平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




龍(竜)華越 (りゅうげごえ)は途中越ともいい、滋賀県と京都府の境にある
標高 374mの峠を越え、京都から大津市堅田を
結ぶ道をいいます。

出町から高野川左岸を北上し、八瀬・大原を経て
若狭街道(R367)を更に北へと進み、途中峠(大原小出石)を越え、
南東に下り近江国龍華へと入る道です。

また、山城・近江の国境付近の途中峠を越えることも龍華越といいます。

出町から八瀬大原、途中峠を経て若狭小浜を結ぶ道は、若狭街道といわれ、
中世後期から近世にかけて、小浜の海産物が洛中へと運ばれた道です。
なかでも鯖が多く運ばれたことから「鯖街道」とも呼ばれるようになりました。


出町橋の西詰袂に建つ鯖街道口の碑
平治の乱で敗走した源義朝は、この辺から高野川に沿って
八瀬大原へ至り、近江に至る途中峠を通り抜け、
還来(もどろき)神社に参拝した
と伝えられています。



義朝の悲劇を伝える龍華越(途中越)の峠道



大津市途中口




平治の乱に敗れた源義朝は、僅かな供と長男義平・次男朝長・
三男頼朝を連れ
京都を北へ落ち龍華越を通り抜け、
その麓で馬を休め還来神社に参拝したと伝えられています。

それから琵琶湖畔の堅田に出て東国へと向かいます。東国には義朝の郎党が
多くいるので、
何とか東国に辿りつけば身を隠すこともできるはずです。

ここで『平治物語』から「義朝龍華越」の一節をご紹介します。
一行が八瀬の松原(比叡山の西麓)へかかった所に「おーい」と呼ぶ声がするので
何者かと待つと、遠くへ落ちたはずの藤原信頼が追いつき
「もし軍に負けて東国へ落ちるときは、信頼も一緒に連れてくださると仰ったが
心がわりなさったか。」というので、義朝は「大臆病者めが、こんな一大事を
思いついて、わが身も滅び郎党も失ったわな。憎い奴め!」と
鞭で信頼の頬を
したたかに打ちました。
信頼は言葉もなく鞭の跡をさすりながら、後白河法皇のおられる
仁和寺に駆け込みましたが許されず、
六条河原で処刑され27歳の生涯を終えます。


先を急ぐ義朝主従の行く手に、近江との境に近い龍華越で棘のある木で垣を作り、
楯を垣のように並べて、延暦寺の悪僧2、300人が、待ち構えています。
一行が馬から下りて垣を打ち破りながら通る所へ、
僧兵らは容赦なく矢つぎ早やに矢の嵐を浴びせかけます。

ここで叔父陸奥六郎義隆を失い、朝長(ともなが)も太股に矢を射られます。

義隆は八幡太郎義家の六男で相模の毛利(もり)を治めていたので、
毛利六郎ともいいました。この時、生後五十日余の義隆の子頼隆は、
翌年下総国に配流され、千葉常胤の監視のもとに成長します。
治承4年(1180)頼朝が挙兵すると、千葉常胤はこれに加わり、

頼朝に頼隆を引き合わせます。

朝長は辿りついた青墓の宿で、この矢傷がもとで歩けなくなり、
父に討たれる哀れな少年です。
源義朝敗走(碊観音寺 駒飛石)  
源義朝敗走 (還来神社)
『アクセス』
「鯖街道の碑」出町橋西詰 京都市上京区河原町通今出川上る東入
市バス河原町今出川下車2分位

「途中口」江若バス「途中」下車  バスの本数が少ないのでご注意ください。
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
日本歴史地名体系「滋賀県の地名」平凡社 石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社
「近畿文化」№657 近畿文化会事務局 「源平合戦事典」吉川弘文館 



 

 
 
 

 

 
 



 



 
 
 


 

 

 



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