兵庫運河に架かる清盛橋の北側、松原通りの交差点に
清盛塚とよばれる十三重の石塔と琵琶塚の石碑が建っています。
兵庫運河に架かる清盛橋
清盛橋には、両側に「平家物語絵巻」や「源平合戦図屏風絵」の
ブロンズがはめこまれています。
清盛塚は市電松原線の道路拡張工事で大正12年(1923)、
北東へ11mの場所(現在地)に移されました。
この石塔は高さが約8.5mあり、台座には「弘安九年(1286)二月」と刻まれ、
平家滅亡から百年ほどたった鎌倉後期に建てられたということがわかります。
地元では大正になってから「清盛講」という集まりをつくり、
この石塔を平清盛の墓として毎年盛大に供養祭を行ってきました。
しかし移転の際に行われた発掘調査で、清盛の遺骨や遺品は発見されず、
地元の伝承を裏付けることはできませんでした。
ではこの石塔は何のために建てられたのでしょうか。
『地域社会からみた源平合戦』によると、
「この石塔は西大寺の叡尊が律宗の布教事業として造立したもので、
清盛とは直接関係がないとする説が有力である。清盛の墓ではないという
研究者の見解をめぐって、地元では数年にわたって議論した結果、
清盛の墓という伝承も地元の伝統文化として守っていくことになった。」とあり、
史実と伝承との折り合いが上手くついたようです。
石塔の周囲には有志によって整備された
八棟寺の無縁仏とされる多数の石塔が祀られています。
琵琶塚は以前清盛塚と小道をはさんで北西の地にあった
前方後円墳で、その古墳の形から一の谷合戦で討死した琵琶の名手
平経正の塚と呼ばれるようになりました。
石碑は明治35年、自然石を利用して有志が建てたもので、
道路拡張際、清盛塚とともに現在地に移されました。
経正は清盛の弟経盛の子で青葉の笛で知られる敦盛の兄にあたります。
移転の際に古墳は壊され、琵琶塚の石碑だけが移されました。
清盛像は柳原義達の作品で、神戸開港百年を記念して、
昭和47年(1972)、地元有志によって建てられました。
明石市源平合戦の史跡馬塚(経正最期)
経正都落ち(仁和寺)
『アクセス』
「清盛塚・琵琶塚」神戸市兵庫区切戸町 JR兵庫駅から南東へ徒歩15分くらい
『参考資料』
歴史資料ネットワーク「地域社会からみた源平合戦」岩田書院
歴史資料ネットワーク「歴史のなかの神戸と平家」神戸新聞総合出版センター
「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター