平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




悪源太らは大内裏の門から逃げ行く平家を追って六波羅に押し寄せますが、
その途中六条河原には、兵庫頭源頼政が三百余騎にてひかえていました。
「我らが負けたら、平家につこうと機会を窺っているとしか思われぬ。
憎い奴め!」と悪源太は、凄まじい闘志で頼政の陣近くまで迫ります。
「おい兵庫頭よ!源氏が勝ったら一門であるから内裏へ参り、平家が勝てば
六波羅へ参上しようと模様眺めをしているように見えるのは間違いか。
源氏のならいは二心ないものなのに、お前のお陰で家名に傷がつくのが
口惜しい。寄れ、勝負しよう。」と罵り頼政の陣中に割って入り、
縦横無尽に駆け巡り追い立て追いたて戦いました。

頼政配下の渡辺党の武士は、日頃は百騎千騎も相手に戦うと
云っていましたが、悪源太に攻められ寄って組む武士は一騎もいません。
その後悪源太は、六波羅門内へと駆け入りましたが、源氏勢は今朝からの疲れ武者、
平家は新手の武者が次々駆け出でて戦うので、さすがの悪源太も力つきて
鴨川を西へと渡り、六条河原を落ちていく様子が『平治物語』に語られます。

平治の乱で、頼政は当初義朝側に加わっていましたが、
二条天皇が平清盛の六波羅第にお入りになったことを知り、
戦闘開始前にこの陣を去り、独自の行動をとります。

その理由ははっきりしませんが、頼政は美福門院や二条天皇に近い存在で、
天皇の命に従い反乱軍を討つ立場にあり、義朝とは源氏同士の
連帯感はあるものの、摂津源氏の祖頼光から頼政は四代目、
一方の義朝は頼光の弟で河内源氏の祖頼信から五代目にあたり、
親近感はあっても、頼政の立場と利害を超えるものではなかったようです。

また武芸には優れていますが、政局に疎く政略に拙い義朝が、
清盛を相手に戦っても、勝ち目がないことも知っていたのでしょう。

義平が鴨川を渡り落ち延びるのを見て、義朝が「討ち死にせん。」と
駆け出すので鎌田正清はこれを押しとどめ「昔から源平両家弓矢をとっては
勝ち負けなしといいますが、中でも源氏をば、つわもの揃いと世間の人々は
申しています。ここで討たれ、主君の遺骸を敵の馬のひずめにでも
駆けられることがあれば口惜しい。ここは一先ず落ち延びなされませ。
身をお隠しになって御名ばかりあとに残しおいて敵に心配させるというのも
一考かと存じます。」と説得し無理に馬の口を北の方に向けたので、
義朝は仕方なく東国へと落ち延びることになります。
東国は朝廷の目も届きにくく、義朝の郎党たちも多くいるので
身を隠すこともできると鎌田正清は判断したのでしょう。

「汝に預けておいた姫はどうしたか。父が戦いに負けて落ちたと聞けば
どれ程心配するだろう。殺して来てくれ。」と義朝は涙をかくし
鎌田正清に命じます。馬の鞭をあげ六条堀川の館に戻ると、
誰もいない館の中に、持仏道で一人お経を読む姫君の声がします。

鎌田正清の来たのを見るや否や「軍はいかに」とお尋ねになる。
「父君は負けて落ち延びられます。」姫は「敵に捜しだされて義朝の娘よと
恥を見るのが、わらわには堪えられない。あはれ身分の高きも卑しきも
女の身ほど口惜しいものはない。残し置かれる身が悲しい。
頼朝殿は13歳であるが、男なれば父の供をして落ち延びられるのが羨ましい。
すぐにわらわを殺して父君の見参にいれよ。」と仰るので
「殿も姫が今仰った通りの仰せでございました。」と申すと、
それではとお経を巻いて納め仏前に向かい手を合わせて念仏を唱えれば、
鎌田正清は近寄って姫君を討とうとしますが、産屋の中から抱いて
お世話した姫をどうして愛おしくないはずがあろう。
涙にくれて刀のうちどころも分からず泣入れば、「敵が近づく早く、
早くいたせ。」と急き立てられ、仕方なく首をうち落としました。

14歳の姫の見事な最期、女とはいいながらさすが源家の血を引く娘。
正清は涙ながらに遺骸を深く埋めて馳せ戻り、姫の首級を義朝に見せると、
一目見るなり涙に咽び、手厚く弔いをしてくれるようにと頼ませ、
東山辺の知り合いの僧のもとへと届けさせます。
おりから降りしきる吹雪の中を、主従三十余騎
(実際は二十騎に満たなかった)で、おちのびることになりますが、
その前途にはさらに過酷な運命が待ち受けています。
源義朝敗走(碊観音寺 駒飛石)  
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 日下力「平治物語」岩波書店
日下力「平治物語の成立と展開」汲古書院 多賀宗隼「源頼政」吉川弘文館
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 


コメント ( 2 ) | Trackback (  )