先月、9日。上野の西洋美術館で「クラーナハ展」を観た午後、渋谷に移動、1日に2つの展覧会はハードだったが、東急文化村ギャラリーで開催中の「ピエール・アレシンスキー展」を観て来た。
今更だが、ピエール・アレシンスキー(1927~)と言えばベルギーの現代美術を代表する画家であり、戦後、ベルギーや北欧の画家たちと表現主義の前衛美術家グループである『コブラ 1948-1951』を結成し、活躍した。そして日本とのゆかりも深く前衛書道家の森田子龍と交流を深め、その自由で闊達な筆の動きに影響を受け平面作品を数多く制作してきたことでも知られている。そして1955年に来日したおり、日本の書道を題材にしたドキュメンタリー映画「日本の書」を自ら製作している。
実を言うと僕はこのアレシンスキーに、とても深い想いがある。それはちょうど20代の始め、東京の美術学校に入学した頃に遡る。3年間の美大受験に見切りをつけ、当時ブームでもあった「現代版画」を3年間学べるというこの学校に入学して間もない頃、学校の実技で「イメージ・ドローイング」というものを教育方針で多く描かされた。つまり「自分の頭の中にあるイメージで絵を描け」というものである。ところが、それまで石膏デッサンや人体デッサン、静物の油彩画などアカデミックな絵しか描いたことがなかった僕はまったく作品にならず苦労していた。次第に学校からは足が遠のき朝から美術館やら画廊やら古書店やらを放浪する毎日を送り始めた。ちょうどその頃、発見した画家の1人がアレシンスキーというわけである。
当時、1980年代の初め、この画家の作品は美術雑誌や現代版画の季刊誌などにちょくちょく掲載されていて目に触れることも多かったのだ。アレシンスキーを知ることで上記した「コブラ」の存在を知り、同時代の画家、アぺルやコルネイユも知った。そして表面的な画風だけではなく彼らがピカソと同様にアフリカなどの未開社会の美術に影響を受けていることも知った。それからというもの「コブラ」が引き金になり近い表現の画家たちに目を向けることになっていった。たとえば「アール・ブリュ(生のままの芸術)」というグループのジャン・デュビュッフェやウィーンのフンデルト・ワッサーなど、いずれもヨーロッパ以外のプリミティヴな美術に影響を受けた画家たちである。学校にもろくに行かず毎日こうした画家たちの画集とにらめっこをする僕に前期の授業が終了する頃、版画家の主任から電話でお呼びがかかった。「酒を飲んで来てもいいから、ゼミに出て来てくれ」という内容。これは当時、僕がコンパや酒の席にだけは顔を出していたということである。
上記の画家たちに影響を受けて研鑚した僕の結論は「アカデミックなものを捨て去り絵を上手げに描かず、わざとヘタに描く」というものだった。これ以後。「イメージ・ドローイング」のゼミの講評会に並ぶ作品はなんと形容したらよいのか解らないような「下手くそな絵」であった。本人はゲイジュツカ気取りだったが、先生の講評の内容はというと…ボロボロだった。と、いうわけで僕にとってアレシンスキーは「初めて自分の作品を描こうとし始めた時期」の想い出深い画家なのである。その後、「幻想絵画」と出会い画風は大きく方向転換することになる。「描く画家」を否定した画家に影響を受けてから数年を経て再び「描く画家」を目指し描き始めることになるのである。今思うと前記の方向性に進んでいた方がその道の「大家」になれたかもしれないと、つまらん煩悩めいたことを考えてしまったりもする。今更、原点には後戻りできるはずはないのだが。
さて、本題の展覧会のことである。この美術館は、なかなか個性派の美術家を取り上げる。このアレシンスキーも日本での回顧展は今回が初めてということだ。それゆえに会場は空いていた。会場は「コブラ」展デビュー作のアフリカン・アートの影響が色濃い銅版画の連作から始めまり、同時代のアメリカの美術運動である抽象表現主義絵画を意識していた頃の油彩作品を通過、そしていよいよ日本のカリグラフィー(書)の影響のもと自由な抽象世界に開花する時代に入る。ここからは彼の独壇場の表現世界となる。「あぁ…懐かしいなあ、この魅力的な線描」「それからこの大胆な色使い」会場を移動しながら懐かしさで視点が定まらない。20代当時の自分の気持ちとピッタリ重なってきてしまうのである。特に印象に残ったのはパリの蚤の市で見つけた古地図をキャンバスに張り付けて、その上から抽象的な図像を描いた作品群。それから、これもパリの街のマンホールの蓋を和紙に部分的にフロッタージュしてから描いた作品群であった。どちらも「偶然性」ということを手掛かりにしつつ、新たな抽象世界を描き出しているものだ。それから上記した自主製作映画「日本の書」が会場内で上映されていたのは興味深かった。その中で版画の世界でも有名な女流書家の篠田桃紅さんの若かりし頃の姿も見ることができた。
この日は会場を出てからも随分長い間、記憶の中に眠っていた自分の原点を想い起こすことができてとても充実した時間を持つことができた。アレシンスキー氏に感謝します。最後に『自在の輪』という芸術論の名著の中から氏の言葉を拾ってみた。
『「あなたの絵をちょっと説明してくれませんか」といわれることがある。「口で伝えられるくらいなら、絵に描いたりはいたしません」というのが私の返答だ。自分の意図を敷衍(ふえん)したりすれば、私の絵はたちまち腹話術の人形と化してしまう(以下略)』 ピエール・アレシンスキー
画像はトップが出品作品「護り神」の部分図。下が東急文化村、アトリエでの最近のアレシンスキー氏、作品部分画像7カット(展覧会図録より転載)、若き日の篠田桃紅女史。
今更だが、ピエール・アレシンスキー(1927~)と言えばベルギーの現代美術を代表する画家であり、戦後、ベルギーや北欧の画家たちと表現主義の前衛美術家グループである『コブラ 1948-1951』を結成し、活躍した。そして日本とのゆかりも深く前衛書道家の森田子龍と交流を深め、その自由で闊達な筆の動きに影響を受け平面作品を数多く制作してきたことでも知られている。そして1955年に来日したおり、日本の書道を題材にしたドキュメンタリー映画「日本の書」を自ら製作している。
実を言うと僕はこのアレシンスキーに、とても深い想いがある。それはちょうど20代の始め、東京の美術学校に入学した頃に遡る。3年間の美大受験に見切りをつけ、当時ブームでもあった「現代版画」を3年間学べるというこの学校に入学して間もない頃、学校の実技で「イメージ・ドローイング」というものを教育方針で多く描かされた。つまり「自分の頭の中にあるイメージで絵を描け」というものである。ところが、それまで石膏デッサンや人体デッサン、静物の油彩画などアカデミックな絵しか描いたことがなかった僕はまったく作品にならず苦労していた。次第に学校からは足が遠のき朝から美術館やら画廊やら古書店やらを放浪する毎日を送り始めた。ちょうどその頃、発見した画家の1人がアレシンスキーというわけである。
当時、1980年代の初め、この画家の作品は美術雑誌や現代版画の季刊誌などにちょくちょく掲載されていて目に触れることも多かったのだ。アレシンスキーを知ることで上記した「コブラ」の存在を知り、同時代の画家、アぺルやコルネイユも知った。そして表面的な画風だけではなく彼らがピカソと同様にアフリカなどの未開社会の美術に影響を受けていることも知った。それからというもの「コブラ」が引き金になり近い表現の画家たちに目を向けることになっていった。たとえば「アール・ブリュ(生のままの芸術)」というグループのジャン・デュビュッフェやウィーンのフンデルト・ワッサーなど、いずれもヨーロッパ以外のプリミティヴな美術に影響を受けた画家たちである。学校にもろくに行かず毎日こうした画家たちの画集とにらめっこをする僕に前期の授業が終了する頃、版画家の主任から電話でお呼びがかかった。「酒を飲んで来てもいいから、ゼミに出て来てくれ」という内容。これは当時、僕がコンパや酒の席にだけは顔を出していたということである。
上記の画家たちに影響を受けて研鑚した僕の結論は「アカデミックなものを捨て去り絵を上手げに描かず、わざとヘタに描く」というものだった。これ以後。「イメージ・ドローイング」のゼミの講評会に並ぶ作品はなんと形容したらよいのか解らないような「下手くそな絵」であった。本人はゲイジュツカ気取りだったが、先生の講評の内容はというと…ボロボロだった。と、いうわけで僕にとってアレシンスキーは「初めて自分の作品を描こうとし始めた時期」の想い出深い画家なのである。その後、「幻想絵画」と出会い画風は大きく方向転換することになる。「描く画家」を否定した画家に影響を受けてから数年を経て再び「描く画家」を目指し描き始めることになるのである。今思うと前記の方向性に進んでいた方がその道の「大家」になれたかもしれないと、つまらん煩悩めいたことを考えてしまったりもする。今更、原点には後戻りできるはずはないのだが。
さて、本題の展覧会のことである。この美術館は、なかなか個性派の美術家を取り上げる。このアレシンスキーも日本での回顧展は今回が初めてということだ。それゆえに会場は空いていた。会場は「コブラ」展デビュー作のアフリカン・アートの影響が色濃い銅版画の連作から始めまり、同時代のアメリカの美術運動である抽象表現主義絵画を意識していた頃の油彩作品を通過、そしていよいよ日本のカリグラフィー(書)の影響のもと自由な抽象世界に開花する時代に入る。ここからは彼の独壇場の表現世界となる。「あぁ…懐かしいなあ、この魅力的な線描」「それからこの大胆な色使い」会場を移動しながら懐かしさで視点が定まらない。20代当時の自分の気持ちとピッタリ重なってきてしまうのである。特に印象に残ったのはパリの蚤の市で見つけた古地図をキャンバスに張り付けて、その上から抽象的な図像を描いた作品群。それから、これもパリの街のマンホールの蓋を和紙に部分的にフロッタージュしてから描いた作品群であった。どちらも「偶然性」ということを手掛かりにしつつ、新たな抽象世界を描き出しているものだ。それから上記した自主製作映画「日本の書」が会場内で上映されていたのは興味深かった。その中で版画の世界でも有名な女流書家の篠田桃紅さんの若かりし頃の姿も見ることができた。
この日は会場を出てからも随分長い間、記憶の中に眠っていた自分の原点を想い起こすことができてとても充実した時間を持つことができた。アレシンスキー氏に感謝します。最後に『自在の輪』という芸術論の名著の中から氏の言葉を拾ってみた。
『「あなたの絵をちょっと説明してくれませんか」といわれることがある。「口で伝えられるくらいなら、絵に描いたりはいたしません」というのが私の返答だ。自分の意図を敷衍(ふえん)したりすれば、私の絵はたちまち腹話術の人形と化してしまう(以下略)』 ピエール・アレシンスキー
画像はトップが出品作品「護り神」の部分図。下が東急文化村、アトリエでの最近のアレシンスキー氏、作品部分画像7カット(展覧会図録より転載)、若き日の篠田桃紅女史。