平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



大津市北西部に位置する環来(もどろき)神社は、平治の乱に敗れた
源義朝が東国へ敗走途中、鏑矢と馬に付けていた鈴を献じて
武運長久を祈願した社と伝えられています。
のち平氏との戦いに勝利した頼朝が神田を寄進し、
足利尊氏も神田50町を寄進したといいます。

それ以来、戦乱に旅行に無事戻れるよう願って人々が参詣するようになり、
特に第二次世界大戦中の参詣者は全国から集まったといわれ
当時バスなどの交通機関がなかったため、江若鉄道(JR湖西線)和邇駅から
神社までの六キロの道にはお参りする人の列が延々と続いたといいます。

この辺りは古来より龍華の荘(現在の途中・上龍華・下龍華)と呼ばれた
藤原氏代々の荘園があったところで、藤原百川(ももかわ)の娘
藤原旅子は
この地に生まれました。
その後、旅子は桓武天皇夫人となって淳和天皇を生み、
薨去する際に生まれ故郷の梛(なぎ)の木の下に埋葬するよう遺言し、
この地に祀られ、当社の祭神となっています。
社名は、旅子が再び故郷に還って来たことに由来するという。

JR和邇駅から環来神社へ

和邇川に架かる環来橋
JR和邇駅より徒歩1時間半ようやく鳥居が見えてきました。

JR堅田駅前へのバス乗り場



本殿

ご神木の椰の古木が残っています。



雪化粧の両部鳥居

雪囲いに覆われた社殿


義朝は龍華越を通り堅田へ出る途中、後藤兵衛実基(さねもと)を呼び、
都に戻り実基に預けておいた姫を育て、義朝の後世を弔わせるよう命じます。
後藤兵衛は、「妻に姫を大切にお育てするよう申しつけてあるので、
自分は何処までも殿のお供をして行く末を見定めたい。」というのを義朝は、
「思うところがある。早く早く。」と急かせて都へ帰らせます。

当時5歳だったという姫は、頼朝の同母妹で、母の里つまり
熱田大宮司藤原季範の屋敷が、六条堀川の源氏館の近く六条坊門(五条通)烏丸に
あったことから坊門姫と呼ばれ、後に一条能保(よしやす)の妻となる女性です。

一条能保は後白河院の同母姉上西門院の乳母の孫で、坊門姫の母方一族も

上西門院に仕える者が多かったこと等が二人を結びつけたようです。
結婚は平治の乱の八年後だったといわれています。
のちに後藤実基は養子の基清共々一条家の家人となります。





還来(もどろき)神社で武運を祈った義朝一行は、湖岸へと向い堅田の浦にでます。
義朝は、龍華越で僧兵の矢に首を射貫かれて死んだ叔父源義隆の首を見て、
「父為義に先立たれてのちは、八幡太郎義家殿のお子様で生きておられたのは
この方だけであったのに…」と涙をはらはら流し念仏を唱えながら、
馬の太腹がつかるところまで湖に入り首を深みへと沈めました。

湖を渡る舟を探しますが、あいにくこの日は波風が激しく舟は一艘も見当たらず、
引き返して東坂本から勢多(瀬田)へと落ちていきます。
勢多から中山道を抜けようというのです。
義朝は、「これから先、この人数で一緒に行くのは危ない、とても東国まで
行き着けまい。皆には暇をとらせるので、それぞれに落ち延びてくれ
東国でまた会おう。」というので「どこまでもお供します」と郎等らは言いますが
「思うところがある。早く早く。」と強く言い渡され、仕方なく
波多野二郎義通、
三浦荒二郎義澄、長井斉藤別当実盛、岡部六弥太忠澄、猪俣小平六範綱、
熊谷二郎直実、平山武者所季重、足立右馬允(うまのじょう)遠元、金子十郎家忠、
上総介八郎広常をはじめとして20余人、
思い思いに下っていきました。
 
残るは左馬頭義朝、長男悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、三男兵衛佐頼朝、
佐渡式部太夫重成、平賀四郎義宣(よしのぶ)、乳母子鎌田兵衛正清、
義朝の寵童金王丸以上、八騎の勢にて落ちていきます。
六波羅での討死を覚悟した義朝でしたが、生き抜いて雪辱を果たそうと、
自らが組織した武士団が多く存在する東国を目指すのでした。
(『保元物語 平治物語』)
源義朝敗走(頼朝落伍源内塚)  

『アクセス』
「還来神社」大津市伊香立途中町521-1
JR湖西線堅田駅から江若バス 細川行「還来神社前」下車 すぐ
(バスの本数が少ないのでご注意ください)
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 日下力「平治物語」岩波書店
「源平合戦事典」吉川弘文館 「近畿文化」№657 近畿文化事務局 
角田文衛「王朝の明暗」東京堂出版 「滋賀県の歴史散歩(上)」山川出版社
  
 





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