平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




大里(だいり)の中心街にある御所神社は、平家ゆかりの柳の御所跡と伝えられ、
屋島に渡る前の一時期、安徳天皇の仮御所があったところとされています。
昔は付近一帯を柳の内裏といい、のちに内裏村となり、
大里という現在の地名が生まれたといわれています。

風呂の井戸から柳の御所へ向かいます。


バス停柳御所



境内に入ると左手に「柳の御所」にちなんだ柳の木が植えられています。



 柳 の 御 所
 寿永二年(1183)木曽義仲に都を追われた平家一門は、
安徳天皇を奉じて西に逃れ、太宰府に落ちていった。しかし、ここでも、
豊後の豪族、緒方三郎惟義が攻め寄せると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城を経て、
豊前国柳が浦にたどりついた。この柳が浦が現在の大里のことで、古い記録に
「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと
伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。
  境内の歌碑は栄華を極めた都の生活をしのんで平家の公達が詠じた歌である。
都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立ち寄りてみよ
                       薩摩守 忠度
   君住まは ここも雲井の 月なるを なほ恋しきは 都なりけり 
                        大納言 時忠
      参考文献 平家物語(応永書写延慶本) 北九州市 北九州市教育委員会

境内には、清盛の弟忠度・時子の弟時忠・清盛の甥経正の歌碑があります。

平忠度 ♪都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立ち寄りてみよ

分けてきし 野辺の露とも 消へずして 思はぬ里の 月をみるかな 経正卿

君住めは こヽも雲井の 月なるを なお恋しきは 都なりけり    時忠卿



    


鳥居の近くに「安徳帝柳御所舊趾」の碑が建っています。

鳥居を潜った左側、大里郷土資料室の前に石室があります。
ここには安徳天皇、平宗盛の木像が祀られていましたが、
現在二体の木像は、戸ノ上(とのうえ)神社に安置され、ご神体となっています。

大里郷土資料室に入ろうと戸に手をかけてみましたが、あいにく閉まっていました。





明治天皇が熊本に来られた時、大里に造られた休憩所の建物がここに移され、
御所神社の拝殿として遺されました。
拝殿の右横には、御所丸稲荷が祀られています。


普段は閉じられている拝殿の扉がお正月に参拝すると、開けられていました。

明治天皇玉座の間
明治三十五年(1902)十一月十日(復路仝月十五日)明治天皇は熊本で行われた
  陸軍特別大演習を御統覧のため大里に上陸なさいました。
   このとき明治天皇は大里停車場構内に新築された休憩所にて熊本への往復とも
  しばらく御休憩になりました。この休憩所の建物を安徳帝旧蹟の
柳の御所拝殿として遺し、永く御聖徳を偲ぼうとの声が起り当時の村長、
村会議員の人達は九州鉄道株式会社と折衝を重ねた結果、
 遂に寄贈が決り、翌年ここに移築造営されたものであります。
 この拝殿には正面の屋根には「菊の御紋章」があがり内部左側には、
「玉座の間」があって当時の歴史を偲ぶことができます。

『源平盛衰記・巻33』には、平家一門が太宰府を追われ、
山鹿城から小舟に乗って柳ヶ浦に上陸したときの情況を次のように記しています。
「沢辺の虫の声弱りて、磯打つ波に袖濡らす柳という所に着かせ給いけり。
楊梅桃李を引き植えて、九重の都に少し似たりければ、
薩摩守忠度、都なる九重の内恋しくば柳の御所に立ち寄りてみよと詠める。」
京都の御所になぞらえて、周囲に柳・梅・桃・李(すもも)を植え、
内裏を造営しようとしましたが、土地が狭い上に資金を調達できず、
敵が攻め寄せるとの情報に再び
海上へ漕ぎ出しました。

「柳の御所には、七箇日渡らせ給ひける程に、又惟栄(義)寄すると
聞えければ云々」と『盛衰記』にあり、僅か一週間の滞在であったことが知れます。

 
緒方軍が攻め寄せたため、夜通し舟を漕いで一門が上陸した
「柳ヶ浦」には、二つの説があります。一つは北九州市門司区大里、
もう一つは大分県宇佐市柳ヶ浦です。
宇佐の柳ヶ浦は、芦屋の山鹿城から関門海峡を通って100㎞以上もあり、
一晩でそんなに遠くまで逃げるのは、とても無理のように思われます。
風呂の井戸・風呂の地蔵・不老通  
平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)  
『アクセス』
「御所神社」北九州市門司区大里戸ノ上1-11-25
JR門司駅 から徒歩6分、「柳御所」バス停から徒歩1分。
『参考資料』
「郷土資料事典 福岡県」ゼンリン、1998年 新定「源平盛衰記」(第4巻)新人物往来社、1994年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 「検証日本史の舞台」東京堂出版、2010年
渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年



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安徳天皇を擁して都落ちした平家一門は、寿永2年(1183)8月、
九州に逃れ太宰府に拠点を定めようとしましたが、
豊後の豪族緒方惟栄(義)に追われ、山鹿城(遠賀郡芦屋町)より海路、
夜通しかかって柳ヶ浦(現在の門司区大里)に渡りました。

一行は旅の疲れをいやすために泉から水を汲んで風呂水に用いたことから、
この辺一帯を「風呂」と呼ぶようになり、「風呂」が「不老(フロウ)」となり、
現在では、「不老通り」にその名を残しています。

JR門司駅南口と「不老の由来」説明石碑。







柳町3丁目の交差点付近の陸橋から「風呂の井戸」辺を撮影。

「高田二丁目」バス停。

「風呂の井戸」は、仏壇店の隣にあります。





風呂の地蔵堂。

大里(だいり)は、現在の門司区柳町の海岸沿いの地帯にあたります。
この地に平家一門が柳の御所を構えたことにより内裏(だいり)と呼ばれました。
江戸時代には、内裏浦で異国の海賊が頻発し、朝廷から賊船平定の命を受けたため、
時の藩主が内裏の海に血を流すのは畏れ多いとして大里に変更しました。

室町時代の武将・今川了俊(りょうしゅん)も、京都から赤間関までの紀行文
『道ゆきぶり』に「此島のむかひは柳の浦とて、むかし里内裏のたちける所なるべし、
今はそこをだいりのはまともいふなり。」と記し、柳の浦がのちに「だいり」と
いわれるようになったのは、安徳天皇の「内裏」に由来するとしています。
柳の御所・御所神社 
『アクセス』
「風呂の井戸」福岡県北九州市門司区柳町2丁目10番
西鉄バス「高田2丁目」下車すぐ
または門司駅南口から徒歩約10分 
『参考資料』

「福岡県の地名」平凡社、2004年

 



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福岡県遠賀郡芦屋町の遠賀川河口を見下ろす山上に山鹿城跡があります。
平安時代末に標高45㍍ほどの丘陵にこの城を築いたのは、山鹿経政・秀遠でした。
現在は桜の名所として知られ、城山公園として整備されています。
大宰府を追われた平家一門は、山鹿城を経て門司区大里に仮御所を構えますが、
そこにも長く留まることはありませんでした。
再び瀬戸内海に漕ぎ出し讃岐の屋島を目指します。

JR鹿児島本線折尾駅前から北九州市営バスに乗ります。

石見神楽の流れをくむ折尾神楽は、北九州の気質に合うように
テンポ早く激しく舞うことで、郷土芸能として定着しました。



山鹿城へは芦屋橋でバスを下ります。

ひとつ手前の山鹿バス停で下り、
周囲の景色を楽しみながら芦屋橋を目指しました。


山鹿城遠望

芦屋は室町時代、茶の湯の名器として一世を風靡した芦屋釜の里です。

響灘へと注ぐ遠賀川

芦屋橋畔の「かなや公園」には、芦屋の歴史を紹介した説明板が設置されています。



川べりのヨットハーバーの駐車場に上り口があります。

ここの細い道を入っていきます。



この山鹿城跡は壇の浦の合戦に平家と運命を共にした山鹿兵藤次秀遠の居城であった。
昭和五十二年(一九七七)散策歩道工事中、南北朝時代の宝篋印塔や五輪塔などを発見した。
出土した墓石や石像は町立歴史民俗資料館裏に移し保存されている。(背面の碑文を要約しました。)

 秋山光清の歌碑(郷土史家)
雲の上に 今そかゝやく 西の海の 山鹿の城乃 弓張の月  光清

二の丸跡には、福岡藩主黒田長知の長子「従一位勲一等侯爵黒田長成」の書による
山鹿兵藤次秀遠之城址」側面には、
「蘆屋町立小学校職員児童建之大正十一年九月」と彫られた石碑、
傍には
「史蹟山鹿城址」の碑が建っています。




「山鹿城は朱雀天皇の天慶年間鎮西奉行藤原の俵藤太秀郷の弟
藤次によって築城され、以後代々山鹿氏の居城となり、
年を経ること二百四十年山鹿兵藤次秀遠が城主となった。
寿永二年七月(西暦一一八三)源氏に追われた平宗盛は、幼帝安徳天皇を
奉じて西国に落ち、さらに同年九月に大宰府に逃れる。
此時山鹿城主秀遠は一身の盛衰を顧りみず尊王の大義を体して
安徳天皇を迎え、この城にこもり一意専心天皇の為に忠勤を励んだ。
元暦元年(西暦一一八四)秀遠は平氏と共に屋島に出陣し忠烈むなしく
戦に破れ、壇之浦において山鹿氏は滅亡するに至ったのである。
山鹿氏滅亡の後は代々麻生氏の居城となった。
秀遠奉安徳帝到讃州八島笣(?)営内裏此時
九州四国群将悉背平氏唯秀遠蓋(?)力戦・所所
山鹿素行筆「山鹿家譜」に拠る」(碑文より) 

儒家・兵法家の山鹿素行は、筑前.芦屋の山鹿が祖先の地だとしています。



石段を上ると頂上の本丸跡です。 
眼下に流れるのが遠賀川、右奥に見えるのが響灘です。

山鹿秀遠は『菊池系図』によると、有力府官藤原政則を祖とした粥田経遠の子で菊池氏と同族です。
政則は九州兵頭の宣旨を受け、「兵頭(兵藤とも)」と称しました。
秀遠は父粥田(かいた)経遠の所領筑前国粥田荘のほかに叔父山鹿経政の所領
山鹿荘を継ぎ、本拠を山鹿荘(現在の福岡県遠賀郡芦屋町山鹿)に置いて
山鹿兵藤次(ひょうとうじ)秀遠と称しました。

粥田経遠は京都にのぼり、鳥羽上皇の武者所にも出仕していました。
そのころ上皇の院司(いんじ)であった忠盛(清盛の父)との
関係が生まれたと推測されています。

 宇治拾遺物語 巻9の5』には、山鹿恒正(経政)が有力郎党の政行の
法事を営んだところ、政行の同輩が100余人も集まったという話を載せています。
有力郎党だけでも100余人いたということは、経政は千騎以上の軍勢を
編成できたと推測でき、またその名が都にまで聞こえていたことが知れます。
このことからも経政の跡を継いだ山鹿秀遠の軍事力が推し量れます。

山鹿荘・粥田荘ともに遠賀川流域にあり、秀遠の勢力は遠賀川一帯に及び、
その居城である山鹿城は遠賀川右岸河口に位置する水陸交通の要衝にありました。

 藤原一族の山鹿氏と大蔵一族の原田氏は、11C初頃から大宰府上級府官の
地位を世襲していました。また菊池氏、板井氏、宇佐大宮司家なども
彼らと姻戚関係にあり、互いに深いつながりをもっていました。
彼らは平家という大きな力を背景に、有力府官、在庁官人として
北九州一円に勢力を広げていたのです。

 山鹿秀遠は壇ノ浦合戦では、山鹿水軍を率いて平家舟戦(ふないくさ)の
先陣を務め、九州一番の強弓の威力で、緒戦に義経軍を破っています。
壇ノ浦の敗戦後、鎌倉幕府によって領地は没収され、
宇都宮左衛門尉家政がその旧領を与えられ、
彼はのちに姓を山鹿と変え、つぎに麻生と名のっています。

『巻8・緒環(おだまき)の事』『巻8・太宰府落ちの事』によると、
豊後国(大分県)は後白河法皇の配下、鼻が大きいので鼻豊後と呼ばれた
藤原頼輔(よりすけ)の知行国です。都落ちした平家が大宰府に下ると、
頼輔は法皇の意を汲み、目代として現地にいた息子頼経に
「平家に従ってはならぬ。彼らは法皇にも見放された落人である。
すぐに追放せよ。これは法皇の命令である。」との書状を送りました。
この旨、緒方三郎惟栄(義)に下知すると、惟栄(これよし)はこれを
院宣だといって九州の主な武士たちに触れ回り、平氏追討に立ち上がりました。
このことは一門の耳にも入りましたが、平大納言時忠(時子の弟)は、
「惟栄は小松殿の御家人であり、平家からかねて重恩を受けた身、
小松殿のご子息の誰かが説得なさるべきであろう。」と
惟栄を説き伏せることができるものと高をくくっていました。

重盛の次男資盛(すけもり)が緒方惟栄を説得する使者に選ばれ、
九州の事情に詳しい平貞能(さだよし)とともに豊後国に出向きました。
重盛の嫡男は維盛ですが、富士川合戦・倶利伽羅合戦で惨敗して勢力を弱め、
法皇と親密な関係にあった資盛や重盛の腹心であった貞能が
適任と緒方三郎との折衝に派遣されたのです。
資盛は小松家と惟栄の主従関係に期待し、あれこれと説得しますが、
惟栄はこれに応じる様子は全くなく彼らを追返します。それどころか
次男の二郎惟村を大宰府に遣わし、平家に九州から出ていくよう迫ったので、
時忠は惟栄らの忘恩をなじりました。惟村からこの報告を聞いた惟栄は立腹し、
「こはいかに、昔は昔、今は今。」と言い放ち、三万余騎の軍勢を差向けました。

このような大軍が相手ではどうにもならず、一門は激しい雨の中、
安徳天皇を手與に乗せ、建礼門院はじめ女房らは徒歩(かち)はだしで
取るものもとりあえず逃げ出します。住吉神社、筥崎宮、香椎宮、
宗像神社を伏し拝みながらようやく海岸に出ましたが、女房たちの足から
流れ出る血が白い袴や着物の裾を紅に染め、砂浜は赤く変わりました。

軍勢を率いてお供に馳せ参じたのが、平家が九州に落ちてきた当時、
安徳天皇に館を提供していた原田種直です。しかし山鹿秀遠が数千騎を率いて
迎えにくるとの噂を聞き、自分がいては都合が悪かろうと途中から引き返しました。
種直は秀遠とは覇権争いがあり、不仲の間柄であったようです。
芦屋津(現在の遠賀郡芦屋)という所を通り過ぎる時には、「これは我々が
都から福原へ通うとき、見慣れた里(現在の兵庫県芦屋市)の名である。」と
どの里よりも懐かしく、感慨深く思うのでした。

秀遠は一門を山鹿城に迎え入れましたが、それも束の間、ここも安全な
場所ではありませんでした。山鹿へも敵の手が回り再び海上へ逃れることになります。
秀遠が用意した小船に分乗し、夜通し船を漕いで豊前の柳ヶ浦へ渡りました。

緒方三郎惟栄の平氏離反、何がそうさせたのでしょうか…。
惟栄は倶利伽羅・篠原合戦などで大敗し、義仲に都を奪われた平氏を見て、
もはや平家の世ではないと見限ったことや平氏一辺倒の原田種直・
山鹿秀遠・宇佐公通・坂井種遠などの勢力に妨げられ、先行きが見えない
領主的発展の道をなんとか切り開こうとしたものと思われます。
平家一門都落ち(緒方惟栄)  
『アクセス』
「山鹿城上り口」
JR鹿児島本線の折尾駅から北九州市営バス青葉台行「芦屋橋」下車(約40分)徒歩5分。

バスの本数が少ないのでご注意ください。(1時間に1~2本)
芦屋橋東詰を川に沿って南下した所に公園の駐車場があります。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)(下)新潮社、昭和60年、平成15年
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房、1995年 「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年
 日本古典文学全集「宇治拾遺物語」小学館、2008年「福岡県百科事典」西日本新聞社、昭和57年
 「平安時代史事典」(下)角川書店、平成6年
「日本史大事典」平凡社、1993年
 森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年









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「旅人」は、万葉集の代表的歌人大伴旅人にちなんで
名づけられた太宰府観光列車です。(通常の運賃で利用できます。)





今から1300年ほど前の奈良時代、遠の朝廷(とおのみかど)といわれた
大宰府は、都から赴任する多くの官人らで賑わいました。
その中で都の華やかな文化を持ち込んだ一人が旅人です。
当時、大宰少弐(次官)として九州にあった小野 老(おゆ)は
♪あをによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり と詠んで、
文字通り青色の瓦、朱色の柱で彩られた建物が建ち並ぶ都を懐かしんでいます。
ちなみに「大宰府」は、九州一帯を管轄する朝廷の出先機関としての役所を指し、
「太宰府」は天満宮や現在の地名に用いられています。

平安時代、大宰権帥(ごんのそち)として大宰府に左遷された菅原道真は、
望郷の思いを抱きながらも二度と都の土を踏むことなく59歳でその生涯を終えました。

九州での平家一門の足どりは諸本で異なりますが、語り本『平家物語』では、
大宰府に着いた一門は、まず道真の霊廟である安樂寺(現在の太宰府天満宮)に参詣し、
望郷の思いを歌に詠んでいます。この辺りの事情は、
平家一門都落ち(太宰府天満宮)の記事で述べさせていただきました。


それから朝廷の守護神と仰がれた宇佐八幡宮へ行幸し、大宮司公通の館を
御所にあて、社殿は一門の居所となりました。七日間参籠したその明け方、
宗盛の夢想に「平家に神の加護は及ばない。」との不吉な託宣を受け、
神に見放された思いで、一行は悲嘆に暮れながら大宰府に戻りました。
そうこうするうちに九月十三夜となり、月見をしながら忠度(清盛の末弟)、
経盛(清盛の弟)、経正(経盛の嫡男)が望郷の歌を涙ながらに詠みましたが、
やはり道真と同様に帰京はかないませんでした。

平忠度は♪月を見し去年(こぞ)の今宵の友のみや 都にわれを思ひ出づらむ
(去年の今夜一緒にこの月を眺めた友だけは、
都で私を思い出しているであろうか。)
 
平経盛は♪恋しとよ去年の今宵の夜もすがら 契りし人の思ひ出られて
(ああ悲しいことだ、去年の今夜、二人の仲は変わらぬと
夜すがら誓いあったあの人が思い出されて。)

 平経正は♪分きて来し野辺の露とも消えずして 思はぬ里の月を見るか
(はるばると分けて来た野辺の露のようなはかない命なのに
今までよく消えもせず、思いもよらぬこの筑紫の月を見ることだ。)

忠度、経盛の「こぞの今宵」は、菅原道真の『菅家後集』九月十日によるものです。
「去年の今夜清涼(せいりょう)に侍(じ)す 
秋思(しゅうし)の詩篇(しへん)独り断腸(だんちょう)
 恩賜(おんし)の御衣(ぎょい)今ここに在(あ)り
 捧持(ほうじ)して毎日余香(よこう)を拝す」

(去年の今夜私は宮中の清涼殿で天皇にお仕えしていた。
『秋思』という題で詩を作るよういわれ、私一人が痛切な思いをこめた詩を奉った。
その時、天皇から賜った御衣が今ここにある。
その衣を捧げ持って毎日その余香を拝している。)
道真は配流という憂き目にあいながらも、醍醐天皇のことを恨みに思わず、
その恩恵を思い起こしているとの内容です。

太宰府市には、万葉歌碑27基をはじめ、著名な歌人の歌碑や俳人の句碑が点在しています。
大宰府政庁跡南側で見つけた歌碑です。

やすみしし わが大君の 食(をす)国は 倭もここも 同じとぞ思ふ
 (大宰帥大伴旅人 万葉集巻6-956)
 大伴旅人が大宰府に赴任したばかりの時の歌です。
大宰少弐(次官)の石川足人(たるひと)が「大宮人が住んでいる
佐保山を懐かしくはありませんか」という趣旨の歌を詠んで旅人に
問いかけたのに対して、「大和もここ大宰府も大君がお治めになるご領地、
何も変りはないよ。」と答えたものです。

神亀2年(725)山上憶良(やまのうえのおくら)が筑前守に就任し、
その2年後、64歳の大伴旅人が妻の郎女(いらつめ)と家持(やかもち)を連れて
大宰帥(長官)として赴任しました。
この頃から天平2年(730)12月、旅人が大納言に昇進して
大宰府を離れるまで、九州筑紫の地に万葉文化が花開きました。

物部(もののべ)氏とともに武をもって大和朝廷を支えた大伴氏は名門氏族です。
旅人はその氏の長で、左将軍(さしょうぐん)、征隼人持節大将軍(じせつたいしょうぐん)
などを歴任後、突然、奈良の都を追われ大宰府に左遷されました。
万葉集の編纂に大きく関わったとされる家持はその長男です。

学校院跡近くにたつ子等を思ふ歌の歌碑。
瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食(は)めば まして偲はゆ
いづくより 来りしものそ
まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ
    反歌(はんか)
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも                
 筑前国守(ちくぜんのくにのかみ) 山上憶良(万葉集巻5-8022)


安田靫彦画 「憶良の家」 
家族を愛し、子供を何よりも大切にした憶良の姿が描かれています。

山上憶良は朝鮮半島の百済生まれといわれています。
百済が滅びたため、父親に連れられ日本に逃れ、苦学して遣唐使に抜擢された苦労人です。
帰国後、国司や皇太子の教育係を歴任した後、筑前の国司となり、
生い立ちの全く違う大伴旅人と出会いました。ともに老境の二人を中心に
少弐小野老(おののおゆ) 、沙弥満誓(しゃみまんせい) 、
大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)などが
筑紫の自然や望郷の思いを詠み、数多くの万葉歌が誕生しました。
それを後世の人々は「筑紫歌壇」とよんでいます。

沙弥満誓は造観世音寺(観世音寺を造る)別当を命じられ大宰府に着任し、
坂上郎女(旅人の異母妹)は、旅人が赴任早々に妻を亡くしたため、
旅人や家持(当時10歳)の世話をするために
大宰府にやってきました。彼女も優れた歌人でした。

天平二年(730)正月十三日(新暦の2月8日)、旅人の官邸で
「梅」を題とする歌宴、「梅花の宴(えん)」が盛大に行われました。
大宰府の官人や九州諸国の国司・官人らが招かれ、32首の和歌が詠まれました。

中国の楽府詩(がふし)に「梅花落(ばいからく)」という
遠く故郷を離れ辺境を守備している兵士たちの望郷歌があります。
妻を亡くし 鬱屈(うっくつ)とした日々を送っていた旅人は望郷の念も強く、
中国の詩文「梅花落」を背景に都から遠く離れた
鄙(ひな)の地である大宰府で「梅花の宴」を催したとされています。
大宰府展示館には、その様子を博多人形で再現した「梅花の宴」が展示されています。
旅人はこの翌年に帰京しましたが、まもなく67歳で亡くなったという。

この宴が開かれた旅人の邸があった場所は明らかではありませんが、
政庁跡のすぐ北西にある坂本八幡宮付近から蔵司(くらつかさ)にかけての
傾斜地一帯が小字内裏とよばれていることから、
その付近と推測されています。梅は中国からの渡来の花ですが、
中国文化にあこがれていた当時の人々に愛され、万葉歌に数多く詠まれています。

道真も梅の花をこよなく愛し、絶筆となった漢詩
「謫居春雪」(たくきょのしゅんせつ)にも梅が詠まれています。

大宰府にまるで白梅が咲いたかと見まがうほど降り積もった雪に、
中国の故事を重ね合わせ都への帰還を願った詩です。

大宰府展示館近くに建つ万葉歌碑。
大宰府政庁に隣接する「大宰府展示館」では大宰府の歴史をパネルで説明しています。

あをによし 寧楽の京師は 咲く花の 薫ふがごとく  今さかりなり
  小野 老(万葉集巻3-328)


さいふ参り・大宰府学校院・蔵司 
 平氏と大宰府(大宰府政庁跡)
  
『アクセス』
「大宰府展示館」太宰府市観世音寺4-6-1電話:092-922-7811
 休館日  
月曜 8月13日〜8月15日 12月28日〜1月4日 
開館時間 9:00〜16:30 入館料無料。
西鉄太宰府線「五条」駅下車徒歩17分、または西鉄天神大牟田線「都府楼前」駅下車徒歩15分。
市営バスまほろば号「観世音寺」より徒歩5分。
太宰府市コミュニティバス「まほろば号」一日フリー乗車券300円を利用すると便利です。
まほろば号」路線別時刻表(平成26年4月4日改正)/太宰府市

レンタサイクル「西鉄太宰府」駅 9時~18時「西鉄二日市」駅9時~17時で受け付けています。
料金一日500円 また返却は「西鉄都府楼」駅でも受け付けています。
500円/1日、電動アシスト付き自転車800円/1日
※お問い合わせは西鉄二日市駅まで TEL:092-922-2024
太宰府天満宮では、大伴旅人が、天平2年1月13日に催した有名な梅花の宴にちなみ、
毎年2月、市民が旅人や憶良に扮して万葉歌を詠う「梅花の集い」が開かれます。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年

「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年  犬養孝「万葉の旅」(下)社会思想社、1995年  
 杉原敏之「遠の朝廷 大宰府」新泉社、2011年 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書、2014年 
週刊朝日百科・世界の文学「万葉集」朝日新聞社、1999年  富田利雄「万葉スケッチ歩き」日貿出版社、2000年




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西鉄「五条」駅から北西に向かい、御笠川沿いに北上すると西鉄「太宰府」駅前に出ます。
駅前からは太宰府天満宮の参道が続いています。

太宰府天満宮は大宰府政庁跡から北東方向に2㎞ほどの場所にあり、
太宰府市役所は
この二ヵ所の中間に位置しています。太宰府天満宮には、
大宰府に左遷され、大宰府で亡くなった菅原道真が祀られています。

大宰府の中枢である四等官の規模は、長官の「帥(そち)」一人、
次官の「大弐(だいに)」一人と「少弐」二人、以下「大監(だいげん)」二人、
「少監」二人、「大典(だいてん)」二人、「少典」二人の計十二名です。
帥の相当位は従三位で、中央の八省の位よりも上でした。
大同元年(806)伊予親王が大宰帥になって以降、
帥には親王がなり、大宰府に来なくなりました。右大臣菅原道真が
大宰権
帥(仮の官位、ごんのそち)として左遷されたのは、延喜元年(901)のことです。

太宰府市役所。
市役所駐車場傍の植込みの中に建つ「さいふ参り」の説明板。

太宰府天満宮への参詣は、平安時代より都からの官人や文人などにより行われていましたが、
江戸時代からは「さいふまいり」とよばれ、庶民にも広がっていきました。
「さいふ」は、都から西にある都督府(大宰府)があった地、「西府」の意味もありました。

御笠川に架かる五条橋の付近は、宰府(さいふ)宿(現在の太宰府)の入口にあたり、
橋のたもとに三浦の碑が建っています。この碑は、伊勢の二見浦、紀伊の和歌浦、筑前の箱崎浦の
砂を取り寄せて清めた行事の記念碑として、文政13年(1830)に建てられたものです。
太宰府天満宮参詣の人々は、この碑のところで穢れを払ったのだといわれています。

五条橋の西方には、大宰府の五条大路の名残の道、政庁通りが伸びています。

御笠川の畔に建つ三浦の碑。

大宰府の周辺には、政所(まんどころ)、公文所(くもんじょ)、
蔵司(くらのつかさ)などの多くの役所がありました。
政庁通りの北側にあるこの広場は学校院跡です。田園の中に石碑と説明板がたっています。

中央政府は官吏養成のため中央に大学、地方に国学を設置し、大宰府には
府学校が整備されました。
学生は郡司など在地豪族の子弟に限定され、
府学校の教育水準はかなり高かったと推定されています。


「学校院跡
 学校院は、西国の役人を養成する機関である。大宰府政庁の東側にあるこの地区は、
小字名を「学業」ということから、学校院があったと考えられている。
  学校院では、博士を教官として、中国の「五経」「三史」等の書物を教科書に、
政治・医術・算術・文章など、役人として必要なことを学んだ。
古代の教育システムでは、通常は国(ほぼ現在の県にあたる)ごとに国博士がおかれるが、
筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の六国には博士はおかれず、
学生は大宰府で修学した。学生は、所定年内に必要な科目を修得した後に、
試験に合格すれば役人として採用される。天応元年(781)には約200人の学生が
大宰府に集まったとの記録があり、大宰府が学問の中心地としても
機能していたことを知ることができる。  太宰府市 」(現地説明板より)


 政庁の西側の丘の小字蔵司(くらつかさ)には、「蔵司跡」があります。
この役所では、大宰府管内諸国から収納された調庸(租税)の出納事務にあたり、
また倉庫を管理した所と考えられています。 

「蔵司地区官衙(かんが)
大宰府には、実務を行う19の役所があったことが知られている。
その多くは政庁の周辺に設けられていたと考えられる。
政庁の西側に位置する丘陵は、現在、字名から「蔵司」と呼ばれている。
「蔵司」は、もともと西海道(九州)九国三島(後に二島)の綿・絹などの
調庸(ちょうよう)物(税)を収納管理する役所である。
集められた調庸物は一旦ここに納められ、その後一部は都に進上された。
後方の丘陵上に礎石建物(倉庫)1棟が存在することは早くから知られていたが、
1978年・1979年に、この丘陵の前面地域が発掘調査され、
二重の築地(ついじ)と、その内部に建物5棟が新たに見つかった。
これらの築地や建物は、8世紀~11世紀前後にわたって営まれており、
「蔵司」を構成する建物の一部であることが明らかとなった。」(現地説明板より)
『アクセス』
「学校院跡」西鉄太宰府線「五条」駅下車徒歩15分、
または西鉄天神大牟田線「都府楼前」駅下車徒歩18分
市営バスまほろば号「観世音寺」より徒歩5分
『参考資料』
 杉原敏之「遠の朝廷 大宰府」新泉社、2011年「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
「特別史跡大宰府政庁跡」財団法人古都大宰府保存協会、2009年
   「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年

 



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大宰府は西海道とよばれた九州やその周辺の島々を治める古代最大の
地方の役所の名称です。また遣唐使などの往来を扱う対外交渉の窓口としても栄えました。
その中心となったのが都府楼(とふろう)の名で親しまれている大宰府政庁です。

大宰府政庁の跡です。付近一帯は大宰府跡として国の特別史跡に指定されています。
なお歴史上の役所は大宰府、地名や太宰府天満宮などについては太宰府と表記されています。
政庁の敷地は東西110㍍、南北211㍍あり、
中心にはその大きさをしのばせる巨大な礎石が残っています。
そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡が平面復元され史跡公園となっています。


当時、博多湾岸に「那津官家(なのつのみやけ)」が置かれ、
大宰府が設置されるまで、その役割を担っていましたが、天智天皇2年(663)の
白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅の連合軍に朝鮮半島で敗れ、
これをきっかっけにして、大宰府政庁の建設が始まりました。
大和朝廷は唐の侵攻を恐れ、さらに水城(みずき)や大野城・基肄(きい)城などの
大防衛施設を北部九州に築き、沿岸には防人(さきもり)を置きました。

階段を上がると南門跡です。そこから先に進むと中門がありました。
発掘調査により、大宰府は創成期を含め三回の建て替えが行われたことが明らかとなっています。
現存の礎石は藤原純友の乱後に再建された第三期のものです。
人物の大きさと礎石の大きさを見比べてください。

源平の戦乱で荒廃した後、再興され鎌倉時代にも、大宰権師(ごんのそち)
大宰大弐(だいに)が任命され太宰府は機能していましたが、
蒙古襲来後、その役割を終え完全に形骸化しました。

三基の碑が建っているところが大宰府政庁正殿跡です。
中央の「都督府古趾」の碑は、明治七年に乙金村の高原善七郎が自費で建立したものです。
左側の「太宰府址」の碑は地元の人々の働きかけで明治時代に建てられたもので、
碑面には、大宰府の由来が彫られています。右側の「太宰府」の碑は、寛政元年(1789)
福岡藩学問所の教授であった亀井南冥(なんめい)
が建立しようとしましたが、
藩の許可が下りず、大正三年、門下生の尽力で建てられました。
(石碑には、大宰府ではなく太宰府と彫られています。)

石碑の背後には、四王寺山(しおうじさん)が見え、その山頂には
大野城がそびえています。
この城は大宰府の北の守りとして、南の備え基肄(きい)城、
それに西北方の水城(みずき)という大堤防によって外郭を守護していました。
大宰府は都督府(ととくふ)と称しました。

天慶二年(939)海賊を取り締まる側であった藤原純友が
海賊を集めて純友の乱を起こし、大宰府を焼き打ちした後、
まもなく政庁は再建され、在地の有力豪族が府官(大宰府の役人)に任命され、
彼らが政治の主体となっていきます。
これら在地クラスの官人は11Cになると、武士化が急速に進んでいき、
12Cには武士に衣替えしました。源平合戦に参加した豊前(ぶぜん)の板井氏・
筑前の原田氏や筑豊の粥田(かゆた)氏らの武士団が形成され、
これら土着の有力武士を傘下に置くことで、平氏は大きく勢力を伸ばしました。

模型は平安中期の様子を復元したものです。
政庁の建物は、朱の柱に瓦を葺いた朝堂院形式を模したものでした。

大宰府政庁跡全景。(最初、大宰府は天智天皇の時代に置かれた対外防備の役所です。)

原田種直は、藤原純友の乱で勇名を馳せた大蔵春実の子孫です。
大蔵氏は土着し、大蔵氏嫡流の種直は府官(大宰府の役人)として、
平氏の北九州の地盤固めの要となって働きました。
大蔵一族の板井氏も在庁官人となり、種直のいとこにあたる坂井種遠の頃には、
京都郡城井(福岡県京都郡)の神楽城を本拠にして、
その所領は各郡内に広く分布しています。
種遠の娘は宇佐大宮司公通の子公房の妻となり、坂井氏は宇佐宮とともに
豊前国内における平家与党勢力の中心となっていました。

藤原一族の山鹿秀遠も11C初めごろから上級府官を世襲し、
父の粥田経遠は1000町にのぼる広大な領地を所有する筑豊の大勢力となっていました。
この大蔵・藤原一族は互いに婚姻関係を結んで勢力を強め、拡大していきました。

平氏は大社寺の掌握にも努めました。
頼盛が大宰大弐として赴任した時、香椎宮(福岡市東区)は頼盛の所領となり、
宗像(むなかた)大社の神主宗像氏は代々府官をつとめています。
宗像大社は平盛俊(平氏有力家人)が預所として守り、
平氏が両社を把握していました。両社はいずれも荘園領主である一方、
積極的に宋との交流や密貿易を活発に行っていました。
日宋貿易を積極的に促進した清盛の政策と両社の利害が一致したのです。
 

当時、朝廷は外国との交易を禁じていましたが、実際には、九州の武士たちは、
宋や朝鮮半島との貿易を盛んに行い、博多にはチャイナタウンがあったくらいです。
瀬戸内海や北九州で交易を行っていた肥前の松浦党なども平氏の統制下に入り、
壇ノ浦合戦では、山鹿・松浦党が平家方の先陣となって奮戦します。

宗像大社には、平家と宋との交易を伝える阿弥陀経石が置かれています。
清盛の嫡男重盛が宋へ砂金を送りその返礼として重盛没後に阿弥陀経石が
日本へ送られ、宗像大社へ届きました。しかし平氏滅亡のあとだったので
京都へ送ることなく、宗像大社に保存されているというものです。
正林寺阿弥陀経石 平重盛(2)  
『アクセス』「大宰府政庁跡」太宰府市観世音寺4-611
西鉄「都府楼前」駅下車徒歩約15分 無料駐車場は政庁跡入口左側にあります。
『参考資料』
県史40「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年 杉原敏之「遠の朝廷 大宰府」新泉社、2011年
 「特別史跡大宰府政庁跡」財団法人古都大宰府保存協会、2009年 
 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年
武野要子編「福岡 アジア開かれた交易のまちガイド」岩波ジュニア新書、2007年


 



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大宰府は『平家物語』では、「巻8・大宰府落」として記されています。
都落ちした平家は安徳天皇を奉じて大宰府に下ってきました。
平氏の拠点である大宰府で再起しようとしたのですが、
豊後国の
緒方惟栄(これよし)らの襲撃を受けて海上に逃れました。

清盛の父忠盛は肥前国神崎荘預所の地位を利用し、大宰府を通さない
私貿易によって財を蓄え、大宰大弐となった清盛は、これを足がかりにして
大輪田泊を整備し、日宋貿易を拡大し勢力を伸ばしました。
このように大宰府は平家一門栄達の舞台としても登場します。

平氏は桓武天皇の流れを汲んでいましたが、数代の間は受領にとどまり、
宮中への昇殿も許されていませんでした。一介の田舎武士にすぎなかった平氏が、
なぜ政治の中枢へ進出することができたのでしょうか。
そこには清盛の祖父正盛と父忠盛の才覚と努力がありました。

 ここで『平家物語』の前史となる正盛と忠盛の活躍をご紹介させていただきます。
正盛は伊勢・伊賀国の所領を本拠地とする武士です。
永長二年(1097)に伊賀の所領を白河上皇の亡き皇女提子(ていし)内親王の
菩提所六条院に寄進し、上皇から恩寵を得て、受領を歴任する一方、
院の北面の武士(院御所の北に詰める警護の武士)の武士として
御所の警護などにあたりました。

白河上皇は提子内親王をことのほか可愛がっており、
21歳の若さで内親王が亡くなった2日後には、近臣が止めるのも聞かず
出家して
法皇となったことからもその悲しみがうかがえます。

六条院がこのような思いのこもったお堂ですから、正盛の所領寄進に
上皇が喜んだのはいうまでもありません。正盛の上皇への巧妙な接近策ですが、
名もない武士がどのような縁で所領を寄進することができたのでしょうか。
上横手雅敬氏は「正盛は祇園女御や院近臣の藤原顕季(白河上皇の乳母子)に
仕えたことから、この二人が正盛を白河院に結びつけ、
平氏を世に出した人々である。」と述べておられます。(『平家物語の虚構と真実』)

そして、天仁元年(1108)正盛は出雲で反乱を起こした源義親を討って
一躍武名を挙げ、この功によって但馬守に任命され、伊勢平氏台頭の基礎を築きました。

平氏と九州のつながりは古く、元永二年(1119)正盛に肥前国(佐賀県)にあった
京都仁和寺の荘園、藤津荘の荘官
平直澄追捕の宣旨が下り、正盛が郎従を派遣して、
直澄を討ちその郎党たちを
京都に連行したことに始まります。この功により、
正盛は従四位下に昇進し、
西海(九州地方全域)、南海道(紀伊半島、淡路島、四国)の
100人余の武士を従え、九州と深いかかわりができました。

その跡を継いだ嫡子忠盛も白河上皇に重用され、
大治四年(1129)には、
山陽道(中国地方の瀬戸内海側)・南海道両諸国の
海賊追討使に起用され、
見事この役目を果たします。

白河上皇が崩御すると、鳥羽天皇は崇徳天皇に
譲位して院政を開始しました。
忠盛は備前守(岡山県東南部)だった
天承二年(1132)、鳥羽上皇の
御願寺である得長寿院(とくちょうじゅいん)を建立し、上皇に寄進しました。
『平家物語・巻1・殿上闇討』は、この功により、地下の受領にすぎなかった平氏が、
念願の殿上人となったと
平家栄華の始まりとして印象的に語っています。

平安時代、貿易船入港地は九州の博多でした。この博多を掌中にしたのが平氏一族でした。
宋の貿易船は博多湾に入ると、
大宰府の出先機関である鴻臚館で交易を行いました。
11C半ばに鴻臚館が火災で廃絶されたあとの平安時代の終り頃、櫛田神社北側一帯

チャイナタウンが出現し、
その周囲には多くの日本人の商人や職人が家を構えました。
ここを商売の拠点として貿易が行われ、大宰府の貿易管理は後退しました。

長承二年(1133)、鳥羽院の所領である肥前国神埼荘(佐賀県神埼市)の
預所(現地管理者)だった忠盛は、その立場を利用して日宋貿易に関与しました。
博多に唐人船が入港し、太宰府の官人が出向いて訊問していたところ、
忠盛は対宋貿易の利益を横奪しようとして介入、
鳥羽上皇の院宣であると偽った
下文(くだしぶみ)を出し、「宋の船は神崎荘領内に着いたのであり、
官人の訊問には
及ばない。」と院権力をバックに貿易から大宰府を排除したことが知られています。
当時、忠盛は鳥羽院の院司で、後院領である神崎荘を知行し、
博多には神崎荘の年貢を保管し、積み出す倉敷がありました。
「後院領」とは院が直接管轄する荘園で、
他のものには決して伝領されない皇室の直轄荘園のことです。
なお、宋船は有明海に臨む肥前国神崎荘に入港し、
ここで宋の商人と平氏が交易を行ったという見解もあります。

保延元年(1135)四月、忠盛は再び海賊追討使に任命され、
八月には日高禅師を首領とする海賊70人を連行して京に凱旋しました。
源師時の日記『長秋記』によると、忠盛が捕えた70人のうち30人は本物の海賊で、
見物人の多い河原で検非違使に引き渡されましたが、残りは忠盛に従わないという
理由だけで連行され、人のいないところでこっそり釈放されたと記され、
裏側で談合があったことを匂わせています。

当時は朝廷に従わない在地の有力者も海賊とよばれ、
忠盛は海賊とみなされたくないから従う在地勢力を自らの家人として
組織して瀬戸内海を掌握し、その権力基盤を築いたと解釈されています。
日高禅師は寺社の荘園管理にかかわっていますから、
その過程で平氏と対立する何かの原因があったと思われます。
この海賊追討の恩賞によって、18歳になる清盛が従四位下に叙せられています。

 保元三年(1158)大宰大弐(だいに)に任じられた清盛は、配下の者を大宰府に派遣し、
博多港を整備しています。冷泉津一帯(博多区川端町)に貨物を保管するための
倉庫を建て、その鎮守として肥前国(佐賀県)神埼荘から櫛田神社を勧請します。
博多の夏祭り祇園山笠は、櫛田神社の摂社祇園社に奉納される神事です。
また「博多どんたく」の起源は、博多を支配していた清盛の恩義に感謝して、
町人が始めた
年賀行事の「松囃子(ばやし)」ともいわれています。
江戸時代には、松囃子の行列や仮装した町人が城内や町内を練り歩いたという。

 当時は大弐になっても遥任(ようにん)といって現地に着任しないことが
多かったのですが、その後清盛の異母弟頼盛が大宰大弐に就くと、
これまでの慣習を破り大宰府に赴きます。貿易の利益の独占が目的でした。
この間、頼盛は広大な所領を持つ宇佐宮勢力との提携を図り、
原田種直と主従関係を結ぶなど九州における平家勢力の拡大に努めました。

鴻臚館の遺跡は、鴻臚館跡展示館として公開されています。
福岡市中央区城内1-1 TEL:721-0282
利用案内 : 9時~17時(入館は16時30分まで)
休館日:12月29日~1月3日       料金:無料
交通アクセス 地下鉄「赤坂」下車徒歩10分
    西鉄バス「平和台」下車徒歩3分・「赤坂3丁目」下車徒歩5分
「櫛田神社」福岡市博多区上川端町1-41 「博多祇園山笠」は毎年7月1日の
飾り山笠公開から 15日早朝の追い山まで、福岡の博多部を中心に行われます。
JR「博多駅」から地下鉄「祇園駅」下車徒歩5分  
得長寿院跡(平忠盛)  
『参考資料』
高橋昌明「清盛以前 伊勢平氏の興隆」文理閣、2004年 日下力「厳島神社と平家納経」青春出版社、2012年
 武野要子「博多」岩波書店、2000年 武野要子編「福岡 アジア開かれた交易のまちガイド」岩波ジュニア新書、2007年
 高橋昌明編「別冊太陽平清盛」平凡社、2011年 下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社、2001年
 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書、1994年 佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房、1995年
 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年
県史41「佐賀県の歴史」山川出版社、1998年「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年



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原田氏の祖は大蔵春実(はるざね)です。平安時代中期、
伊予国の日振島(愛媛県宇和島)を拠点に瀬戸内海全域から豊後水道にかけて
起こった藤原純友の乱で、官軍に本拠地を追われた反乱軍が
大宰府に侵攻してきた時、追捕使長官小野好古(よしふる)とともに
純友軍を討ったのが主典(さかん)の大蔵春実です。春実はその後土着し
「府中(大宰府)有縁の輩」と称され、子孫は府官を世襲します。
府官とは在地の有力豪族が任命される大宰府の役人で、
在地クラスの官人は十二世紀になると武士化していきます。

原田種直は怡土(いと)郡原田荘(福岡県糸島郡前原町)、
那珂郡岩戸(筑紫郡那珂川町)を本拠に平氏家人となり、
姓は官職により大蔵とも、居住地により原田とも岩戸とも称します。
種直の妻は①清盛の嫡男重盛の養女、
②清盛の異母弟頼盛の娘(『朝日日本歴史人物事典』『海と水軍の日本史』)、
③父が頼盛に仕え、母は院の御所に仕えていた善子(よしこ)
(『源平海の合戦』)と諸説あります。


筥崎(はこざき)の油座と貿易港の今津を支配し、その所領は
三千七百町歩にも及んでいたと伝え、福原遷都(1180)に際しては、
清盛が後白河院を牢の御所に押込め、原田種直に
警固させたことが『平家物語』に見えます。
翌年2月には、肥後国の菊池高直・豊後の緒方惟栄(これよし)らの
謀反を平貞能とともに鎮圧し、平宗盛の推挙によって
府官としては異例の権少弐に任命され、平家の鎮西支配の一翼を担いました。

寿永2年(1183)安徳天皇を奉じて大宰府に下った
平氏は落ち着く間もなく、緒方惟栄らに追われ、
四国に渡り讃岐の屋島に本陣を構えました。
一の谷に陣を布くまでに勢力を回復しましたが、
寿永3年(1184)2月、平家軍は一の谷合戦で敗れ屋島に退却しました。
しかしなお
瀬戸内海一帯の制海権を握っていました。

頼朝の命で九州に向かった源範頼率いる平氏追討軍は、
周防から赤間関に到着し、そこから海を渡り、平家を攻めようとしますが、
物資を平行盛軍に断たれ、兵糧米が絶え、船もないため、
平家軍を攻めあぐねていました。
武士たちは本国へ帰りたがり、侍所別当の和田義盛までもが
鎌倉へ帰ることを主張するという深刻な事態に陥りました。
そこへ豊後の豪族臼杵惟隆、緒方惟栄(義)、佐賀惟憲兄弟から提供された
軍船八十二隻や周防国の宇佐那木(うさなぎ)遠隆(とおたか)から
献じられた兵糧米の助けを得て、やっとの思いで渡海しました。
緒方一族は豊後の草原、久住や飯田の狩場で養われた
騎馬軍団だけでなく、海の民も掌握していたと見られます。

『吾妻鑑』によると、元暦2年(1185)正月、範頼からの飛脚が
鎌倉の頼朝のもとに到着し、兵糧が不足しているため
兵らが一致団結せず、大半が本国に逃げ帰ろうとしていると報告しています。
平行盛は
清盛の次男である基盛の嫡男です。
父が早く亡くなったため伯父の重盛に養育されました。

元暦2年(1185)2月1日、ようやく豊後国に上陸した範頼軍の東国の
一騎当千のつわもの、北条義時や小山朝政、渋谷重国らを筑前国の
蘆屋の浦(福岡県遠賀郡芦屋町)で迎え撃ったのが原田種直・その子
賀摩兵衛尉(かまひょうえのじょう)種益と一族の板井種遠らでした。

範頼軍の千葉常胤(つねたね)は老いをものともせず、
加藤景廉(かげかど)は重病の身であることも忘れて戦い、
下河辺(しもこうべ)行平は先陣の功を挙げようと、甲冑を売って
小舟を買い取り、北条義時、渋谷重国らとともに最初に海を渡りました。
この一戦で源氏軍は陸上での強さをまざまざと見せつけ、種直の弟
美気(みけ)三郎敦種は下河内行平に討たれ、種直は渋谷重国に射られ
原田勢は敗れました。この合戦に勝利した範頼軍は、平氏の地盤であった
長門・豊前・筑前を制圧します。これを蘆屋浦の戦いといいます。

一方、同年2月17日義経は、暴風雨の阿波国に強行渡海し、
屋島の平家を急襲、敗れた平家軍は瀬戸内海を西へと逃れ、
平知盛が拠点とする彦島に移りました。
 そして同年3月24日、最後の決戦壇ノ浦へと向かっていきます。

原田種直は平家都落ちの際、門司に上陸した一門を迎え入れ、
安徳天皇の仮御所を安徳台に築きました。
この時、安徳台を見下ろす位置にある
岩門(いわと)城に警固の兵が入ったと伝えています。

バス停「安徳」から裂田(さくた)神社へ立ちより、
そこから岩門城跡へ向かいました。

岩門城跡遊歩道入口1、5㌔の案内板。













説明板の原田種直を撮影しました。







「岩門城 (現地説明板より)
岩門城は、別名龍神山城・山田の城とも呼ばれ、山田、安徳、梶原の
三地区にまたがる標高195、4mの城山に築かれた山城です。
海賊・藤原純友を討伐し功があった大蔵春実の孫・
種光が岩戸縣(あがた)を賜り築城を始め、
延久五年(1073)種資(たねすけ)の時に岩戸城が完成しました。
 種資四代の裔・原田種直は、平清盛の信頼を得て、平家軍の与党として活躍し
治承五年(1181)には、平家の強い推挙により大宰少弐に任じられ、
安徳台の館に遷り住み、博多櫛田宮と姪浜祇園社に、太刀、神田、神馬などを
奉納し平家の安泰を祈願しました。寿永二年(1183)平清盛没後、
木曽義仲の進攻を恐れ「都落ち」された安徳天皇一行は、鎮西に下りました。
この時、原田種直は別所で天皇をお迎えに出て、安徳台の館を仮の御所としました。
今は、館の跡に「安徳宮」が祀られ、また「お迎え」という地名も伝わっています。

九州源氏方の追撃が迫り、安徳天皇は、山鹿(芦屋)・門司・屋島へと移り
平家軍は一時勢力を盛り返しましたが、一の谷や屋島の戦い、
寿永四年(1185)三月二十四日壇ノ浦で敗れ滅びました。
源範頼は、九州平家軍を追討し種直を芦屋・岩門城に破り、
種直は一族の多くを失い鎌倉に幽閉され、
その後に種直の旧領三千七百町歩を受けた武藤資頼(すけより)が入り
大宰府権少弐に任ぜられ、後に姓を職名の少弐に改めました。
安徳には、平家落人追討にまつわる「追い松」がありました。(以下略)
平成二十五年三月吉日 那珂川町商工会 那珂川町郷土史研究会」


三の曲輪、二の曲輪を経て、主郭へとつながり、その先には北の曲輪があります。



三の曲輪から二の曲輪へ





堀切








北の曲輪



那珂川町郷土史研究会による「岩門城の変遷」説明板。

北の曲輪は展望所となっています。そこからは那珂川町や福岡市が一望でき、
空気が澄んだ晴天の日には、遠く博多湾まで見えるという。
『アクセス』
「岩門城」福岡県筑紫郡那珂川町安徳
「岩門城上り口」博多南駅前バス停からコミニュティーバスかわせみ号「安徳線」に乗車。
「安徳」下車、上り口まで約3キロメートル、上り口から北の曲輪まで徒歩約30分。
または「南畑線」「通勤かわせみ線」に乗車「山田」下車 上り口まで徒歩約30分。

時刻表は下記のサイトで最新のものを確認してください。
那珂川町
http://www.town.fukuoka-nakagawa.lg.jp/
『参考資料』
 県史44「大分県の歴史」山川出版社、1997年「大分県の地名」平凡社、1995年
 「大分百科事典」大分放送、昭和55年「源平合戦事典」吉川弘文館、2006年
 森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 武野要子「博多」岩波書店、2000年 
 「朝日日本歴史人物事典」朝日新聞社、1994年 佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房、1995年
 「検証日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年



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原田種直の絵馬が裂田(さくた)神社にあるというので、安徳台から
岩門(いわと)城への途中に立ち寄りました。種直の絵馬は探せませんでしたが、
緒方三郎惟栄(おがたこれよし)の図柄を見つけました。


「安徳台入口」からコミュニティーバスかわせみ号に乗り「安徳」で下ります。









拝殿には数多くの絵馬が奉納されていますが、風化しそのほとんどが不鮮明です。

神殿の扉

緒方三郎惟栄(義)が本拠とした緒方館は、大分県豊後大野市緒方町にあります。
『平家物語』は「かの惟栄はおそろしき者の末にてぞ候ひける」として本体が大蛇であつた
大物主神の出自で、豊後国(大分県)の大神(おおが)惟基
の子孫だとしています。

平氏の大宰府掌握後、惟栄は平重盛(清盛の嫡男)と主従関係を結びますが、
源頼朝が挙兵した翌年の養和元年(1181)に肥後国の菊池高直・阿蘇氏や
九州武士
など広く兵力を動員し平家に反旗を翻しました。九州に下向した平貞能に
反乱は討伐されたものの、惟栄は再度謀反の機会をうかがっていました。
寿永二年(1183)七月に都を追われた平家が太宰府に到着すると、
安徳天皇は原田種直の館に入り、種直や山鹿秀遠の軍事力を背景に勢いを回復し、
宇佐大宮司公通(きんみち)はこれを支援しました。
『巻6・宇佐大宮司飛脚』によると、養和元年の反乱を都の平家に
いち早く飛脚で伝えたのも公通でした。
宇佐神宮発展のため、積極的に平家と結んで大宰府にも進出し、
大宰権少弐に任命され、さらに対馬守・豊前守にも任じられ、
北部九州は平家方の勢力によって占められていました。

これに対して後白河院は、九州における平家の地盤くずしを画策します。
院の息のかかった豊後守藤原頼輔(よりすけ)は、院の勅定(命令)だといって
平家を九州から追い出すように現地にいた
子息の頼経(よりつね)に命じ、
頼経は緒方惟栄に伝えます。
早速、惟栄はこれを院宣と称して
平家に九州退去を迫りましたが、平家はこれを拒否したため、
大軍を率いて太宰府を攻撃して太宰府を陥落させました。

平家一門を九州から追い払うと、惟栄は平家方の宇佐宮を攻撃し、
神殿に乱入して
神宝を奪い取り社殿を焼き払うなどの暴挙に及び、
宇佐神宮の黄金の
御正体(みしょうたい)を奪った罪で、
上野国(群馬県)沼田荘に流されましたが、翌年、平家追討の功により
恩赦を受け、西下し九州に上陸しようとしていた範頼に軍船を提供し、
範頼軍は蘆屋浦(遠賀郡芦屋町)で平家方の原田種直勢を破りました。
惟栄の活躍が見られるのはこの頃までです。

平家滅亡後、惟栄は頼朝と不和となった源義経に与し、義経が
九州に逃れようとした時、
領地の岡城(大分県竹田市竹田)に義経を
迎え入れようとしました。
しかし大物浦(兵庫県尼崎市)から出航した
一行の船は暴風雨で難破し、
惟栄の軍勢も散り散りになってしまいました。
惟栄は辛うじて帰国し佐伯に住んだとも、
帰国途上に病死したとも伝えています。


この緒方惟栄には、先祖の出生にまつわる恐ろしい伝説があります。

『平家物語・巻8・緒環(おだまき)の事』より、この伝説をご紹介します。
昔、豊後の片田舎に住む娘のもとに夜な夜な男が通ってきて娘は身ごもりましたが、
男は決して正体を明かしません。そこで母親の入れ知恵で男の狩衣の襟に針を綴付けて帰し、
娘が糸を辿って行くと、豊後国と日向国(宮崎県)との国境の姥岳(祖母山)中腹にある
岩屋に行きつきました。娘が声をかけると岩屋の中から大声で「汝がはらんだ子は、
九州・壱岐・対馬に肩を並べる者がない武士になろうぞ。」と答えます。
その声の主は喉に針を突きさされた五丈ばかりの大蛇でした。

そして娘が生んだ男の子は蛇のようなひび割れのある肌をしていることから
「あかがり大太(だいた)」と名づけられました。惟栄はその五代の子孫で、
大蛇は日向国で崇拝されている祖母山(そぼやま)南麓にある
高千穂神社のご神体だったということです。
緒方三郎惟栄館跡  

五条大橋、武蔵坊弁慶と牛若丸










裂田神社から原田種直の岩門城を望む。
『アクセス』
「裂田神社」福岡県筑紫郡那珂川町安徳
博多南駅からコミニュティーバスかわせみ安徳線約20分
「安徳」下車徒歩約15分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
 県史44「大分県の歴史」山川出版社、1997年「大分県の地名」平凡社、1995年
 「大分百科事典」大分放送、昭和55年「郷土資料事典大分県」人文社、1998年

近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年「源平合戦事典」吉川弘文館、2006年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年「大分県の不思議事典」新人物往来社、2007年 



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都を追われ大宰府まで落ち延びた平家は、この地に都を定めようとしましたが、
それも話題になるだけで実行できないありさまです。
当面、安徳天皇は原田種直の館に入り、ここを行宮としました。

一門の人々の家は野の中や田の中にあり、
歌に詠まれた大和国の十市の里そのままのひなびた風情です。
内裏は山の中にあったので、あの朝倉の木の丸殿も
こんなであったのかと思われて、かえって風雅なおもむきもあります。

続いて平家は宇佐八幡宮にも参籠し、八幡様のご加護を期待しましたが、
宗盛が夢に見た神の啓示は
つれないものでした。心細い思いで帰り、
月を見ては歌を詠み、都での歌会を思い出し涙にくれました。
『巻8・小手巻(おだまき)』

当時、大宰府の現地官僚の最高責任者大宰少弐(だざいのしょうに)を
務めていたのが原田種直でした。
種直の館は那珂川に面した台地の上に
築かれていました。現在、安徳台と呼ばれるその台地の上は
ほとんどが畑や野原となり遺構はありませんが、台地の中央南側に
安徳宮が祀られ、「お迎え」という地名も伝わっています。

安徳宮への途中、地元の人に道を尋ねたところ、運よくこの祠を造るのに
関わった方で、道しるべのない広い台地の上
を探すのは大変だろうと、
「安徳館」から車で案内して下さいました。




JR博多南駅前「かわせみ」バスのりば




バス停「安徳台入口」より安徳台を遠望
安徳台の広さは約10万平方メートル、高低差は30mあります。

安徳館の左手から上っていきます。






安徳天皇は広大な大地の一角に祀られていました。

到着したところで、カーナビで車の位置情報の確認をお願いしました。
(北緯33度29分26・01秒、東経130度25分37・46秒)

安徳宮の由来
祭神 安徳天皇(治承二年~寿永四年、1178~1185)
所在地 福岡県筑紫郡那賀川町大字安徳348
安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘徳子(後の建礼門院)との間に第一皇子として
誕生され、第八十一代天皇に即位されましたが、時を経ずして源平争乱が起こり、
寿永二年(1183)都を追われた平氏一門と共に筑紫に難を逃れられました。
 この頃、筑紫の豪族である原田種直は岩戸の庄(現在の安徳台)に城を構えていました。
種直は重盛の養女の婿で、平氏の信頼厚く、太宰の少弐という役職に就き
権勢を振るっていました。天皇が筑紫に下られた時は、大宰府に程近い種直の館が
仮の御所に当てられることになったのです。このことが後に「安徳」の地名の
起こりと伝えられています。この後天皇は平氏一門と共に四国の屋島に渡られ、
再起を計られますが、ついに寿永四年(1185)陰暦三月二十四日、
壇ノ浦で源義経の軍に敗れ、平氏滅亡の時、祖母の二位尼(清盛の妻時子)に
抱かれ入水されました。(平家物語・郷土誌那賀川より)

この安徳地区では、僅か八歳の短い生涯を終えられた幼少の安徳帝を悼み、
祠を奉ったのが、この地の「安徳宮」の起源と伝えられ、また、
新暦の四月二十四のご命日には、「天皇さまごもり」が現在に至るまで
綿々と引き継がれて安徳区民により執り行われています。

安徳区
那珂川町教育委員会 

◆十市の里 十市(とおち)は奈良県橿原市十市町。
更けにけり 山の端近く 月冴えて  十市の里に 衣打つ声
(『新古今和歌集』秋、式子内親王)
(夜はすっかり更けました。山の端近く月は冴えて、
遥か遠くの十市の里で衣を打つ音が聞こえてきます。)

◆朝倉の木の丸殿 
朝倉は福岡県朝倉郡の地名で、木の丸殿は
丸木のままで造った粗末な御殿のことです。

中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)が国政改革を進めていたころ、
朝鮮半島では情勢が大きく変わり、高句麗・新羅・百済の三国時代が
終わろうとしていました。660年、中国の唐と新羅の連合軍が百済を攻め滅ぼし、
この時百済再興を目ざす遺臣らから援軍を要請されました。

中大兄皇子の母斉明天皇は、68歳という老骨に鞭うって、援軍を送る準備のため
皇子らを引き連れて九州に下り、朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなのひろにわのみや)に
入りましたが、その三ヶ月後、兵を出す前にこの宮で崩御しました。

朝倉や木の丸殿にわがをれば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
(『新古今和歌集』雑歌、天智天皇)

(朝倉の木の丸殿に私が居ると、名乗りをしながら行くのは、
どこの家の子であろうか。)は、
当時東宮であったこの時の作と伝えています。
その後、中大兄皇子は即位することなく磐瀬宮(長津宮)へ遷り、
ほどなく斉明天皇の亡骸とともに飛鳥へ帰っていきました。
朝倉宮は現在の朝倉地域、磐瀬宮(いわせのみや)は、福岡平野の那津周辺に
置かれたという見解がありますが、二つの宮跡はまだ確認されていません。

『アクセス』
「安徳宮」福岡県筑紫郡那珂川町安徳 博多駅からJR博多南線に乗車し博多南駅で下車。
博多南駅からコミニュティーバスかわせみ安徳線約20分
バス停「安徳台入口」下車 安徳館まで徒歩約2分。
安徳館から安徳宮まで約1キロメートル。

時刻表は下記のサイトで最新のものを確認してください。
那珂川町
http://www.town.fukuoka-nakagawa.lg.jp/

『参考資料』 
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 
徳富徳次郎「平家物語全注釈(中)」角川書店、昭和42年
「福岡県の地名」平凡社、2004年

「歴史と旅 輝ける日本の女帝」(2001年9月号)秋田書店 
新潮日本古典集成「新古今和歌集」(下)新潮社、昭和63年 「新古今和歌集」(上)新潮社、平成元年 
「福岡県百科事典」(上)西日本新聞社、昭和57年 杉原敏之「遠の朝廷大宰府」新泉社、2011年

 





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 都を落ちた平家一門は、太宰府を目ざしましたが、九州への入口に当たる
「母字(もじ)関」が反平氏によって閉じられ(『玉葉』八月十五日条)
一門が太宰府に辿りついたのは、都を落ちてから一ヶ月以上もたってからのことです。
太宰府に到着した一行は安樂寺(太宰府天満宮)に参詣し、望郷の思いを歌に詠みました。

肥後国の菊池高直は反乱を起こして平貞能に討伐され、都に連れてこられました。
それからまもなく平家は都落ちを決行し、高直は渋々太宰府まで
同行してきましたが、肥後国に入る大津山の関は警戒が厳しいので
自分が先に行って開いてくると言い残したまま国に帰り、その後は
いくら呼んでも戻ってきません。この時点で状況を把握し平家を見限ったようです。
かつては平家に忠誠を誓った九州、壱岐、対馬の武士らも「すぐに参ります。」と
連絡をよこしながら一向にやってきません。
つき従うのは岩戸(福岡県筑紫郡)の原田(大蔵)種直ばかりです。

その頃、朝廷では平氏によって安徳天皇を連れ去られたため、代わりの天皇を
立てようとしていました。以仁王の遺児、北陸宮を擁した木曽義仲は、
この宮を皇位継承者に推しましたが、義仲の野望は実現しませんでした。
法皇の命により、故高倉院の尊成(たかひら)親王が閑院殿で即位して
後鳥羽天皇となり、都と地方に二人の天皇が存在することになりました。

平成27年の初詣は雪の太宰府天満宮でした。
年末に電車の切符を手配し日帰りで出かけましたが、予期せぬ
寒波に見舞われ、
雪が降りしきる中、太宰府から天満宮に向かいます。

花崗岩製の明神型の大鳥居(
鎌倉末期作)


雪にもかかわらず、境内は初詣の人たちで賑わっています。

本殿に向かって右側の飛梅は樹齢千年の白梅です。

太宰府に左遷される時、道真がこよなく愛した邸内の梅の木に別れを告げ、
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな と詠むと
一晩で京の都から大宰府に飛んできたという。

どこの天満宮にも牛の像があります

菅原道真が承和12年(846)乙丑年の生まれであることや
本殿創建の地が牛との縁により定められたことなどに由来しています。

江戸時代寺子屋の普及とともに、学問に秀でていた道真は、
学問の神としても信仰を集めるようになりました。
現在も受験生が多く参拝し賑わいます。

カメラのレンズを拭きながら撮影しました。


道真を祀る太宰府天満宮は、もともと道真の廟所安樂寺と一体化した
安樂寺天満宮でした。明治の神仏分離令で太宰府天満宮となり、
今日学問の神として多くの参拝者を集めています。
昌泰四年(901)左大臣藤原時平の讒言により、太宰権帥に左遷された
菅原道真は2年後に配所で失意のうちに亡くなりました。
『帝王編年記』『北野天神絵巻』によると、
道真の遺骸を筑紫国四堂のほとりに埋葬しようと、
大宰府政庁の
北東の方向に進んでいたところ、牛が突然動かなくなり、
仕方なくその場所を墓所と定め、埋葬しました。
これが安楽寺(太宰府天満宮)の始まりとしています。
その後、道真配流に関与した貴族が不慮の死を遂げ、また都で落雷などの
天変地異が続き、これが道真の祟りと恐れられ、朝廷は鎮魂のために、
道真を本官右大臣に復して正二位を贈りました。その後も安樂寺には
贈位、贈官の勅使が派遣され正一位太政大臣にまで至りました。
その背景には道真の曾孫である太宰大弐菅原輔正が道真の託宣と称して
これを巧みに利用し、安楽寺の発展を図ったとされています。

『平家物語・巻8・四宮即位』によると、平家一門は辛い流浪の旅の
一時を安樂寺で過ごし、
和歌や連歌を詠み神に奉納しています。

♪住み馴れし古き都の恋しさは 神も昔に思ひ知るらん 平重衡
(住み馴れた故郷である京の都を恋しく思う気持ちは、神となられた
菅原道真公も、昔のご経験からよくわかってくださることであろう。)と
再び都に戻れるよう祈願し、無実の罪で太宰府配流にあった道真と
義仲によって都を追われた平家一門の境遇が重ね合わされています。
『源平盛衰記』によると、この歌は平経正が詠んだとされ、
♪住みなれしふるの都の恋しさに 神も昔を忘れ給はじ 
文言が少し異なります。

「天満天神」の神となる道真の伝承は『北野天神縁起』に描かれていますが、
延慶本『平家物語』にも、かなりの紙面を割いて
それに似た内容の物語を取りあげています。

平家の人々は都から太宰府に飛んできた梅はどれであろうかと、
口々に言いながら見まわっていると、どこからともなく
123歳の童子が現れ、ある梅の古木にて
♪これやこのこち吹く風にさそわれて あるじ尋ねし梅のたち枝は
(これがあの東風に誘われて飛んできたという梅の古木の若枝です。)と
詠んだかと思うと消え去ってしまいました。
これは天神様の影向(ようごう)に違いないと一同頭をたれ、
祈願成就の思いを強くしたとしています。

平家一門の安樂寺入りは、平氏と同寺の結びつきの深さによるものです。
安能は清盛の弟頼盛が太宰大弐(だいに)であった仁安二年(1167)に
安樂寺21代別当に任じられ、平氏の太宰府政権に深く入り込みました。
平氏の拠点であった摂津国福原に別荘をもち、後白河法皇が清盛の
福原の別荘に行幸の折、公卿たちと同席し、平家都落ちでも
安樂寺に安徳天皇はじめ、一門を迎え入れています。
安樂寺別当は道真の孫平忠(へいちゅう)が任じられて以後、
代々菅原氏から選ばれ、安能の父菅原在長と兄在茂は、
僧都に任ぜられ、京都法勝寺の執行も兼任しています。

平氏が壇ノ浦で滅亡すると、源頼朝は平氏に与した安樂寺別当
安能僧都の罷免を要求しています。(『吾妻鏡』文治二年六月十五日条)
一方、安能は証拠文書を揃え、仏神事興隆の功績を挙げて弁解しましたが、
この問題が解決しないうちに急死しました。
頼朝は九州の大社寺勢力であった安樂寺を抑圧し、自分の推薦する
別当を任命して鎌倉幕府の支配下に組み入れようとした。とされています。
平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)  
後鳥羽天皇即位(閑院跡)  
『アクセス』
「太宰府天満宮」 太宰府市宰府4-7-1 
西鉄太宰府線「太宰府駅」下車徒歩約5分。
JR博多駅→徒歩3分博多バスターミナル→西鉄バス(約42分)西鉄太宰府駅
『参考資料』

「福岡県の地名」平凡社、2004年 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 「福岡県百科事典」西日本新聞社、昭和57年
 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年  

「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年 現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館、2008年 
新定「源平盛衰記」(巻4・平家大宰府に着く附北野天神飛梅の事)新人物往来社、1994年



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北九州市門司区にある柳の御所を訪ねる途中、
立ちよったお蕎麦屋さんから「豊前大里宿」の絵地図をいただきました。
その絵図に「安徳天皇上陸地」と記されているのを見つけ、
石碑でもたっていないかと急遽予定を変更し海岸に向かいました。

現門司区大里(だいり)は、大宰府を追われた平家一門が柳の御所を
設けたことにより内裏と呼ばれていました。
江戸時代に参勤交代が行われるようになると、内裏は下関渡海の宿場町として、
九州の諸大名をはじめ人々の往来で栄えました。その後、内裏浦で唐船の
抜荷漂流が頻発し、朝廷から異国賊船平定の命を受けたため、
時の藩主が内裏の海に血を流すのは畏れ多いとして大里に改めました。

下は海岸縁を拡大した図です。

絵図を頼りに安徳天皇上陸地の大里第一船だまりへ向かいます。

海岸沿いの国道199号線を進むと、門司港レトロ地区にある
船だまりの一角に「安徳天皇上陸地」の説明板がありました。

「明治天皇記念之松」
明治三十五年(1902)、明治天皇は熊本での
陸軍大演習視察のため、下関から大里に上陸し、梅木小路を経て
鉄路熊本へ出発しました。この碑は、明治天皇の上陸を記念して、
地元の人々が大正三年(1914)に松の植樹と記念碑を建立したものです。
碑は、長い間大里漁港の防波堤にありましたが、
平成十八年三月、ゆかりの場所近くに移設されました。

また、寿永三年(1183)木曽義仲に都を追われた安徳天皇と平家一門が、
この地より上陸され柳の御所に一時滞在されました。

「薩摩守忠度卿の歌」
都なる九重の内恋しくば 柳の御所に立ちよりてみよ  北九州市(説明板より)



大里海岸緑地より平知盛が砦を構えた彦島遠望。

北陸合戦で平氏軍に大勝利した木曽義仲が逃げる平氏を追って、
都をめざして近づいてきました。平氏は義仲との倶利伽羅・篠原合戦などで
壊滅的な打撃を受け、いったん西国に落ちて軍勢を立て直すことにしました。
安徳天皇・後白河院とともに都を落ちるつもりでしたが、院はいち早く察知し、
側近を伴って延暦寺に入りました。安徳天皇・後白河院それに三種の神器さえあれば、
都落ちしたとはいえ、平家は官軍として認められます。
院を逃がしたのは大失敗でした。

寿永二年(1183)七月二十五日朝、平氏は一門の六波羅・八条邸を焼き払い、
三種の神器を携え安徳天皇を奉じて都をあとにしました。
福原に立ちより一夜を過ごした後、九州に向かいましたが、反平氏勢力が門司を
封鎖していたため、備前国児島にしばらく留まり、ようやく八月末に九州に到着しました。

頼朝の挙兵以来、各地に反平家の動きが広がり、九州でも平家の没落を察してか、
肥後国菊池隆直が平家に叛き大宰府を攻めました。隆直をはじめとする
九州の反乱鎮圧のために、平氏重代の家人平貞能(さだよし)の軍勢が派遣され、
貞能は二年かかりやっと九州を平定し、都落ち直前に京に帰ってきました。
貞能は都での決戦を主張しましたが、大将の宗盛は一門の都落ちを命じました。
西国の情勢を実際に見てきた貞能は、九州を平定したといっても、
この時期、なお不安定であり勢力回復が困難であることをよく知っていたのです。
貞能に降伏した菊池隆直は貞能に連れられて上洛した時、たまたま一門の
都落ちに遭遇し、九州まで一行の案内役を務めることになりました。

九州は平家の地盤と考えられていますが、平家が大宰府に進出する以前、
頼朝の叔父鎮西八郎為朝は九州に渡り、若くして九州を実力で制圧し、朝廷の
任命もないまま、鎮西総追捕使(ついぶし)を名のり六年になったとしています。
その後、為朝は保元の乱で敗れ伊豆大島に流罪となりましたが、
九州は短い間とはいえ、源氏にもゆかりのある地でした。

平家一門都落ち関戸院(関大明神社)   
都落ちの一行、平貞能と出会う(鵜殿) 
平家一門都落ち(太宰府天満宮)   柳の御所・御所神社  
『アクセス』
第一船だまり」JR門司駅から徒歩約5分 
なお未見ですが、「明治天皇上陸記念碑」は、レストラン「ラ・メール」傍にあります。

『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
 森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 「福岡県の地名」平凡社、2004年
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 

 



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