平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




大山咋(おおやまくい)神社は、石井川上流の石井橋北東の山王町にあります。
かつてこの地は山間の林でしたが、戦後、住宅地となり社のすぐ傍まで住宅が迫っています。

祭神の大山咋命は山を支配する神様で「山王さん」と呼ばれ、
山王町は山王さんに由来する町名です。


一、御社名 大山咋神社(おおやまくいじんじゃ)
一、御祭神 大山咋尊(おおやまくいのみこと)
      素盞雄尊(すさのおのみこと)
          一、御神徳 山の守護神、滋賀県の日吉神社の御祭神と同一であります。
一、御祭日 例祭五月四日 五日  秋祭十月四日 五日
一、御由緒  創立年月不詳なるも第四十五代聖武天皇
神亀年仲(皇紀1384年)の勧請にて其の後
治承年間(皇紀1837年)平清盛福原遷都に際し五条大納言邦綱に
雪御所鎮護のため再建造営なさしめたと伝えられ、
古くより、日吉山王の社 として崇敬されております。
兵庫区山王町一丁目六ノ五 大山咋神社社務所



住宅が両側から迫った小さな社です。

拝殿

摂関家をしのぐ権勢を手に入れた清盛は、比叡山の鎮守日吉神社の参詣の際には、
平家一門はもとより、公卿たちを大勢お供に連れて行きました。
その壮麗さは摂関家の人たちの奈良の春日大社、宇治の平等院詣などは足元にも
及ばなかったと「巻6・経の島の事」は語っています。南都焼討では
東大寺・興福寺などを焼いてしまいましたが、本来の清盛は神仏を大切にしていたのです。

大山咋神社を造営した五条大納言邦綱は、藤原北家の流れを汲む下級貴族で、
始めは藤原忠通に、忠通の死後は清盛に仕えます。
なかなかのやり手だったようで諸国の受領を歴任して得た財力で諸殿舎を造営し、
その功により45歳で公卿、さらに正二位大納言にまで昇りつめました。
娘たちは六条・高倉・安徳天皇や建礼門院らの乳母を務め、
安徳天皇の乳母となった藤原輔子(すけこ)は平重衡(清盛の5男)の妻となり、
のち寂光院入りした建礼門院に仕えました。

現在の京都御所は南北朝時代に皇居となりましたが、
もとは邦綱の土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)があった所で、
短期間ですが六条・高倉天皇の御所として提供していました。
京都市東山区の小松谷正林寺の東、渋谷通り南には邦綱の山荘若松亭があり、
江戸時代中期まで、この山荘内にあった若松池の一部を残していました。
現在、池は跡形もありませんが、この地を清閑寺池田町とよんでいます。
平重衡を総大将とする南都攻撃に当たって、平家の軍勢が
この邸に集結したといいますから、かなり広い山荘だったようです。
邦綱の寺江の別荘は神崎川の河口にあり、福原への中継点として厳島御幸の
高倉上皇や安徳天皇他多くの要人が訪れ、川から直接邸内へ船に乗ったまま
入ることができる立派な建物であったと『高倉院厳島御幸記』にあります。
また「宇治河の亭」とか「宇治の新亭」などと呼ばれた邦綱の福原の邸宅は、
宇治川の畔、
熊野神社(中央区中山手通7丁目)の辺と推定され、

この社も邦綱によって再建されたと伝えられています。

頼朝・義仲の挙兵、四国・九州でも反平家の挙兵が相次ぐ中、
清盛が没すると、後を追うように邦綱は亡くなりました。
二人の病名は
マラリアではなかったのかといわれ、邦綱が同時に発病したのは
潜伏期間中に感染したと考えられています。

寺江亭跡(藤原邦綱別邸)  
『アクセス』
「大山咋神社」神戸市兵庫区山王町1丁目6−5  
JR「神戸駅」JR「三宮駅」 より市バス ⑦「石井橋」下車 北へ徒歩約8分

『参考資料』
高橋昌明「平清盛 福原の夢」講談社 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社
辻川敦・大国正美「神戸~尼崎海辺の歴史」神戸新聞総合出版センター
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂 


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