CubとSRと

ただの日記

その「全く力のない援助」、があってこそ

2019年08月09日 | 重箱の隅
 去年の今頃は一体何を書いていたろう。
 そう思って日記を見直してみた。
 ライトノベル「スーパーカブ3」の終わり辺りを読んでいて、援助ということに付いて考えていた。
 援助とか応援とかいうものは、それに取り組んでいる人間が大きな困難を感じている時、或いは絶望を感じている時にはホントにはた迷惑な騒音、雑音でしかない。
 「無責任によく言うよ」、「頑張れ、言うな!頑張っとるんや!」
 と反発心ばかりが湧いて来る。
 でも、取り組んでいる本人が困難や絶望を前に途方に暮れている時、それでも取り組みを続けるべきか、すっぱりと諦めるべきか、と揺らぐ一瞬の隙間に、援助や応援の声が滑り込むことがある。
 「大人の分別」を選ぶか。それとも「未だ途半ば」として光を追い続けるか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ~8月8日の日記より~
 結局、カブで出たのは10時前。
 晴天ではあったが、あのじりじりと焦がされるような日射しではない。
 
 ダム湖のほとりの駐車場には車が数台。
 坊さんが藤棚の下のベンチで弁当を食べている。なんだかシュールだ。
 よく見ると駐車している車の中で、若い坊さんも弁当を食べている。
 坊さんが二人、思い思いの場所で弁当を食べている、となるとシュールさはなくなる。
 何故、別々に食べているんだろう。車の中で食べれば涼しかろうに。
 若い坊さんが外で食べている→いじめられている。
 年長の坊さんが外で食べている→シュール。
 でも、二人の坊さんは親子かもしれないんだし。
 8月8日。盆が近いから早めの檀家回り、だろうか。
 こんなやり取り。
 「藤棚の下の方が風が吹いて気持ちええで」
 「ふ~ん。座席の方が楽でええわ。エアコンあるし」
 「今日はあと二軒やったかな」
 ・・・などと。勝手に科白をつけてみた。
 本を読む時にいつもカブを停めるところへ、歩道を通って行こうと見ると、軽トラが歩道に半分ほど乗り上げて停まっている。中に人もいる。
 停め方が変わっている。わざわざ20センチほどの段差を、歩道に直角に乗り上げている。意図が分からない。
 坊さんのシュールさに対抗した???
 でも、カブは通れたから擦り抜けて、いつもの場所で「スーパーカブ」3巻の終わりの方を読み始める。
 小熊が緩んでいたシリンダーヘッドのボルトを誤って捩じ切ってしまい、腰上から分解しなければならないことを知って絶望するところ。
 小説では顔を腕で掩(おお)った、とだけ表現され、挿画では腕で掩った顔は悔し涙を流している。
 この後、小熊はカブとの人生の「楽しぃ夏」を終わらせ、大人の「味気ない秋」に踏み込まなければならない、とネガティブに「大人の分別」をしようとする。
 元の「何もない女の子」に戻るしかない、それがおとなになるということ、と初めて持ったカブに乗るという「意欲」を捨てようとする。何度読んでも苦しくなる、というか身につまされる。
 生長しよう、という気持ちを抑え込んで生きるのが大人なんだ、と社会が圧迫してくる。
 礼子も椎も何とか手助けをしたいと思うのだけれど、何もできない。
 結局、椎の祖父の「私は今も夏だ」という一言に、小熊自身が衝き動かされ、エンジンの解体修理に取り組む。
 小説だからと言ってしまえばそれまでだけど、周りの援助というものは全く力にならないのが普通。
 でも、逆に、その全く力のない援助があってこそ、当人でさえ信じられないほどの自身の力が発揮される。
 下世話な言い方では「豚も煽てりゃ木に登る」。
 でも、登ってしまえば、登ったもんの勝ちじゃないか。
 そして、豚も木に登れるのだ、と社会を反省させることになる。


コメント
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