平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




画像は十五夜さんよりお借りしました
平清盛は周囲の反対を押し切って福原への遷都を強行し、
治承4年(1180)6月、
安徳天皇は頼盛(清盛の弟)の邸を
とりあえず仮の皇居として入ることになりました。

旧都(平安京)はさびれてゆきますが、今の都は賑やかになっていきました。

騒がしかった夏もすぎ、中秋の頃になったので、福原にいる人々は
名所の月を見ようと『源氏物語
の須磨・明石の巻にならって
須磨から明石へ行く人、
淡路島・北端の絵島、紀伊の吹上、
和歌の浦、白浦、摂津の住吉、難波、
播磨の高砂、
尾上(高砂の東)まで行って月を眺める人もいます。

住み慣れた都(平安京)に残った人々は、
伏見や嵯峨広沢の月を愛でました。


そうした中、徳大寺実定(さねさだ)は京の月が恋しくて、

8月10日すぎのある日、福原から京に戻ってきました。
京の都は荒れ果て、残っている家は門前は草深く、
庭は露に湿っています。
茅萱(ちがや)が疎らに生え、
虫の声は恨むように鳴き秋草茂る野辺となっています。

実定は姉(妹とも)の近衛河原の大宮多子の御所を訪れます。
随身に門を叩かせると、
中から女の人の声で
「どなたでございますか、
草の露を払う人もいない草深いこのような所へ」

「福原から大将殿がおいでになりました。」と随身が答えると、
「表門は錠がさしてあるので、東の小門からお入り下さいませ。」と
いうので、
あらためて東門へ周りました。

大宮(多子)は昔を懐かしんでおられたのであろう、
寝殿の蔀格子を上へ開けさせ琵琶を弾いていたところに、
弟の左大将実定卿がすっと入ってこられたので、
「まあこれは夢かや現かや、さあこちらへ、こちらへ」

『源氏物語』宇治の巻には、宇治八宮の姫君が秋の名残を惜しみながら
琵琶を弾いて夜すがら心を澄ましておられた時、
父の留守中に訪ねてきた薫が
垣間見ているのも知らず、
有明の月が出てきたので感動にたえかねられて、

月を撥(ばち)で招いたという情景がありますが、
今こそしみじみなるほどと大宮は納得するのでした。

この御所には待宵小侍従という女房が仕えていました。
小侍従はある時、大宮に「恋人を待つ宵と、
恋人が帰ってゆく朝と、どちらが趣深いか」と尋ねられて

♪待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは

(恋人を待ちわびる宵の空しくふけゆく鐘の音を聞くときの
切なさに較べれば、名残惜しい朝の別れに聞く
鳥の声など物の数ではありません。)
と宵を待ちわびる歌を
詠んだことから、待宵小侍従と呼ばれるようになりました。

実定は小侍従と月を眺めながら、
しみじみと物語をして夜を明かします。


『源氏物語』宇治十帖の橋姫巻
琵琶を弾いていた大君が明けゆく月を撥で呼び戻そうとする様子を
宇治八宮
(光源氏の異母弟、北の方を失い、
二人の娘・大君と中君とともに宇治に隠棲していた)を
訪ねた
薫大将(光源氏の息、実は柏木の子)が垣間見る美しい場面。

琵琶を弾いていた大宮が実定を招いた優雅な姿が、
源氏物語のこの場面を連想させ、大宮を交えて風流人の実定と
待宵小侍従とが月を眺めながら昔のことやら今のことやら語る様子は、
まるで王朝絵巻でも見るような雅な情景です。
大宮とは今は亡き、近衛・二条天両天皇の
后となった藤原多子のことです。
近衛帝崩御後、近衛河原(現、荒神橋の東辺)に
多子が棲んでいた御所があったという。
二代后多子の近衛河原大宮御所と頼政邸  
荒神橋附近の様子からは当時の面影を偲ぶことはできませんが、
すだく虫の音や鴨川の水は昔と変わることなく流れています。
巻五「月見の事」 (2)  
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 
別冊国文学「源氏物語を読むための基礎百科」学燈社
「兵庫県の地名」平凡社 「和歌山県の地名」平凡社 「平安時代史事典」角川書店
 


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待宵小侍従の墓は、御所池の西側、名神高速道路下り線の傍にあります。
もとは名神高速道路の上下線の間にありましたが、
名神高速道路の拡張工事に伴い、平成7年現在地に移されました。
高速道路がつく以前もこの史跡は、上下線の間に在った時と同じ位置の
田圃に囲まれた小高い所にあり
ずっと以前は、墓や碑は松3本に囲まれていたという。







平成20年3月、顕彰碑の周辺は整備され、新たに説明板が設置されました。



慶安2年(1649)高槻城主となった永井直清は、
翌年春3月、小侍従の庵趾に顕彰碑を建立しました。
碑文は儒学者の林羅山で
小侍従の事跡が刻まれていますが、
現在、一部剥離しています。





待宵小侍従の墓

墓前に広がる御所池

待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の
女流歌人で、
太皇太后宮小侍従・大宮小侍従とも呼ばれ、

石清水八幡宮別当・紀光清の娘、母は歌人の小大進です。
小侍従は、太政大臣藤原伊通(これみち)の子中納言藤原伊実の妻となり
一男、一女をもうけますが、
39歳ごろ夫と死別。

二条天皇に出仕し、その崩御の後は皇后である多子に仕えました。

多子の実家徳大寺家には実定、実家など歌人が多く、
小侍従も藤原俊成、定家など多くの歌人と交流し一流歌人の仲間入りをします。
♪待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは 
他6首とともに「新古今集」に入首、
「千載集」など勅撰集には
計54首選ばれ、家集「小侍従集」があります。

その後、高倉帝にも出仕しますが58歳頃出家し、男山中谷に庵を結び、
晩年には、島本町桜井に天台系の寺庵「真如院」を建て住んだといわれています。
真如院は、その後応仁の乱の兵火にかかり廃絶したという。
(兄・清水日向守光重がこの地に住んでいたとも)

待宵小侍従と呼ばれたわけは、『平家物語・巻5』月見の事の章段によれば、
「ある時、多子の御所で、恋人の訪れを待ちわびる宵と、
恋人が訪れて来て帰る朝と、どちらが趣があるか」と尋ねられて小侍従は、

♪待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは
(恋人を待ちわびながら、ふけゆく鐘の音を聞く時の切なさに比べれば、
名残惜しい朝の別れに聞く鳥の声など物の数ではありません。)と答えたので、
待つ宵とニックネームがつき、
背が小さいので「待宵小侍従」という名でよばれた。」とあります。

源頼政とは恋愛関係にあり、頼政は女性歌人との贈答歌が多いのですが、
相手の名前が書かれているものが極めて少なく、
名前が記されていて頻繁に贈答歌のやり取りをし、
近い関係にあったと推測されるのが待宵小侍従です。
頼政は口が堅く、軽々しく私的なことを話題にする人物ではなかったようですが、
二人の家集にその片鱗がのぞかれます。

治承3年春、小侍従が出家したとき(この頃にはお互いに疎遠になっていたようです)
小侍従尼に成にけると聞いてつかはしける
♪我ぞ先出べき道に先だてゝ したふべしとは思はざりしを(頼政)
     返歌
♪をくれじと契りし事を待程に やすらふ道も誰故にそは(小侍従)
小侍従出家に臨んでの心境を家集に
石清水きよき流れの末々に われのみ濁る名をすすがばや
頼政は少し遅れて同年11月28日76歳で出家しています。

西国街道を東へ行くと、新古今和歌の編纂を藤原定家に命じた
後鳥羽上皇の離宮跡地に水無瀬神宮があります。
定家も上皇の供をしてこの離宮を度々訪ねました。
神宮の北には北摂の山々や東大寺荘園跡。水無瀬川が
淀川にそそぎ、淀川の向こうには男山の山並みが連なっています。

見渡せば山もとかすむ水無川 ゆうべは秋となに思ひけむ  後鳥羽上皇

小侍従の墓付近には、・御所の内・御堂の前・六条殿などの
旧小字名が残り、周辺には貴族の別荘があったようです。
待宵の鐘・鬼くすべ(宝積寺)  
巻五「月見の事」 (1)  
『アクセス』
「小侍従の碑・墓」大阪府三島郡島本町桜井3丁目苔山 
JR島本駅下車徒歩約10分 阪急電車水無瀬駅下車徒歩約20分
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
「日本古典文学大辞典」岩波書店 「平安時代史事典」角川書店 「日本人名大事典」(2)平凡社
多賀宗隼「源頼政」吉川弘文館 「西国街道」向陽書房 「山崎・水無瀬」大山崎町教育委員会
「史跡をたずねて」(改訂版)島本町教育委員会 「高槻の史跡」高槻市教育委員会 
「皇子逃亡伝説」柿花仄

 

 

 


 
 
 

 

 


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