

東山七条から豊国廟の参道を少し上ると南側に
新日吉(いまひえ)神宮の石碑が見えます。

永暦元年(1160)10月、後白河上皇が法住寺殿の鎮守として、
山王七社の神々を近江日吉大社から勧請し、
新日吉神社と称したのを起こりとします。
創建当初は法住寺殿の東端、現在地よりやや南の
今熊野瓦坂(今熊野日吉町)にあったと伝えられます。平清盛が造営し、
後白河上皇の護持僧として親任の篤い昌雲が別当職に任じられました。
法住寺殿の近くに昌雲が里坊を開いたのが妙法院の始まりとされ、
以後、新日吉神社は明治までは妙法院の管理下にありました。

後白河院の参詣は36度に及び、「歴代皇室、日吉大神を尊奉せざる時は、
神罰をこうむるべきものなり」という願文を納めています。後鳥羽上皇はじめ
歴代上皇からも篤く尊崇されましたが、応仁の乱後、社運は衰微していきます。
寛永年間(1624~66)に妙法院宮堯然(ぎょうねん)法親王が
新日吉神社を再建し、豊国廟参道の中央に移しました。
明治30年(1897)、黒田・蜂須賀等の秀吉旧配下の人々が豊国廟の修築を行い、
翌年、参道の改修にともなって、新日吉神社は現在地に移転しました。

楼門

神楽殿


拝殿その背後に本殿
昭和33年(1958)10月、後白河天皇の神霊を法住寺陵より合祀し、
社名を新日吉神宮に改めました。境内には本殿、拝殿、神楽殿、楼門などがあり、
末社として飛梅天満宮や豊国廟破壊後、木下秀吉をひそかに祀った
樹下(このもと)社などがあります。祭神は、日吉大社の上七社と後白河法皇、
相殿には素戔鳴尊(すさのおのみこと)・大年神(おおとしのかみ)を祀ります。


創建直後からはじまった小五月会(こさつきえ)には、競馬や流鏑馬・
田楽などが催されました。一時絶えていましたが、現在は新日吉祭として
例年5月第2日曜日に行なわれます。神官による馬場御供の儀が執り行われ、
妙法院門主の法楽の儀の後、鳳輦(ほうれん)や甲冑武者、
稚児たちがにぎやかに氏子区域を巡幸します。

本殿脇に日吉大神の使いが猿であることにちなみ、
神猿(まさる)が安置されています。

京都御所の表鬼門にあたる猿ヶ辻の猿は金網に閉じ込められていますが、
なぜかこの社の阿吽の猿も金網に入れられています。
『アクセス』
「新日吉神宮」京都市東山区妙法院前側町451-1
市バス「東山七条」下車、東へ10分くらい
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂
梅原猛「京都発見」(2)新潮社 小松和彦「京都魔界案内」知恵の森文庫・光文社
京都新聞社編「京都・伝説散歩」河出書房新社