平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




田口重能(しげよし)は、平安時代初期に阿波の国司となった
田口息継(おきつぐ)の子孫といわれていますが、
その出自については十分明らかになっていません。
阿波民部大夫(みんぶだいぶ)成良・粟田成良・成能ともいい、
阿波国一の武士団を形成し、
清盛の信頼厚い武将として知られていました。

『吾妻鏡』文治元年(1185)2月18日の条には、
「摂津国渡辺の津から阿波に渡った義経は、近藤六親家(ちかいえ)に
案内させ、屋島に向かう途中、背後を衝かれないよう平氏の有力家人
阿波民部重能の弟桜間介良遠(さくらますけよしとお)を攻撃したところ、
良遠は城を捨てて逃げたという。」と記されています。
強風に乗って阿波国勝浦に上陸した義経一行は、待ち受けていた
近藤六親家に道案内させて屋島へと進軍します。
途中、手始めに阿波民部重能の弟桜間良遠(能遠)を攻撃して、
一路屋島へと進軍したのです。

 重能の弟良遠は「桜間介」と名乗っており、その本拠地は桜間、
現在の徳島県名西郡石井町桜間および
徳島市国府町桜間と推定されます。
官職の介は、国司または目代に次ぐ地位で在庁官人の筆頭、
阿波国を治める国衙(こくが)の要職にありました。
良遠の城の推定地は、吉野川支流の飯尾川の南側に位置し、ここには
現在も桜間という字名が残り、名勝「桜間の池」跡が残っています。

「能遠の城に押し寄せてみると、三方は沼、一方は堀である。
桜間介は俊馬に乗ってそばの沼から逃げてしまった。」
(『平家物語・巻11・大坂越』)とあることから、
当時の桜間には、桜間の池とよばれる広大な池があり、
水に囲まれた天然の要害の地であったと推測できます。

重能は早くから清盛に仕え、平家の本拠地の都、
弟良遠は阿波を拠点として活動していました。
承安年間(1171~1175年)には、重能は日宋貿易の拠点となる
大輪田泊の修築奉行を務めています。この貿易によって得た富は
平氏政権を支える重要な財源となり、重能は武力だけでなく、
経済活動をも支える重要な武将でした。

重能が平家に接近した理由は、中央で後白河院のお気に入りとして
急速に地位を向上させた西光(藤原師光)を通じて、勢力を強めた
近藤一族の台頭があったとされます。西光の一族は近藤氏と称し、
阿波国柿原を本拠とする在庁官人でした。

清盛は鹿ケ谷事件の首謀者のひとりであった西光を殺害し、
次いで田口重能に命じて、
西光の故郷、
阿波国阿波郡柿原庁にいた4男広永(ひろなが)を襲わせています。
近藤六親家も西光の子で、この時、親家も柿原にいましたが、
板西城(現、徳島県板野郡板野町古城)へ逃れています。
義経屋島へ進軍大坂峠越(板西城跡)  

以仁王の令旨によって各地の源氏が蜂起し、6年にもおよぶ大規模な
内乱が展開されると、
治承4年(1180)の南都焼き討ちで重能は先陣を務め、
その翌年には、墨俣合戦で源氏と戦っている記事が『玉葉』にみえます。
また寿永2年(1183)には、加賀国篠原(現・石川県加賀市)で
源氏と戦火を交えるなど平氏の戦力として各地を転戦していました。

都落ち後、大宰府を追われ西海に流浪していた平家のために
讃岐の屋島に内裏造営を行い、
平氏の勢力挽回に貢献しています。
これによって重能の勢力が阿波だけでなく讃岐、さらにこの地域一帯の
海域にまでおよんでいたことがうかがえます。

讃岐の志度合戦で、嫡子田内教能(でんないのりよし)が源氏に
生け捕りになったことから、重能は大きく動揺し壇ノ浦の海戦で
平氏を裏切って義経に味方することになります。
決戦の前に平知盛は、子供のために重能が裏切るであろうことを察知し
斬捨てようとしましたが、宗盛は重能の忠節を疑わず、
知盛の申し出を許しません。知盛は歯ぎしりをして悔しがりますが、
惣領である兄の決定に従いました。その不安は的中し、
平家の作戦はすべて源氏方に知られることになります。
これによって平氏の惨敗は決定的となりました。

平家滅亡後、源氏の佐々木経高(つねたか)が阿波の初代守護として
入国したので田口氏は衰え、一族のひとりが
一宮大粟荘(現、徳島県名西郡)一宮神社(田口明神)の祠官として
残っていましたが、承久の乱後に守護に任じられた小笠原氏に滅ぼされました。

延慶本『平家物語』によると、長年信頼されていた家臣が
主を裏切ったとして、鎌倉に連行された重能の評判は悪く、
御家人たちは口々に斬刑を主張します。これを聞いた重能は
罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐いたので、火あぶりにされたという。

田口氏の城とみられる桜間城は、桜間神社付近にあったとされ、近くの八幡神社にある
五輪塔は、田口重能の供養塔と伝えられています。(『徳島県の地名』)

最寄りのJR徳島線石井駅







桜間の池の石碑は、小さな丘の上にあります。

鎌倉時代に編纂された『夫木(ふぼく)和歌集』に
♪鏡とも 見るべきものを 春くれば 
ちりのみかかる 桜間の池 と詠まれた
美しい池がありましたが、江戸時代後期には池跡になっていたようです。

文政年間(1818~30年)、徳島藩主蜂須賀斉昌(なりまさ)が
11代将軍徳川家斉(いえなり)に拝謁した時、
この桜間の池がどうなっているか尋ねられました。
帰国した斉昌は見るかげもなく荒廃した池を見て、
復旧にかかり、
海部郡由岐浦の海中にあった巨岩を文政11年(1828)から
7年間もかけて引き上げ、海路この地に運び石碑を建てました。

石碑は7トン余の巨石で、国学者屋代弘賢(ひろかた)の撰文で
碑の由来が記されています。
かつて桜間の池は東西18町(約1962㍍)、南北8町(約872㍍)もあったという。

桜間神社は桜間の池跡の傍にあります。

桜間の五輪塔がある八幡神社へ向かいます。







田口重能の供養塔と伝えられる桜間五輪塔。



志度合戦

『アクセス』
「桜間神社」徳島県名西郡石井町高川原桜間281 飯尾川南岸沿い
JR徳島線石井駅下車 徒歩約30分
「八幡神社」徳島市国府町桜間
『参考資料』
五味文彦「平家物語、史と説話」平凡社、2011年
 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年

「徳島県の地名」平凡社、2000年 「郷土資料事典徳島県」人文社、1998年
角田文衛「平家後抄 落日後の平家(上)」講談社学術文庫、2000年
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 
「平家物語図典」小学館、2010年 新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
県史36「徳島県の歴史」山川出版社、2015年

 

 

 

 

 



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