長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

218.古寺巡礼(四)・京都 東寺再訪

2015-11-26 19:01:01 | 旅行

今月2日。京都滞在の2日目は、2年前に訪れた東寺(教王護国寺)に行くことにした。この日は午後には、新幹線に乗って東京に帰るので京都駅前のホテルを9:30にチエック・アウト。京都駅のショッピング街にあるマクドナルドで「朝マック」を済ませた。

今回、東寺を訪れるにあたって、「是非、一度訪ねてみたい場所」があった。まずはガイドマップを片手にロータリーを西に向って歩いて行く。早朝からシトシト降っていた雨も歩いているうちに小降りになってくる。大きな八条通りを左折して、下町風の街中をしばらく進むと…あった。目的の場所。

それは『綜芸種智院跡・しゅげいしゅちいんあと』。天長二年(821年)に弘法大師・空海がわが国で最初に開設した庶民学校の跡地である。平安時代の日本には貴族の子弟のための学校が都にわずか5~6校あったのみだった。遣唐使の一員として唐(中国)の長安で庶民のための学校制度を実地調査し、目の当たりとしていた沙門空海は帰国後、日本にもぜひこのような学校を開設したいという夢を強く抱いていた。それが朝廷から東寺を給与された5年後に創設となったのである。それは仏教や儒教だけではなく文化・芸術など多くの科目を含む総合大学的な内容であり開設当初は空海その人も教壇に立ったということである。「弘法大師の授業を一度でいいから受けてみたかったなぁ…」。そしてたとえ貧しい階層に生まれた者でも学問の志が強くあると認められれば入学が許されたのだということだ。学校は数十年後、運営資金難から閉校となってしまったが、今日的には従来の官史養成機関にすぎない貴族学校の在り方に対する批判を意味するという見方もあるようだ。歴史の教科書や司馬遼太郎の歴史小説「空海の風景」に登場し、一度訪れたいと思っていた史跡とやっと出会うことができた。

住宅地の四つ角にある跡地には小さな御堂(薬師堂・弘法大師作の薬師如来像を安置)と石碑が建っているだけで、当時を想像することは難しいが、小雨の中、ここにあったのだという雰囲気だけは、それとなく感じることができた。お参りしてさらに東寺へと向かう。

南大門には11時前に到着。ここから望む五重塔も美しい。門をくぐり順路にしたがってお参りしていく。小雨の降る中の仏教伽藍というのは、とても風情がある。大きな寺院建築も晴天の時に見るよりも、どっしりとした重厚感を持ってこちらに迫ってくる。まず初めに大師堂にお参りし、拝観受付を済ませてから前回同様、講堂の『立体曼荼羅(重文)』の大日如来を中心とした数多くの仏像、金堂の『薬師三尊像と十二神将像(ともに、重文)』、秋の特別公開の国宝の五重塔内の『四仏坐像』と順番に拝観する。東寺の仏像はどこもお堂の内部の照明を極力抑えていて神秘的とも言える光と空間の中で仏像と対峙し、じっくりと拝観できるところが大きな魅力である。

ここまでで充分満足なのだが、ブラブラと境内の紅葉などを見ながら歩いて行く。途中、瓢箪池から振り返ると五重塔が水面に映って美しくカメラに収めた。食堂をお参りし、北大門を出て『観智院』という寺院を目指す。ここで前回スルーしてしまった宮本武蔵作の有名な『鷺図』を見る予定だったのだが、残念ながら改装工事となっていて観ることができなかった。また次回のお楽しみである。

北総門を出て13時過ぎに遅い昼食。二年前に偶然入って気に入った「京都ラーメン研究所」というお店でラーメンと餃子を食べる。これで今回の京都、古寺巡礼の旅も終了。京都駅で娘たちにたのまれていた土産の「生八つ橋」を買って帰路に着いた。

画像はトップが東寺講堂の屋根のアップ。下が向かって左から綜芸種智院跡に建つ薬師堂、東寺勅使門の菊の御紋の透かし、講堂の朱塗りの扉、瓢箪池越しに見た五重塔、地面に落ちていた楓の紅葉。