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清経の墓を参拝した帰り道、この五輪塔がもとあったという若八幡神社を訪ねました。
駅館川(やっかんがわ)畔の駒札には、清経の墓は若宮八幡神社境内に
あったと書かれていましたが、この社の社号は若八幡神社のようです。
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若八幡神社は柳ヶ浦小学校グラウンドの西側に鎮座しています。
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若八幡神社は、宇佐八幡宮の若宮神社・岩崎の岩崎神社・
豊後高田の若宮八幡神社と並んで四所若宮社の一つとされています。
社伝では、宇佐八幡宮の若宮造営の年と同年の仁寿2年(852)創建としていますが、
『柳ヶ浦町史』には、宇佐大宮司公通(きんみち)が江島別符開発に合わせ、
別符の鎮守として12C末に勧請したものかと記されています。
清経の五輪塔は若八幡神社の東側の田の中に(現柳ヶ浦小学校)ありましたが、
昭和13年(1938)に小松橋の畔に移されました。(『大分県の地名』)
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拝殿
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拝殿背後の本殿
境内末社
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清盛の家柄は地下平氏ですが、後妻の時子は官僚貴族として仕えていた公家平氏平時信の娘です。
重盛の死後、清盛の跡を継いだのは時子の生んだ宗盛(重盛の異母弟)でした。
重盛の系譜は主流からはずされるのですが、
『平家物語』は一貫して重盛の嫡男維盛・その子六代を平家の嫡流として描いています。
重盛の長男維盛は官女の生んだ子、二男資盛(すけもり)の母は、
下総守藤原親盛の娘で二条院の内侍(二条天皇に仕えていた女官)です。
三男清経は重盛の正妻経子との間に生まれた長子で、経子の父は中納言・藤原家成です。
後白河院近臣筆頭の成親は経子の同母兄です。
当時は母の出自や家柄の実力がその子の嫡子・庶子を決定しましたから、
どうみても重盛の嫡子は清経でした。
重盛と藤原成親の妹、維盛と成親の娘との結婚は、後白河院と清盛の蜜月時代のことです。
しかし院と清盛の蜜月は長く続かず、院の寵妃建春門院滋子(時子の妹)が亡くなると、
この関係に終止符が打たれ、両者の対立が深まります。
平家打倒計画が発覚し、その中心人物の一人であった成親が殺害されると、
母の実家の後ろ盾を失った清経は後退していきました。
壇ノ浦で戦死した有盛、一の谷で戦死した師盛(もろもり)、忠房は清経の同母弟です。
忠房は屋島合戦の戦場を逃れ、紀伊の湯浅宗重を頼り湯浅城に籠りましたが、
頼朝に言葉巧みに騙され、近江の瀬田辺りで斬られたと
『巻11・断絶平家』は語っています。
さて都落ちした平家は九州大宰府に拠点を定めようとしましたが、
頼みとした豊後の豪族緒方三郎惟栄(これよし)の協力が得られないばかりか、
敵対した緒方三郎によって九州から追い落とされることになりました。
緒方三郎はもと小松家の家人であったことから、資盛が緒方との交渉にあたりましたが、
交渉は不調に終わり、傍流小松家の人々の立場は辛いものとなったと思われます。
清経が海に身をなげたという話も小松家公達の心情が推察できる事件です。
運行回数が少ない電車の出発時間が迫り、立ち寄ることができませんでしたが、
江須賀(江島村)の仏光山日輪寺(曹洞宗)は、平清経が柳ヶ浦沖で入水した後、
清経の妻が淡津三郎とともに下向し、庵を建てたのが始まりとしています。
寛文元年(1661)星岸によって再建され、境内には
清経八百回忌に建立された九重の塔があります。
淡津三郎は『謡曲清経』に清経の家臣として登場する人物です。
また清経には熊本県五家荘に逃れたという伝説もあります。
『肥後国誌』によると、清経は入水とみせかけて四国に渡り、
今治・阿波国祖谷を経て、九州に戻り、豊後竹田に逃れました。
竹田の領主緒方氏を頼り、緒方実国の娘を妻として緒方姓を名のり、
その子孫は源氏の追及を逃れ、熊本県八代郡泉村の五家荘に住んだというものです。
現在、五家荘椎原(しいばら)には、緒方家が平家屋敷として残っています。
平師盛の墓(石水寺)
平忠房(湯浅城跡)
『アクセス』
「若八幡神社」宇佐市大字江須賀2307の1 JR「柳ヶ浦」駅徒歩約8分
バス停「柳ヶ浦小松橋」徒歩1分
『参考資料』
「大分県の地名」平凡社、1995年 高橋昌明「平家の群像」岩波新書、2009年
冨倉徳次郎「平家物語 変革期の人間群像」NHKブックス、昭和51年
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書、1994年
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年