今月15日、日本は72回目の終戦記念日を迎える。戦争を体験した世代が亡くなったり高齢化することで生々しい過去の記憶が年々風化しようとしている。
前々回のブログでも予告したが、昨年7月28日に88歳で他界した父親が亡くなる三か月ほど前から僕たち家族に病院の緩和病棟に入院するまでの間、語り続けた戦争中の体験談があった。それまでこの時代の事はあまり語らなかった父が病で体が衰弱していく中、あまり熱心に語るので「これは」と思い僕は聴き取るがままにその内容をノートに記録していった。最後の方は声も枯れてきて途中フラフラッと意識を失いそうになっても語リ続けていた。何故、人生の最後にこの時代の話を続けたのだろうか。きっと何か大切なメッセージをこれからの人間に伝えたかったに違いない。
病院に入院し、亡くなる5日ほど前だったと思うが食事もほとんど取れなくなった父親の耳元で僕は「あの話してくれた戦争中の事は必ず人に伝えて行くから」と約束した。父はもう言葉が出なかったが顔を向き直し眼でうなずいていた。この8月のブログに書こうと思ったのだが、さすがに亡くなってすぐには、その気持ちにはなれなかった。先月一周忌を終え、ようやく書く意欲が湧いてきたのでこうしてパソコンに向かっている。これから終戦記念日まで、3回ほどの予定で『父が語った戦争』について投稿して行こうと思う。
昭和3年東京の本所で生まれ、下町で育った父の幼少期は日本が戦争への道を突き進む時代であった。そして中学3年間はちょうど太平洋戦争の真っただ中で、当時の少年たちのほとんどがそうあったように軍国少年であった。昭和19年(1944年)4月、15歳で中学を卒業するとすぐに海軍航空隊飛行予科練修生に志願入隊した。正式には「甲種飛行予科練習生14期」というらしい。つまり、訓練を受けて少年航空兵になりゼロ戦や紫電改などのパイロットとして敵機と戦おうと意気盛んだったわけである。「どうして志願をしたの?」と尋ねると「その当時の時代がそういう空気だった。同級生はみんな陸軍幼年学校か少年戦車兵、そして海軍の予科練などに入隊した。迷うことなどなかった」と答えていた。父は正義感、責任感の強い性格だったので「ゼロ戦に乗って祖国や家族を守ろう」と思っていたようだ。
入隊の日の朝、「七つボタンは桜に錨」と謳われた予科練の軍服姿の父親を家族やお店の人たち(父の実家は金属関係の商売をしていた)全員が見送りに出てきてくれた。ただ一人、母親(僕の祖母)だけは家の自室にこもり泣き続けて出てこなかったということだ。父は男六人兄弟の末っ子で幼くして父親を亡くしてからは母親が溺愛していたようだ。
入隊すると横須賀海軍航空隊の下に配属され、しばらく適正検査などがあった。「甲種飛行予科練習生」は主に戦闘機のパイロットとして教育・訓練を受ける。そしてその人の能力により水上戦闘機(フロートの付いた戦闘機)、艦上戦闘機(航空母艦に配属)、陸上戦闘機(陸上基地の滑走路から飛び立つもの)、通信兵と振り分けられた。この中で飛行技術的に一番高度で難しかったのは潜水艦などに搭載された水上戦闘機だった。この中で父親は陸上戦闘機パイロットの訓練生に振り分けられた。
しばらくして父とその同期生は横須賀から奈良県天理市(現)にある伊勢志摩海軍航空隊付属、奈良分遣隊に移動となった。ここで翌年の3月まで戦闘機のパイロットとして基本的な訓練を受ける。訓練は非常に厳しく15歳から16歳当時、小柄で痩せっぽちだった父親は一日のカリキュラムが終わるとヘトヘトだったようである。訓練だけではなく隊の規律もとても厳しく分隊の中で一人でも規律を乱すような人間がいるとたいへんな懲罰を受けた。休日のある日、農家から貰ってきたタバコを辞書の紙で巻いて禁止となっているキザミタバコを吸っていた同期生が班の中から見つかった。するとその父の分隊は「全体責任」ということで一列に並ばされて上官や下士官、部隊全員200人ほどから1発ずつ殴られたのだった。殴る方も同情して手を抜けば直ちに同罪ということで殴られるので、全員が本気で殴ってくる。口の中は切れて出血し、顔中がパンパンに腫れて夜は痛くてとても眠ることができない。父は顎の一部が外れカクン、カクンという感覚が長年残ってしまったという。亡くなる2-3年前に「ようやく顎の外れた部分がハマったらしく治ったよ」と苦笑していた。こんなことは序の口で訓練でミスなどした時には「海軍バッター」と言われる精神注入棒で尻を思いっ切り引っ叩かれ突き飛ばされるのは日常だったようである。
父が入隊し、訓練を受けていた昭和19年当時、それまでは勢いよく勝利してきた日本軍がミッドウェー海戦にやぶれ、ソロモン諸島では海軍機で移動中の山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、米軍の大規模な軍事生産力により南方の制空権、制海権がジワジワと奪われ太平洋戦争も日本が劣勢へと向かいつつある時期と重なっていた。そしてこの年の6月にはサイパン島の守備軍が玉砕、米海兵隊の「飛び石作戦」と言われる畳み込むような上陸作戦によりテニアン、グアム、ペリリューと立て続けに敗退していった。さらに10月のフィリピン、レイテ沖海戦に敗北、この戦いで初めて父親たちの先輩にあたる海軍航空隊が「神風特別攻撃隊」を編成し初出撃している。いわゆる特攻隊による肉弾攻撃の始まりである。
昭和20年3月、父親たちは奈良で予科練の訓練を終えた。それはあの米軍のB29による無差別爆撃、東京大空襲の直後だった。そしてすぐに軍用列車に乗り茨城県の土浦航空隊に移動の命令が出た。移動内容や作戦は海軍の機密事項であり若い航空兵には知らされなかった。長い長い移動だった。軍用列車の車窓はとても小さく車内は暗い。
列車が東京に近づいた時、誰言うともなくその小さな車窓から外の景色を注視した。新宿を過ぎた頃、そこには少年たちが、かつて観たこともない信じられない光景が広がっていた。帝都と呼ばれた東京の街が遠方まで一面の焼野原、ときおりポツン、ポツンと焼け残ったビルが建っている。父の故郷である下町は特に被害が甚大だった地域である。そしてこの空襲で子供の頃から母と共に可愛がってくれた最愛の叔母と初恋の人を失った。みんな言葉もなく無言で灰色の廃墟を見つめていたという。「誰かこれで日本は負けたんだ、というようなことは言わなかったの?」と尋ねると「そんなことは瞬間思ったとしても誰も言わなかったし、言える状況にはなかった」と答えが返ってきた。
若い命をたくさん乗せた軍用列車はさらに、これからの戦いの場である土浦に向かって進んで行った。これから起こる地獄のような惨状を予測できる者は上官も含め誰一人としていなかった。
ブログは第2回に続きます。
画像はトップが入隊の朝、自宅の庭で撮影された軍服姿の父。下が奈良分遣隊での訓練の様子3カットと兵舎前での部隊の集合写真(すべて父のアルバムから)。
前々回のブログでも予告したが、昨年7月28日に88歳で他界した父親が亡くなる三か月ほど前から僕たち家族に病院の緩和病棟に入院するまでの間、語り続けた戦争中の体験談があった。それまでこの時代の事はあまり語らなかった父が病で体が衰弱していく中、あまり熱心に語るので「これは」と思い僕は聴き取るがままにその内容をノートに記録していった。最後の方は声も枯れてきて途中フラフラッと意識を失いそうになっても語リ続けていた。何故、人生の最後にこの時代の話を続けたのだろうか。きっと何か大切なメッセージをこれからの人間に伝えたかったに違いない。
病院に入院し、亡くなる5日ほど前だったと思うが食事もほとんど取れなくなった父親の耳元で僕は「あの話してくれた戦争中の事は必ず人に伝えて行くから」と約束した。父はもう言葉が出なかったが顔を向き直し眼でうなずいていた。この8月のブログに書こうと思ったのだが、さすがに亡くなってすぐには、その気持ちにはなれなかった。先月一周忌を終え、ようやく書く意欲が湧いてきたのでこうしてパソコンに向かっている。これから終戦記念日まで、3回ほどの予定で『父が語った戦争』について投稿して行こうと思う。
昭和3年東京の本所で生まれ、下町で育った父の幼少期は日本が戦争への道を突き進む時代であった。そして中学3年間はちょうど太平洋戦争の真っただ中で、当時の少年たちのほとんどがそうあったように軍国少年であった。昭和19年(1944年)4月、15歳で中学を卒業するとすぐに海軍航空隊飛行予科練修生に志願入隊した。正式には「甲種飛行予科練習生14期」というらしい。つまり、訓練を受けて少年航空兵になりゼロ戦や紫電改などのパイロットとして敵機と戦おうと意気盛んだったわけである。「どうして志願をしたの?」と尋ねると「その当時の時代がそういう空気だった。同級生はみんな陸軍幼年学校か少年戦車兵、そして海軍の予科練などに入隊した。迷うことなどなかった」と答えていた。父は正義感、責任感の強い性格だったので「ゼロ戦に乗って祖国や家族を守ろう」と思っていたようだ。
入隊の日の朝、「七つボタンは桜に錨」と謳われた予科練の軍服姿の父親を家族やお店の人たち(父の実家は金属関係の商売をしていた)全員が見送りに出てきてくれた。ただ一人、母親(僕の祖母)だけは家の自室にこもり泣き続けて出てこなかったということだ。父は男六人兄弟の末っ子で幼くして父親を亡くしてからは母親が溺愛していたようだ。
入隊すると横須賀海軍航空隊の下に配属され、しばらく適正検査などがあった。「甲種飛行予科練習生」は主に戦闘機のパイロットとして教育・訓練を受ける。そしてその人の能力により水上戦闘機(フロートの付いた戦闘機)、艦上戦闘機(航空母艦に配属)、陸上戦闘機(陸上基地の滑走路から飛び立つもの)、通信兵と振り分けられた。この中で飛行技術的に一番高度で難しかったのは潜水艦などに搭載された水上戦闘機だった。この中で父親は陸上戦闘機パイロットの訓練生に振り分けられた。
しばらくして父とその同期生は横須賀から奈良県天理市(現)にある伊勢志摩海軍航空隊付属、奈良分遣隊に移動となった。ここで翌年の3月まで戦闘機のパイロットとして基本的な訓練を受ける。訓練は非常に厳しく15歳から16歳当時、小柄で痩せっぽちだった父親は一日のカリキュラムが終わるとヘトヘトだったようである。訓練だけではなく隊の規律もとても厳しく分隊の中で一人でも規律を乱すような人間がいるとたいへんな懲罰を受けた。休日のある日、農家から貰ってきたタバコを辞書の紙で巻いて禁止となっているキザミタバコを吸っていた同期生が班の中から見つかった。するとその父の分隊は「全体責任」ということで一列に並ばされて上官や下士官、部隊全員200人ほどから1発ずつ殴られたのだった。殴る方も同情して手を抜けば直ちに同罪ということで殴られるので、全員が本気で殴ってくる。口の中は切れて出血し、顔中がパンパンに腫れて夜は痛くてとても眠ることができない。父は顎の一部が外れカクン、カクンという感覚が長年残ってしまったという。亡くなる2-3年前に「ようやく顎の外れた部分がハマったらしく治ったよ」と苦笑していた。こんなことは序の口で訓練でミスなどした時には「海軍バッター」と言われる精神注入棒で尻を思いっ切り引っ叩かれ突き飛ばされるのは日常だったようである。
父が入隊し、訓練を受けていた昭和19年当時、それまでは勢いよく勝利してきた日本軍がミッドウェー海戦にやぶれ、ソロモン諸島では海軍機で移動中の山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、米軍の大規模な軍事生産力により南方の制空権、制海権がジワジワと奪われ太平洋戦争も日本が劣勢へと向かいつつある時期と重なっていた。そしてこの年の6月にはサイパン島の守備軍が玉砕、米海兵隊の「飛び石作戦」と言われる畳み込むような上陸作戦によりテニアン、グアム、ペリリューと立て続けに敗退していった。さらに10月のフィリピン、レイテ沖海戦に敗北、この戦いで初めて父親たちの先輩にあたる海軍航空隊が「神風特別攻撃隊」を編成し初出撃している。いわゆる特攻隊による肉弾攻撃の始まりである。
昭和20年3月、父親たちは奈良で予科練の訓練を終えた。それはあの米軍のB29による無差別爆撃、東京大空襲の直後だった。そしてすぐに軍用列車に乗り茨城県の土浦航空隊に移動の命令が出た。移動内容や作戦は海軍の機密事項であり若い航空兵には知らされなかった。長い長い移動だった。軍用列車の車窓はとても小さく車内は暗い。
列車が東京に近づいた時、誰言うともなくその小さな車窓から外の景色を注視した。新宿を過ぎた頃、そこには少年たちが、かつて観たこともない信じられない光景が広がっていた。帝都と呼ばれた東京の街が遠方まで一面の焼野原、ときおりポツン、ポツンと焼け残ったビルが建っている。父の故郷である下町は特に被害が甚大だった地域である。そしてこの空襲で子供の頃から母と共に可愛がってくれた最愛の叔母と初恋の人を失った。みんな言葉もなく無言で灰色の廃墟を見つめていたという。「誰かこれで日本は負けたんだ、というようなことは言わなかったの?」と尋ねると「そんなことは瞬間思ったとしても誰も言わなかったし、言える状況にはなかった」と答えが返ってきた。
若い命をたくさん乗せた軍用列車はさらに、これからの戦いの場である土浦に向かって進んで行った。これから起こる地獄のような惨状を予測できる者は上官も含め誰一人としていなかった。
ブログは第2回に続きます。
画像はトップが入隊の朝、自宅の庭で撮影された軍服姿の父。下が奈良分遣隊での訓練の様子3カットと兵舎前での部隊の集合写真(すべて父のアルバムから)。