべきだと思う。)
描き手がどのように作品を構成したのかを考察する視点は、自らも描き、作品制作に携わる人ならではのものかもしれないと、みるみる会員のなかでも話題になる方の発言だった。その後、また別の方が「この作品を描いた人も、さきほどの襖の鯉を描いた人も、何度も何度も鯉を描いた人が描いたように感じる。」と発言したので、ナビである私は「どこから、そのように感じますか。」と根拠を問い、なんだか尋ね方がぎこちないし、間が悪いと感じてすかさず「こちらの鯉の目も、さきほどの鯉の目のように、上から見下ろしたような描かれ方がしていますね。」などと、述べた。後から考えると、もっと別な言い方があったな、と反省するひとコマである。
(鑑賞者の発言を正しく受け止められていないとナビが感じた時は、発言を正しく受け止めているかを確認する方がよい。自信がないままに、質問を重ねていくのはまずいと思う。何を答えればいいのかがどんどんズレていくからだ。「どこからそう感じますか?」と訊ねたのであるから、その答えを待つべきで、発言の意図が理解できていないのなら、もっとそこを確認するべきだ。この時の発言の意図は、鯉の描写の緻密さから、鯉を描かせたら右に出る者はないくらい熟練の腕をもった画家であるということが言いたかったと私は受けとめている。その発言の中に「どこからそう思ったか。」は語られていたので、ナビが「どこからそのように感じますか。」と問うたことに対して「いやもう、それはさっき言ったから・・・。」というリアクションだったと思う。ナビがそれを拾いきれていないのだ。発言者の言葉を真剣に聴かなくてはならない。次のつなぎに気を取られていて聴くことが上の空になってはいけない。)
ナビとして、相手の発言を「受け取りましたよ!」という受容の合いの手も入れず、まるでスマッシュのうち返しみたいに間髪入れず「そう感じる根拠は!?(どこからそう感じますか!?)」と問うたのである。ものごしは丁寧に、でも、なんだか慇懃無礼な余韻漂わせたかもしれない。それでは、なんだか、気まずい沈黙を誘うに決まっているのに。ナビとしては、根拠を聞かなくちゃ!という焦りでいっぱいなだけではありましたが、変な誤解を生じます。
(何でもかんでも根拠を問わねばと思うのは間違いであると思う。そこに固執するから、会話の大きな流れを見失う。発言者の言わんとするところを汲み、あいまいなところは根拠を示してもらいながら確認し、発言者が自身の意見を構築していくようなナビを心がけたい。)
自分のことをよく知っていてくださっている先輩の発言だったので、今回は許してもらえたかもしれないが、周囲で聞いている人は、なんだかヒヤッとしたのではないだろうか。ナビは、相手の発言を受け取ったというサインを示してから、その根拠を問うべし、という教訓の一コマである。後から考えた返答としては、例えば「さきほどの襖に描かれた鯉について、まるで泳いでいるようだと話題になっていましたが、こちらの作品の鯉も、冬眠しているのかもしれないけれど生命力を感じるという話も出ていますね。生きているような鯉を描くことのできる画家は、何度も鯉を描いたということでしょうか。」など、小まとめをしながら、発言者の意図を言い換えることもできたのではないかと。
(小まとめも長い。「先ほどの板戸に描かれた鯉と同様に、動きは板戸のほどではないにしても、この鯉の描写力は何度も鯉を描き続けたことによるものではないかと思われるのですね。」くらいにはなるのではないか。私なら「板戸の鯉も、この鯉も、息をひそめるような緻密な描写から、この作家は目をつぶっても鯉が描けるくらいの腕前をもっているのではないかと言いたいわけですね。」とパラフレーズする。)
さて、この後3作品目に突入する。3作品目は鯉ではなく、鶏である。しかも屠られたものである。また、2作品が日本画だったのに対し、3作品目は洋画である。3作品目に関しては描かれているものも重要であるが、作家の人生にも話題が及んでいく。その振り返りを上坂会員がどのようにまとめるのかを楽しみに待ちたい。
平成26年6月22日(土)14:00~
浜田市こども美術館 「はまだの美術」 ナビ 上坂 美礼
会場 伊藤 素軒(いとう そけん)の部屋
来場者 高校生2名
浜田市内から「みるみるの会」を求めて来場した女性 3名くらい
描く連のみなさま 4名
みるみるの会員 4名
市内学芸員 2名
大阪より 1名
2作品目
絹本の日本画が額装された作品で、こちらにも鯉が描かれている。「こちらの作品をご覧ください。先ほどの作品と比較して、
(ここで比較を強要する必要があるだろうか?比較するよう指示するのではなく、鑑賞者が自ずから比較をしながら考える雰囲気をつくるべきだと思う。2作みることの意味も鑑賞者が考えるようにナビする必要があるのではないか。)
あるいは、この作品について、話をしてください。」と、
(鑑賞者にみることを促す時の声かけをナビはある程度つくっておく必要があると思う。マニュアルにするつもりはないが、例えば「今日は、3作品を鑑賞してもらおうと思っています。3作品鑑賞する意味も併せて考えてみてください。では、最初の作品です。」などと言って1作品目をみ始め、程よく会話が弾んだところで、「みなさん、会話が盛り上がってきましたが、盛り上がってきたところで、2作目にいってみたいと思います。次の作品は・・・。」とつなぎ、最後の作品に入るころには「そろそろ、なぜ作品を1作品目、2作品目とみてきたのかを考えている方もおられると思いますが、最後の作品に移りたいと思います。最後の作品はこれです。」という感じでつないでいくというのはどうだろうか。ナビはあまり自分の主観を交えずに進行し、鑑賞者がしっかり考えるように促すことに腐心するべきだと思う。そのためのナビである。)
ナビは言ったに過ぎないが、壁面のキャプションなどを見れば、同一人物の作品であることは暗黙のうちに知れたことだったかもしれない。
(キャプションを隠さない場合、キャプションに書かれていることを鑑賞者に周知する必要があるのではないか。キャプションがみえている人とそうでない人がいるのは不平等であると思う。隠さないのなら、機をみて周知することを心がけたいと思うがどうだろう。)
誰も、特に「先ほどの鯉を描いた人の作品だと思います。」とは述べなかった。もっと深く、作品そのものの魅力について述べる人ばかりだった。
(それならなおさら、「皆さんもすでにお気付きと思われますが、先ほどの板絵の鯉を描いた作家が描いたものです。」とネタばらしをし、鯉の描かれ方などから気付いたことを語ることに統一した方が話題が散漫になるのを防げると思う。)
「右下の白い鯉が、画面の構成上のバランスをとっている。」というコメントにも大いに助けられたと思う。また、「水の波紋がくっきり描かれている。」ことも述べられ、「鯉の動きがあまり感じられない。冬眠中のよう。」という指摘もあった。「くっきりと明快に水の波紋が描かれているのに、あまり鯉の群れの動きが感じられない。」という発言は、みごとな対比!(比較したからこそ出た意見かもしれない。)とナビである私も感激して絹本の鯉の作品を見ているうちに、さきほどの四枚の板の襖に描かれた鯉について改めて新たな意見を述べた人が現れた。「先ほど見ていた作品について述べてもいいですか。四枚の板に描かれている鯉の絵は、画面の左側に池のコーナーがあり、そこの岸からエサを投げてもらっている。画面の右側は池が彼方に広がる感じ。」という。その発言の主は、絹本の作品の構図について最初に「右端に描かれた白い鯉が、作品を見る者の視線を右側に促している。白い鯉だけが縦に垂直に描かれていて、四角い画面のなかで、視線を右に引っ張っている。」と構図について述べられた方だ。作品の構図について述べることで、作品そのものの魅力について語られている!と感銘を受けた。
(感銘を受けたのなら、そこをもっと評価して鑑賞者に返すべきだと思う。また、構図を語ることで作品の魅力に迫っているのなら、そのことをパラフレーズし、鑑賞者全員が構図から受け取る印象と作品の魅力について考えられるようにナビすると、話題が散漫にならなかったと思う。)
もしかしたら、対話をしながら自然な流れで作品の構図について「なぜ、このような構図なのか。」と考えて推察することは、鑑賞のねらいのひとつなのではないかと感じた。
(鑑賞のねらいのひとつなのではないかと感じた。とあるが、そのことについては、ナビはあらかじめ予測していたのではないのか?3作品をみる中で、描かれているもの(この場合は鯉)とそれらの動き(構図)がこの作品の魅力なのだから、逆にいえば、そこに気付いてくれないとナビの意味がないくらいに思ってないといけないと思うのだが、やりながら感じた手応えだとしたら、もっと、驚き、感動を鑑賞者に返すべきだと思う。)
描き手がどのように作品を構成したのかを考察する視点は、自らも描き、作品制作に携わる人ならではのものかもしれないと、みるみる会員のなかでも話題になる方の発言だった。その後、また別の方が「この作品を描いた人も、さきほどの襖の鯉を描いた人も、何度も何度も鯉を描いた人が描いたように感じる。」と発言したので、ナビである私は「どこから、そのように感じますか。」と根拠を問い、なんだか尋ね方がぎこちないし、間が悪いと感じてすかさず「こちらの鯉の目も、さきほどの鯉の目のように、上から見下ろしたような描かれ方がしていますね。」などと、述べた。後から考えると、もっと別な言い方があったな、と反省するひとコマである。
(鑑賞者の発言を正しく受け止められていないとナビが感じた時は、発言を正しく受け止めているかを確認する方がよい。自信がないままに、質問を重ねていくのはまずいと思う。何を答えればいいのかがどんどんズレていくからだ。「どこからそう感じますか?」と訊ねたのであるから、その答えを待つべきで、発言の意図が理解できていないのなら、もっとそこを確認するべきだ。この時の発言の意図は、鯉の描写の緻密さから、鯉を描かせたら右に出る者はないくらい熟練の腕をもった画家であるということが言いたかったと私は受けとめている。その発言の中に「どこからそう思ったか。」は語られていたので、ナビが「どこからそのように感じますか。」と問うたことに対して「いやもう、それはさっき言ったから・・・。」というリアクションだったと思う。ナビがそれを拾いきれていないのだ。発言者の言葉を真剣に聴かなくてはならない。次のつなぎに気を取られていて聴くことが上の空になってはいけない。)
ナビとして、相手の発言を「受け取りましたよ!」という受容の合いの手も入れず、まるでスマッシュのうち返しみたいに間髪入れず「そう感じる根拠は!?(どこからそう感じますか!?)」と問うたのである。ものごしは丁寧に、でも、なんだか慇懃無礼な余韻漂わせたかもしれない。それでは、なんだか、気まずい沈黙を誘うに決まっているのに。ナビとしては、根拠を聞かなくちゃ!という焦りでいっぱいなだけではありましたが、変な誤解を生じます。
(何でもかんでも根拠を問わねばと思うのは間違いであると思う。そこに固執するから、会話の大きな流れを見失う。発言者の言わんとするところを汲み、あいまいなところは根拠を示してもらいながら確認し、発言者が自身の意見を構築していくようなナビを心がけたい。)
自分のことをよく知っていてくださっている先輩の発言だったので、今回は許してもらえたかもしれないが、周囲で聞いている人は、なんだかヒヤッとしたのではないだろうか。ナビは、相手の発言を受け取ったというサインを示してから、その根拠を問うべし、という教訓の一コマである。後から考えた返答としては、例えば「さきほどの襖に描かれた鯉について、まるで泳いでいるようだと話題になっていましたが、こちらの作品の鯉も、冬眠しているのかもしれないけれど生命力を感じるという話も出ていますね。生きているような鯉を描くことのできる画家は、何度も鯉を描いたということでしょうか。」など、小まとめをしながら、発言者の意図を言い換えることもできたのではないかと。
(小まとめも長い。「先ほどの板戸に描かれた鯉と同様に、動きは板戸のほどではないにしても、この鯉の描写力は何度も鯉を描き続けたことによるものではないかと思われるのですね。」くらいにはなるのではないか。私なら「板戸の鯉も、この鯉も、息をひそめるような緻密な描写から、この作家は目をつぶっても鯉が描けるくらいの腕前をもっているのではないかと言いたいわけですね。」とパラフレーズする。)
さて、この後3作品目に突入する。3作品目は鯉ではなく、鶏である。しかも屠られたものである。また、2作品が日本画だったのに対し、3作品目は洋画である。3作品目に関しては描かれているものも重要であるが、作家の人生にも話題が及んでいく。その振り返りを上坂会員がどのようにまとめるのかを楽しみに待ちたい。