平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




藤原師長(もろなが)の謫居趾の碑が嶋川稲荷の境内に建っています。
謫居(たっきょ)趾は妙音通と呼ばれ、近くを流れる山崎川に架かる橋は
「師長小橋」と名づけられています。

師長がしばしば訪れた妙音通の北にある
「龍泉寺」には、
師長公画像・師長公記(二巻)が所蔵されています。




平清盛の嫡男・重盛が亡くなると、後白河法皇は重盛が知行していた
越前国を傷心の清盛からとり上げました。
この仕打ちに怒った清盛は、治承三年(1179)11月、クーデターを決行し
法皇を鳥羽殿に幽閉、側近を流罪にしました。太政大臣藤原師長も職を解かれ
尾張国井戸田(名古屋市瑞穂区)に流され、一年余をこの地で過ごしました。


師長小橋

藤原師長は左大臣藤原頼長の息子で、父が起こした保元の乱に連座し、
兄弟四人は配流となり、三人は都に戻ることなく失意のうちに没しましたが、

師長だけは九年後に都に帰り本位に復し、次々と昇進して
太政大臣まで上りつめました。そして再び井戸田に流されたというわけです。


 
師長は学問・芸能ともに優れ、琵琶と筝の奥義を極めて「妙音院」と称し、
今様は後白河法皇より伝授され、法皇のお気に入りでした。

「罪なくして配所の月見む」(無罪の身で流刑地の月を見たいものだ)
ということは、風流な人なら一度は願うことなので
この度の流罪を少しも苦にせず、師長は元気に配所へと赴きました。

白楽天も潯陽(じんよう)江のほとりに配流の日々を
送ったことに思いを馳せながら、
鳴海潟の潮路を遥かに眺め、
名月を眺めては、浦風の中で詩歌を吟じ、琵琶を弾き、和歌を詠んで、

のんびりと月日を送っていました。
ある時、当地の熱田神宮に参詣し、神に捧げるために得意の琵琶を弾き、
朗詠したところ、その音色に
神も感応し宝殿が大きく揺れ、
一座の者は、皆異様な感動に身の毛がよだったといいます。
「平家の悪行でこの地に流されなかったら、このような神のめでたい印を

拝むことはできなかったであろう」といって師長は感激の涙を流しました。
やがて清盛が死去したため、師長は帰京を赦されました。

師長はこの里の長横江氏の娘に形見として守本尊薬師如来と
白菊の琵琶を残しますが、現在の枇杷島まで師長を見送った娘は、
悲しみのあまり近くの川に身を投じます。
以後その地を枇杷島と名づけたといいます。(現在の名古屋市西区東枇杷町)

名古屋市西区東枇杷町26の「清音寺」は、娘の菩提を弔うために
建てられたと
伝えられ、寺号は娘の法名清音院からとられ、
寺宝に白菊の琵琶図を所蔵しています。
誓願寺・龍泉寺亀井水(源頼朝誕生地・亀井六郎重清邸)  
『アクセス』
「嶋川稲荷」地下鉄「妙音通」下車すぐ
亀井(きせい)山「龍泉寺」名古屋市瑞穂区井戸田町4-90
地下鉄「妙音通」下車 北へ5、6分

『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
「愛知百科事典」中日新聞社 
「日本名所風俗図会」(東海の巻)角川書店
「平安時代史事典」角川書店 「源平合戦事典」吉川弘文館

 

 

 




 
 
 
 
 
 
 

 



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