大宰府は『平家物語』では、「巻8・大宰府落」として記されています。
都落ちした平家は安徳天皇を奉じて大宰府に下ってきました。
平氏の拠点である大宰府で再起しようとしたのですが、
豊後国の緒方惟栄(これよし)らの襲撃を受けて海上に逃れました。
清盛の父忠盛は肥前国神崎荘預所の地位を利用し、大宰府を通さない
私貿易によって財を蓄え、大宰大弐となった清盛は、これを足がかりにして
大輪田泊を整備し、日宋貿易を拡大し勢力を伸ばしました。
このように大宰府は平家一門栄達の舞台としても登場します。
平氏は桓武天皇の流れを汲んでいましたが、数代の間は受領にとどまり、
宮中への昇殿も許されていませんでした。一介の田舎武士にすぎなかった平氏が、
なぜ政治の中枢へ進出することができたのでしょうか。
そこには清盛の祖父正盛と父忠盛の才覚と努力がありました。
ここで『平家物語』の前史となる正盛と忠盛の活躍をご紹介させていただきます。
正盛は伊勢・伊賀国の所領を本拠地とする武士です。
永長二年(1097)に伊賀の所領を白河上皇の亡き皇女提子(ていし)内親王の
菩提所六条院に寄進し、上皇から恩寵を得て、受領を歴任する一方、
院の北面の武士(院御所の北に詰める警護の武士)の武士として
御所の警護などにあたりました。
白河上皇は提子内親王をことのほか可愛がっており、
21歳の若さで内親王が亡くなった2日後には、近臣が止めるのも聞かず
出家して法皇となったことからもその悲しみがうかがえます。
六条院がこのような思いのこもったお堂ですから、正盛の所領寄進に
上皇が喜んだのはいうまでもありません。正盛の上皇への巧妙な接近策ですが、
名もない武士がどのような縁で所領を寄進することができたのでしょうか。
上横手雅敬氏は「正盛は祇園女御や院近臣の藤原顕季(白河上皇の乳母子)に
仕えたことから、この二人が正盛を白河院に結びつけ、
平氏を世に出した人々である。」と述べておられます。(『平家物語の虚構と真実』)
そして、天仁元年(1108)正盛は出雲で反乱を起こした源義親を討って
一躍武名を挙げ、この功によって但馬守に任命され、伊勢平氏台頭の基礎を築きました。
平氏と九州のつながりは古く、元永二年(1119)正盛に肥前国(佐賀県)にあった
京都仁和寺の荘園、藤津荘の荘官平直澄追捕の宣旨が下り、正盛が郎従を派遣して、
直澄を討ちその郎党たちを京都に連行したことに始まります。この功により、
正盛は従四位下に昇進し、西海(九州地方全域)、南海道(紀伊半島、淡路島、四国)の
100人余の武士を従え、九州と深いかかわりができました。
その跡を継いだ嫡子忠盛も白河上皇に重用され、
大治四年(1129)には、山陽道(中国地方の瀬戸内海側)・南海道両諸国の
海賊追討使に起用され、見事この役目を果たします。
白河上皇が崩御すると、鳥羽天皇は崇徳天皇に譲位して院政を開始しました。
忠盛は備前守(岡山県東南部)だった天承二年(1132)、鳥羽上皇の
御願寺である得長寿院(とくちょうじゅいん)を建立し、上皇に寄進しました。
『平家物語・巻1・殿上闇討』は、この功により、地下の受領にすぎなかった平氏が、
念願の殿上人となったと平家栄華の始まりとして印象的に語っています。
平安時代、貿易船入港地は九州の博多でした。この博多を掌中にしたのが平氏一族でした。
宋の貿易船は博多湾に入ると、大宰府の出先機関である鴻臚館で交易を行いました。
11C半ばに鴻臚館が火災で廃絶されたあとの平安時代の終り頃、櫛田神社北側一帯に
チャイナタウンが出現し、その周囲には多くの日本人の商人や職人が家を構えました。
ここを商売の拠点として貿易が行われ、大宰府の貿易管理は後退しました。
長承二年(1133)、鳥羽院の所領である肥前国神埼荘(佐賀県神埼市)の
預所(現地管理者)だった忠盛は、その立場を利用して日宋貿易に関与しました。
博多に唐人船が入港し、太宰府の官人が出向いて訊問していたところ、
忠盛は対宋貿易の利益を横奪しようとして介入、鳥羽上皇の院宣であると偽った
下文(くだしぶみ)を出し、「宋の船は神崎荘領内に着いたのであり、官人の訊問には
及ばない。」と院権力をバックに貿易から大宰府を排除したことが知られています。
当時、忠盛は鳥羽院の院司で、後院領である神崎荘を知行し、
博多には神崎荘の年貢を保管し、積み出す倉敷がありました。
「後院領」とは院が直接管轄する荘園で、
他のものには決して伝領されない皇室の直轄荘園のことです。
なお、宋船は有明海に臨む肥前国神崎荘に入港し、
ここで宋の商人と平氏が交易を行ったという見解もあります。
保延元年(1135)四月、忠盛は再び海賊追討使に任命され、
八月には日高禅師を首領とする海賊70人を連行して京に凱旋しました。
源師時の日記『長秋記』によると、忠盛が捕えた70人のうち30人は本物の海賊で、
見物人の多い河原で検非違使に引き渡されましたが、残りは忠盛に従わないという
理由だけで連行され、人のいないところでこっそり釈放されたと記され、
裏側で談合があったことを匂わせています。
当時は朝廷に従わない在地の有力者も海賊とよばれ、
忠盛は海賊とみなされたくないから従う在地勢力を自らの家人として
組織して瀬戸内海を掌握し、その権力基盤を築いたと解釈されています。
日高禅師は寺社の荘園管理にかかわっていますから、
その過程で平氏と対立する何かの原因があったと思われます。
この海賊追討の恩賞によって、18歳になる清盛が従四位下に叙せられています。
保元三年(1158)大宰大弐(だいに)に任じられた清盛は、配下の者を大宰府に派遣し、
博多港を整備しています。冷泉津一帯(博多区川端町)に貨物を保管するための
倉庫を建て、その鎮守として肥前国(佐賀県)神埼荘から櫛田神社を勧請します。
博多の夏祭り祇園山笠は、櫛田神社の摂社祇園社に奉納される神事です。
また「博多どんたく」の起源は、博多を支配していた清盛の恩義に感謝して、
町人が始めた年賀行事の「松囃子(ばやし)」ともいわれています。
江戸時代には、松囃子の行列や仮装した町人が城内や町内を練り歩いたという。
当時は大弐になっても遥任(ようにん)といって現地に着任しないことが
多かったのですが、その後清盛の異母弟頼盛が大宰大弐に就くと、
これまでの慣習を破り大宰府に赴きます。貿易の利益の独占が目的でした。
この間、頼盛は広大な所領を持つ宇佐宮勢力との提携を図り、
原田種直と主従関係を結ぶなど九州における平家勢力の拡大に努めました。
鴻臚館の遺跡は、鴻臚館跡展示館として公開されています。
福岡市中央区城内1-1 TEL:721-0282
利用案内 : 9時~17時(入館は16時30分まで)
休館日:12月29日~1月3日 料金:無料
交通アクセス 地下鉄「赤坂」下車徒歩10分
西鉄バス「平和台」下車徒歩3分・「赤坂3丁目」下車徒歩5分
「櫛田神社」福岡市博多区上川端町1-41 「博多祇園山笠」は毎年7月1日の
飾り山笠公開から 15日早朝の追い山まで、福岡の博多部を中心に行われます。
JR「博多駅」から地下鉄「祇園駅」下車徒歩5分
得長寿院跡(平忠盛)
『参考資料』
高橋昌明「清盛以前 伊勢平氏の興隆」文理閣、2004年 日下力「厳島神社と平家納経」青春出版社、2012年
武野要子「博多」岩波書店、2000年 武野要子編「福岡 アジア開かれた交易のまちガイド」岩波ジュニア新書、2007年
高橋昌明編「別冊太陽平清盛」平凡社、2011年 下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社、2001年
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書、1994年 佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房、1995年
「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年
県史41「佐賀県の歴史」山川出版社、1998年「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年