平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平家一門都落ち後、戦線から離脱した平維盛は、
まず高野山に上りかつて父重盛に仕えていた
斎藤時頼(滝口入道)をたずねて出家しました。
その後、入道の案内で山伏修験者姿に身をやつして
父が信仰していた熊野三山に向かいます。
京都から熊野へは、大阪を経て海岸沿いを田辺まで南下し、
田辺から山中に分け入り本宮へ向かうルートを中辺路とよび、
古来より多くの人々が歩いた道です。

維盛は人目をはばかりながら高野山からその道を辿る途中、
千里の浜の北、岩代王子の辺で狩装束の武士の一行に出会います。
維盛はもはやこれまでと覚悟を決めましたが、
一行は馬をおりてうやうやしく道をよけ、維盛の変わり果てた姿に
袖を濡らしたのでした。これは平家重臣の一人であった
紀伊国有田郡湯浅住人の湯浅宗光で、維盛主従を知っていたのです。

維盛は九十九王子(くじゅうくおうじ)を拝しながら本宮へ、
本宮からは熊野川を舟で下って新宮へ参拝し、そして
那智の滝で有名な那智山に参詣すると、那智ごもりの僧たちの中に
維盛を見知っている者がいて、「あのお方は小松殿の嫡男
維盛様だ。後白河法皇五十歳の賀宴が法住寺殿で行われた時、
桜の花を冠に挿して「青海波」を舞う華麗なお姿は
光源氏のようと讃えられて法皇の后・建春門院様より
褒美を贈られ、今に左大将になられるお方と思っていたのに、
おいたわしいことであるよ。」と修行仲間に語り涙ぐみます。
滝口入道に導かれて熊野三山の参詣を終えた維盛は、那智の海岸にある
浜の宮から一艘の小舟に乗り、広々とした大海原に漕ぎ出します。

王子とは、参詣道付近のさまざまな神を熊野権現の御子神として
組織したもので、大阪から熊野に至るまでの王子社を総称して
九十九王子とよびますが、実際の数ではなく社の数が多いという意味です。


熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)は、
九十九王子のひとつである浜の宮王子社跡に建ち、
古くは浜の宮王子とも渚の宮とも呼ばれ
熊野三所権現を祀る社です。
那智駅から国道42号線(熊野街道)を越えると鳥居が見えてきます。


浜の宮王子社前の浜から舟出した維盛

熊野三所大神社には、本宮の神の家津美御子神(けつみこのかみ)
那智の神の夫須美神(ふすみのかみ)・新宮の神の
速玉神(はやたまのかみ)の分霊が祀られています。
本来、この三神は別の神でしたが、平安中期以降、
三神を互いに祀りあう形をとって一体化しさらに仏教色が加わって
熊野三山とも熊野三所権現とよばれるようになりました。


平安後期の祭神像三体は国の重要文化財に指定されています。
神社の隣には補陀洛山寺があり、神仏習合の名残をとどめています。

浜の宮王子にあった森を渚の森といい、古来和歌によく詠まれた
名勝の森でした。境内にはいくかかえもある大きな楠が茂り、
かつてここに森があったことを偲ばせます。


渚の森には若宮の社殿と五輪塔がありましたが、
安政の大津波で流失してしまいました。

補陀洛山寺前の渚の森公園

渚の森公園の一画に建つ振分石

この板碑は熊野街道中辺路・大辺路・伊勢路の接点を示す

万治元年(1658)に建てられた「熊野街道振分石」です。
平安時代、浜の宮王子は中辺路・大辺路・伊勢路の集合点として重視され、
社格の優れた王子社であったことが伺えます。那智山参拝前には、
この王子で潮垢離(しおごり・海水でみそぎをすること)をして、

身を清めたといわれています。




熊野三所大神社の鳥居を出てまっすぐに進むと那智海岸に出ます。
補陀洛山寺のご住職から
「当時は鳥居の2、30m先は海だった。」と伺いました。


観音浄土をめざして那智の浜にやってきた人たちは、
小舟に乗って補陀落山へと旅立ちました。
平維盛那智沖で入水(山成島)  
平維盛供養塔(補陀洛山寺) 
維盛出家(高野山滝口入道旧跡清浄心院)
『アクセス』
「浜の宮王子社跡」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜ノ宮
 JR那智駅下車徒歩約5分
 『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 県史30「和歌山県の歴史」山川出版社 
五来重「熊野詣」講談社学術文庫 




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