平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






佐藤継信の墓は、高松市内に二ヶ所あります。
ことでん八栗駅の南、牟礼川沿いの一角ともう一ヶ所は、屋島寺参詣路沿いに祀られています。

ことでん八栗駅から踏切を越え南へ、 牟礼川沿いに少し進みます。

景行天皇皇子の神櫛王(かみくしおう)墓の東隣に佐藤継信の墓所があります。

継信の子孫が遺跡の大改修を実施し、公園のように整備しました。

もとは今の墓所の背後の平田池(ため池)の地にありましたが、
正保2年(1645)、この池を築造した時に現在地に移されました。

寛永20年(1643)には、初代高松藩主松平頼重が標石を建てています。

佐藤兵衛尉継信之墓と彫られています。



松平頼重がたてた標石の表は「佐藤次信墓」とあり、
その背後には五輪塔が祀られています。

標石の背面には、「寛永癸未仲夏上浣建之」と刻まれています。
(寛永癸未は1643年、仲夏は陰暦の5月、上浣は上旬のこと)

大夫黒馬娌處」「大夫黒供養之碑」
大夫黒はもとは院の厩で飼育されていた馬で後白河院から義経に下賜され、
一ノ谷合戦では、平家陣の背後の断崖絶壁から駆け下った馬です。
義経は大夫(五位)に叙位された時、自分の大夫にちなんで
この愛馬を
大夫黒と名づけました。
『吾妻鏡』は、義経が秘蔵の名馬を僧に与えたことを美談として讃えています。


大夫黒に乗り戦場を駆ける義経。



安徳天皇社から緩やかな坂を上ります。

屋島寺の参拝を終えた巡礼者が洲崎寺さらに八栗寺へと向かう遍路道です。

松平頼重(水戸光圀の同母兄)が四国巡礼の人々の目につくようにと設けた墓所です。
頼重は学問に熱心で、特に『平家物語』を好んで読んでいたようです。
主人の楯となって討死した継信を武士の鑑であるとして、その死を顕彰しました。
この地では、継信はとりわけ英雄のように扱われています。

佐藤継信の父は陸奥国信夫(しのぶ)庄(福島市)の豪族・
庄司
佐藤元(基)治で、平泉の藤原秀衡と同じく秀郷流藤原氏を出自としています。
秀郷流藤原氏は、平将門の乱を鎮圧したことで有名な藤原秀郷を始祖とします。

義経が挙兵した兄頼朝の軍陣に向かおうとした時、秀衡は強く止めました。
しかし、義経の決心が固いのを知り、継信・忠信兄弟に随行を命じたのです。

佐藤継信の墓
継信は寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登の守教経の強弓により、
大将義経の命危ういとみて、義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の忠死を広く世間に知らせるために寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、
合戦当時に義経が丁寧に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。
 また、墓は牟礼町王墓に残っています。
高松市 高松観光協会 (現地説明板)

義経は継信の死を深く悲しみ、近くの寺から高僧を招き、、「一日教を書いてやってくれ。」と言い、
布施の代わりに
自分の馬に金覆輪の鞍を置いて贈り、ねんごろな供養を頼みました
お経一部を何人もで、手分けして一日で書き上げることを「一日教」といいます。

馬も鞍も武士にとって大切な財産です。それほどまでして供養し、
一人の郎党の死を心から悼む義経の姿に、継信の弟忠信をはじめ家来たちは、
みな涙を流し「この主君のためなら、命を失っても惜しくない。」と言いあったという。

『吾妻鏡』文治元年(1185)2月19日の条には、「義経は継信の死を大いに嘆き悲しみ、
僧侶を招き遺骸に立派な袈裟を着せ、千株松の根元に葬り、名馬太夫黒を僧侶に与えた。
この馬は義経が行幸に供奉する際に後白河院から賜ったもので、
戦場に向かう時には必ずまたがっていた。」と記されています。
屋島古戦場を歩く佐藤継信最期(射落畠)  
馬町の佐藤継信 忠信墓    馬町十三重石塔(佐藤継信 忠信)  
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『アクセス』
「佐藤継信の墓」高松市牟礼町王墓 ことでん「八栗駅」徒歩5分

高松市屋島東町 遍路道沿い ことでん「八栗駅」下車 徒歩約35分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年 上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂、2004
 奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会、
2004年 川合康「平家物語を読む」吉川弘文館、2009年 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「香川県の歴史」山川出版社、
2011
「平家物語図典」小学館、2010年


 



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