待宵小侍従の墓は、御所池の西側、名神高速道路下り線の傍にあります。
もとは名神高速道路の上下線の間にありましたが、
名神高速道路の拡張工事に伴い、平成7年現在地に移されました。
高速道路がつく以前もこの史跡は、上下線の間に在った時と同じ位置の
田圃に囲まれた小高い所にあり、
ずっと以前は、墓や碑は松3本に囲まれていたという。
平成20年3月、顕彰碑の周辺は整備され、新たに説明板が設置されました。
慶安2年(1649)高槻城主となった永井直清は、
翌年春3月、小侍従の庵趾に顕彰碑を建立しました。
碑文は儒学者の林羅山で小侍従の事跡が刻まれていますが、
現在、一部剥離しています。
待宵小侍従の墓
墓前に広がる御所池
待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の
女流歌人で、太皇太后宮小侍従・大宮小侍従とも呼ばれ、
石清水八幡宮別当・紀光清の娘、母は歌人の小大進です。
小侍従は、太政大臣藤原伊通(これみち)の子中納言藤原伊実の妻となり
一男、一女をもうけますが、39歳ごろ夫と死別。
二条天皇に出仕し、その崩御の後は皇后である多子に仕えました。
多子の実家徳大寺家には実定、実家など歌人が多く、
小侍従も藤原俊成、定家など多くの歌人と交流し一流歌人の仲間入りをします。
♪待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは
他6首とともに「新古今集」に入首、「千載集」など勅撰集には
計54首選ばれ、家集「小侍従集」があります。
その後、高倉帝にも出仕しますが58歳頃出家し、男山中谷に庵を結び、
晩年には、島本町桜井に天台系の寺庵「真如院」を建て住んだといわれています。
真如院は、その後応仁の乱の兵火にかかり廃絶したという。
(兄・清水日向守光重がこの地に住んでいたとも)
待宵小侍従と呼ばれたわけは、『平家物語・巻5』月見の事の章段によれば、
「ある時、多子の御所で、恋人の訪れを待ちわびる宵と、
恋人が訪れて来て帰る朝と、どちらが趣があるか」と尋ねられて小侍従は、
♪待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは
(恋人を待ちわびながら、ふけゆく鐘の音を聞く時の切なさに比べれば、
名残惜しい朝の別れに聞く鳥の声など物の数ではありません。)と答えたので、
待つ宵とニックネームがつき、
背が小さいので「待宵小侍従」という名でよばれた。」とあります。
源頼政とは恋愛関係にあり、頼政は女性歌人との贈答歌が多いのですが、
相手の名前が書かれているものが極めて少なく、
名前が記されていて頻繁に贈答歌のやり取りをし、
近い関係にあったと推測されるのが待宵小侍従です。
頼政は口が堅く、軽々しく私的なことを話題にする人物ではなかったようですが、
二人の家集にその片鱗がのぞかれます。
治承3年春、小侍従が出家したとき(この頃にはお互いに疎遠になっていたようです)
小侍従尼に成にけると聞いてつかはしける
♪我ぞ先出べき道に先だてゝ したふべしとは思はざりしを(頼政)
返歌
♪をくれじと契りし事を待程に やすらふ道も誰故にそは(小侍従)
小侍従出家に臨んでの心境を家集に
♪石清水きよき流れの末々に われのみ濁る名をすすがばや
頼政は少し遅れて同年11月28日76歳で出家しています。
西国街道を東へ行くと、新古今和歌の編纂を藤原定家に命じた
後鳥羽上皇の離宮跡地に水無瀬神宮があります。
定家も上皇の供をしてこの離宮を度々訪ねました。
神宮の北には北摂の山々や東大寺荘園跡。水無瀬川が
淀川にそそぎ、淀川の向こうには男山の山並みが連なっています。
♪見渡せば山もとかすむ水無川 ゆうべは秋となに思ひけむ 後鳥羽上皇
小侍従の墓付近には、・御所の内・御堂の前・六条殿などの
旧小字名が残り、周辺には貴族の別荘があったようです。
待宵の鐘・鬼くすべ(宝積寺)
巻五「月見の事」 (1)
『アクセス』
「小侍従の碑・墓」大阪府三島郡島本町桜井3丁目苔山
JR島本駅下車徒歩約10分 阪急電車水無瀬駅下車徒歩約20分
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
「日本古典文学大辞典」岩波書店 「平安時代史事典」角川書店 「日本人名大事典」(2)平凡社
多賀宗隼「源頼政」吉川弘文館 「西国街道」向陽書房 「山崎・水無瀬」大山崎町教育委員会
「史跡をたずねて」(改訂版)島本町教育委員会 「高槻の史跡」高槻市教育委員会
「皇子逃亡伝説」柿花仄