平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




阪神電車杭瀬駅で電車を降りて、国道2号線沿いに1㎞ほど東へ進みます。
左門殿(さもんど)川にかかる左門橋の信号を左折し、
800mほど北へ行くと塩野義製薬杭瀬事業所が見えてきます。
さらに進むと塩野義製薬の北端、

神崎川西岸に「寺江亭阯伝説地」の碑が建っています。
塩野義製薬建設の際、多くの礎石が出土し、この辺が五条権大納言
藤原邦綱の別邸(寺江山荘)跡と推定されています。

源通親(みちちか)の『高倉院厳島御幸記』には、
藤原邦綱が河尻(神崎川河口一帯の名称)に営んだ
「河尻の寺江」に高倉院の行宮を設けたことがみえます。

『山塊記』治承4年(1180)3月19日条に藤原邦綱の別邸
寺江山荘が当地に設けられたこと、同年6月の福原遷都以後は
当地を経由して旧都と福原を往来する高貴な人物の宿舎としても
利用されたことが貴族の日記に見られます。
(同記同年8月10日条など)

『高倉院厳島御幸記』によると、山荘は寝殿造りで神崎川の川べりにあり、
川の水が庭内に引き込まれ、厩の葦毛の馬2頭には見事な鞍が置かれていました。
御殿の障子には唐風の絵と大和絵が描かれ、設えは上皇の部屋だけでなく、
随行の上達部や殿上人の居所も贅をつくしたものであったとあり、
大福長者といわれた邦綱の財力をうかがわせる豪奢な舘だったようです。


創建は治承4年(1180)と推定され、後白河院や高倉院、
安徳天皇・建礼門院など多くの貴人、要人がこの山荘を訪れています。

邦綱は娘が六条・高倉天皇の乳母をつとめ、次女の藤原輔子が
安徳天皇の乳母で平重衡の北の方だったことなどにより、
清盛のもとで正二位大納言にまで昇り、
清盛と同じころに発病し、相前後して亡くなりました。

左門橋の信号



左門橋の信号を通り過ぎ、左門殿(さもんど)川に架かる
左門橋から神崎川と左手の塩野義製薬を望む


左門橋の信号を左折し、
塩野義製薬の生垣の先端まで進みます。




寺江亭跡(
現地説明板)
平安時代末、平氏政権の有力者の五条権大納言藤原邦綱が
築いた別邸が寺江亭です。彼の娘が六条・高倉・
安徳天皇三代の乳人(めのと)でしたので、
清盛の下で権勢をふるうことができたのです。
邦綱は、
神崎川の河尻に別荘をもち
(寺江にあったので寺江亭と呼ばれる)
多くの貴人らを招いていました。

寺江は尼崎に近い大物とも考える説がありましたが、
尼崎より約2㎞の地と記された
当時の日記もあり、
塩野義製薬株式会社の工場建設のときに、
かなりの礎石が
採取されましたので、当地が跡地と推定されています。

また、建物の創建は、治承3年(1179)から
4年にかけてのものとみられています。
記録によると、
川から直接邸内へ船に乗ったまま入ることができ、

建物の豪華さは京都の邸にひけをとらないと記されています。
尼崎市教育委員会

当時、寺江亭(寺江山荘とも)があった河尻は神崎川の河口にあたるため、
川が運ぶ土砂が堆積して砂浜が広がっていました。
神崎川は淀川とつながり、朝、京都を発ち淀川を下ると夕方には着くため、
河尻にはさまざまな貴族の別荘が建ち並び、京都と福原、
西国を往来する皇族や貴族たちの格好の宿所となりました。
治承4年(1180)3月の高倉上皇の厳島御幸でも
京都から川船で淀川を下った上皇一行は、
そのまま寺江亭へ船を乗りつけ釣殿に降りています。

治承4年6月、清盛は福原遷都を強行しましたが、
新都造営は遅々として進まず、今年は2月に即位した
安徳天皇の大嘗会が行われなくてはならないのですが、
福原では大極殿・豊楽院がないので沙汰やみとなり、
例年通りの新嘗祭と五節だけが行われることになりました。
しかし、その新嘗祭さえも京都の神祇官で執り行われました。

その上、富士川合戦で大敗した後、源氏の蜂起が各地で
相次ぎ内乱状態となり、福原に軍事拠点を定める
清盛の戦略は打撃を受け、やむなく清盛は還都を決定し、
福原新都は半年でその役目を終えました。


病気がちだった高倉上皇が急いで福原を出ると、摂政はじめ、
太政大臣以下の公卿・殿上人たちは我先にとお供をします。
『源平盛衰記』は、これを「公卿も殿上人も、上下の北面賎の女、
賎の男に至るまで手をすり額をつきて悦び合へり」と著しています。
同年11月23日、安徳天皇は福原の御所を出て、
宇治河の亭(福原の藤原邦綱の邸)に移り、翌朝、
輿に乗り福原を出立、大物(尼崎)に行き、
ここから船に乗り寺江亭に到着しました。
その夜、天皇は寺江亭に、上皇は山城法眼の別荘に宿をとり、
後白河法皇だけは船の中で夜を明かすことになりました。

翌25日、一行は淀川を遡って鳥羽の草津湊(京都市伏見区)に
着くはずでしたが、大風にあい唐崎(高槻市)で一泊し、
26日に京都に着くと天皇は邦綱の五条東洞院に、
上皇は頼盛の池殿、後白河法皇は六波羅の泉殿に入りました。


安徳天皇が乗船した大物(だいもつ)は神崎川の右岸にあり、
河尻の下流にあったとされています。
大物は文治元年(1185)に頼朝と対立した義経が
西国へ逃れようと船出し、遭難したことで知られています。


「寺江亭阯傳説地」の標柱の傍には「聖趾不滅」の石碑があります。

石碑には次のように刻まれています。
治承四年三月高倉上皇厳島御幸ノ御時 前大納言藤原邦綱寺江亭ニ迎ヘ奉ル 
亭ノ壮麗ナリシ状夙ク 史乗ノ證スル所ナリ 同年六月安徳天皇福原遷都ノ御途次 
後白河法皇高倉上皇ト御共ニ 茲ニ臨幸アラセ給ヒ

同年十一月 還幸ノ砌重ネテ御駐泊ノ御事アリ
寺江亭ノ故阯實ニ附近ナリト傳ヘラル 神崎川ノ水溶溶トシテ流ルル所 
上畿ノ文化夙ニ水驛ニ洽ク 地方繁榮ノ端緒早ク茲ニ發ス 
物變リ星移リテ河畔ノ風趣舊ノ如クナラスト雖モ 此ノ岸頭ニ莅ム時
 人ヲシテ懐古ノ情ニ堪ヘサラシムルモノアリ

昭和十五年十一月 兵庫縣史蹟調査會委員 吉井良尚撰 
 怡軒 片岡辰之助書

碑の背面には、昭和十六年三月 兵庫縣史蹟保存規定ニヨリ認定 
   株式会社塩野義商店社長 塩野義三郎建之 」

現在の工場が建ち並び堤防のある風景から、砂浜が広がるリゾート地に
貴族の別荘が多くあったという、当時の様子を想像するのは難しいです。
高倉院厳島御幸(瀧宮神社)  
『アクセス』 
「塩野義製薬杭瀬事業所」兵庫県尼崎市杭瀬寺島2丁目1
「寺江亭跡」尼崎市今福2-17

阪神電車杭瀬駅から徒歩約30分 市バス「杭瀬団地」東約600m
『参考資料』
元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 高橋昌明「平清盛 福原の夢」講談社選書メチエ 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新日本古典文学大系「中世日記紀行集」岩波書店
「神戸~尼崎海辺の歴史 古代から近現代まで」神戸新聞総合出版センター
 新定「源平盛衰記」(3)新人物往来社 「兵庫県の地名」(Ⅰ)平凡社 
「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社 



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