平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



生駒山地に連なる飯森山の中腹に、夢の中で長谷観音のお告を受けた
江口の君が中興したと伝える野崎観音があります。
正式名は
「福聚山 慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)」という曹洞宗の寺院です。

摂津江口の江口の君(妙)が難病に苦しみ大和(奈良)の
長谷観音に参籠し病気平癒を願ったところ、
慈眼寺は長谷と同じ霊場であり、汝の家にも近いから
この寺を頼るようにとの霊夢を得ました。
早速、慈眼寺に七昼夜籠って祈ると、たちまち病は癒え、
その恩に報いるため荒廃していた寺を再興したという。

長谷寺の観音信仰は古くから盛んで、
王朝の女性たちが参詣していることが、
『枕草子』『更級日記』『源氏物語』などに見えます。
特に中世には広く普及し、
利益(りやく)の説話の舞台となっています。

『平家物語』「長谷六代」「初瀬六代」にも長谷信仰が語られています。
六代(平維盛の嫡男)は、平家滅亡後、平家残党狩りで
捕えられていましたが、文覚が頼朝に六代の助命を
願っていれられました。助命かなった六代が家に帰ると、
母(鹿ケ谷事件の首謀者、藤原成親の娘)が
六代の無事を祈って長谷寺に参籠中であったため、
六代の従者の斎藤五(斎藤実盛の息子)がはるばる
大和の長谷に下って知らせています。

江口(現、大阪市東淀川区)は、淀川と神崎川の分流点にあたり、古くは
京都と西国を結ぶ水運の要衝として栄え、社寺参詣の貴族たちをもてなす遊里があり、
美貌と高い教養を兼ね備えた遊女が多いことで知られていました。
旅の途中、雨に降られた西行が江口の君に宿を頼み、
歌の問答を行ったというのは、西行のエピソードの中で最も有名なものです。
この歌のやり取りで、江口の君(妙)の名は広まり、
謡曲『江口』にもその名を残しています。

平安時代、江口から野崎観音へは、淀川を下り高瀬(守口市)で
大和川を遡り、恩智川に入ると野崎観音の門前に着きました。
また淀川右岸の陸路でもつながっており、さらにその道筋は
生駒山を越えて大和の長谷寺に至ります。

寺伝によると、野崎観音は、行基(668〜749)が十一面観音を刻んで
安置したのが始まりで、その後荒廃していたのを江口の君が
再興に尽力したとし、開基は行基、江口の君を中興の祖としています。

鎌倉時代には、沙弥入蓮(しゃみにゅうれん)が秦氏の援助を得て
堂舎を修造しましたが、戦国時代に三好長慶・松永久秀の
兵火によって焼失し、江戸時代の元和2年(1616)頃、曹洞宗の僧、
青厳が曹洞宗寺院として堂宇を整え、仏像を安置しました。



野崎駅前の谷田川(寝屋川の支流)に架かる朱塗りの橋を渡って、
野崎参道商店街を抜けます。信号を渡ると道が狭くなり、
戦国時代に三好長慶の居城があった飯森山が迫ってきます。





坂道そして長い石段の先に山門があります。



山門(楼門)

飯盛山へのハイキングコースの入り口、
河内平野を一望できる地に南面して本堂が建っています。

本尊は行基手彫りと伝わる十一面観音菩薩 

本堂の隣にあるお堂が「江口の君堂」です。

野崎観音御詠歌の奉納額が江口の君堂の軒下に掛けられています。
「きくならば 野崎の寺の そのむかし 江口の君の 名のみのこれる」

駒札にはこのお堂の縁起が次のように記されています。
「当寺中興開基江口之君堂縁起
江口の君光相比丘尼は、淀川の対岸江口の里の長者で
藤原時代の終り頃重い病気にかかられ、当山の観音さまに
おまいりをして病気をなをしていただかれました。
同じ病気になやむ人たちをたすけて下さいますので
婦人病の方やこどものほしい人たちが沢山おまいりになります。
このお堂を左から年の数だけおまわりになると、ご利益がいただけます。
毎月十四日 御命日
 午前中、婦人病・子さづけのやいとの奉仕があります。」

江口の君は、平資盛(すけもり)の娘ともいわれる
妙(たえ)という遊女でしたが、出家してからは
光相比丘尼(こうそうびくに)と称しました。

江口の君堂の隣は心身の病気を治してくださる薬師堂です。
病気平癒・身体健全・延命長寿の功徳があるといわれています。



本堂とその左手に建つ観音堂の間から上ると、
見晴らし台へと続く山道が延びています。その途中、慈母観音像や
市指定文化財の石造九重層塔(せきぞうくじゅうそうとう)が現れます。



風化のため全文は読みとれませんが、銘文には、
永仁2年(1294)に沙弥入蓮(しゃみにゅうれん)と秦氏が
主君と両親の追善供養のために造立したと記されており、
北河内最古の層塔です。
高さ3.3m、花崗岩製で、初層軸部の四側面には、
梵字で金剛界四方仏がそれぞれ刻まれています。
全体の造りや梵字の刻まれ方から、鎌倉時代の
特徴をよく表しているといわれる石塔です。

在俗信者入蓮がどのような人物であったかは不明ですが、
秦氏は古代河内一円に勢力のあった大陸系渡来人の子孫と考えられ、
造立当時、当地方の有力者であったと思われます。
江口の君堂(寂光寺)  
野崎参り・お染久松で知られる大東市野崎観音(福聚山慈眼寺)2  
『アクセス』
「慈眼寺(野崎観音)」大東市野崎2丁目
JR学研都市線「野崎駅」下車 徒歩約10分。本堂拝観9:00~16:00

祭礼 毎年、江口の君命日の4月14日に大祭が催され、
ご開帳ご祈祷があり、子授け、縁結び、病気平癒祈願で賑わいます。
『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年

 

 

 



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