今月15日は日本の74回目の終戦記念日である。8/11、記念日を前に茨城県稲敷郡阿見町にある『予科練平和記念館』を家族で訪れた。
予科練(よかれん)とは正式には『海軍飛行予科練習生及びその制度の略称』で戦前の旧日本海軍が、より若い年齢層から航空機パイロットの基礎訓練を行い育てるために設立されたものである。昭和5年~終戦までの15年間で約24万人の若者が入隊し、うち2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へと赴いていった。大戦末期、特攻(特別攻撃隊)として出撃した人たちも多く、予科練出身者の戦死者は全特攻隊員の8割、1万9千人にのぼった。
僕の父親は大戦末期に16才で入隊し訓練終了後、終戦の年にこの記念館近くの土浦海軍航空隊に所属、連合軍の大規模な本土上陸作戦に備えて『水際特攻要員』の訓練と特殊なロケット付き滑空特攻機の発射場建設と飛行訓練を行っていた。この茨城県霞ケ浦周辺には海軍の軍事施設が集中していたために米空軍のB29重爆撃機による大規模な空襲に遭い大勢の戦友や周辺地域の民間人の方々が犠牲となった。この辺りの詳しい内容については2017年8月に当ブログに4回(No.300.301.302.303)に亘り連続投稿した記事に詳しく書いているのでご興味のある方はブログ内カテゴリー『人』から過去記事を開き読んでいただければと思う。
2016年は父が他界した年である。この年から遡ること1年半ぐらい前から、それまでは家族に語らなかった当時の予科練時代のことを集中的に語り始めた。あまり毎日のように詳しく話すので僕が聞き取ったり、ヴォイス・レコーダーで録音したりした。その内容をまとめたのが上記、2017年の連続投稿である。
そしてこの父の「語り」からさらに以前の仕事をリタイアした頃、父は1人自家用車で日本全国を旅して周っていた。そしてその時に真っ先に向かったのは南九州の知覧や鹿谷といった特攻基地跡地に建つ『特攻記念館』だった。息子としては北海道から沖縄まで数回に分けて自動車旅行をする中で、おそらく戦争中の想い出深い地である霞ヶ浦周辺も訪れるのだろうと想像していたのだが、父はとうとうこの地を再訪することはなかった。いや「行けなかった」という方が正しいかもしれない。
記念館の駐車場に到着し外観を眺めてまず目に入ってくるのは館外格納庫に収納され展示されている零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)の原寸大復元模型だった。当時の航空少年の憧れの的だった海軍の主力戦闘機である。そしてゼロ戦と共に目を見張ったものがある。それは館を境に反対側の広場に設置された大戦末期の特攻兵器『人間魚雷・回天』の原寸大模型だった。知識では知っていたが実際に目の前で見ると強い衝撃を受けた。回天は潜水艦搭載の魚雷を改良し搭乗員が1人で操作できるように設計された特攻兵器である。とても小さい。胴体の直径は1mしかない。まさに「鉄の棺桶」というイメージである。回天は父親より年齢の上の予科練出身者が志願し搭乗したということだが、終戦の日にも出撃していたことは有名である。
生前、父が言っていた。「搭乗員が乗ると上官が、2階級特進っ!!と言ってハッチを閉めてしまう。2度と外にはでられない。基地を発進し潜水艦のように小さな潜望鏡を覗きながら敵艦目掛けて体当たりするか、片道の燃料しか積んでいないので海底に沈んで酸欠で死んでいくかの何れかだった」という。このような悲惨な兵器をいったいどんな人物が立案し設計したのだろうか? ここにはヒューマニティの微塵もない。
館内に入ると決して大きくはないがテーマごとに展示室が分かれており、とても観易い内容となっていた。中でも大きく引き伸ばされた写真家の土門拳氏撮影による海軍少年航空兵の日常生活や訓練、活動等のパネル展示は当時のようすをリアルに伝えていた。ここでも父親と同世代が実際に特攻で搭乗した特攻兵器「人間ロケット・桜花」やモーターボート爆装の「震洋」などのレプリカ模型が展示されていた。そして動画を観る部屋では実際の米艦隊への特攻シーンと共に特攻隊員が基地に最後に敵艦隊に突っ込んだことを知らせ打電する「ツー-ーーッ」というモールス信号の音が流された。とても悲しい音だ。
一端、外へ出て平和祈念館に隣接する銅像の立つ公園を過ぎ、陸上自衛隊の敷地内から入る『雄翔館』という資料館にも行って観た。ここでは予科練出身の特攻隊員の遺影や遺品が数多く展示されていた。その遺影の隊員一人一人がどのような飛行ルートで敵艦に突入したかという地図や隊員が家族に向けて書いた最後の手紙なども展示されていて当時のようすをリアルに伝えていた。
全ての展示をゆっくりと時間をかけて観て回り外に出ると真夏の午後の陽射しが強い。そういえば父親が亡くなった日の午後も記録的な猛暑の夏で空には入道雲がわき立ち深いブルーの空が広がっていた。帰路に着く前、駐車場に向かう道すがら、最後の予科練時代の聴き取りを終えた時、父が僕を諭すように言った言葉が浮かんできた。
「いいか…戦争をするどちら側にも正義などというものはない。あるのは人間同士の醜い殺し合いだけだ。戦争になってもっとも犠牲者が多いのはいつの時代でも若者と民間人だ。現在も続く中東などの戦争のニュースをテレビで観ていれば理解できるだろう。戦争だけはぜったいに避けなければならない」と。
父親が2度と再訪できなかった地域とそこに建った平和記念館。一度は訪れたいと思っていたが、この日、父親が来れなかった理由がよく理解できたような気がした。
予科練(よかれん)とは正式には『海軍飛行予科練習生及びその制度の略称』で戦前の旧日本海軍が、より若い年齢層から航空機パイロットの基礎訓練を行い育てるために設立されたものである。昭和5年~終戦までの15年間で約24万人の若者が入隊し、うち2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へと赴いていった。大戦末期、特攻(特別攻撃隊)として出撃した人たちも多く、予科練出身者の戦死者は全特攻隊員の8割、1万9千人にのぼった。
僕の父親は大戦末期に16才で入隊し訓練終了後、終戦の年にこの記念館近くの土浦海軍航空隊に所属、連合軍の大規模な本土上陸作戦に備えて『水際特攻要員』の訓練と特殊なロケット付き滑空特攻機の発射場建設と飛行訓練を行っていた。この茨城県霞ケ浦周辺には海軍の軍事施設が集中していたために米空軍のB29重爆撃機による大規模な空襲に遭い大勢の戦友や周辺地域の民間人の方々が犠牲となった。この辺りの詳しい内容については2017年8月に当ブログに4回(No.300.301.302.303)に亘り連続投稿した記事に詳しく書いているのでご興味のある方はブログ内カテゴリー『人』から過去記事を開き読んでいただければと思う。
2016年は父が他界した年である。この年から遡ること1年半ぐらい前から、それまでは家族に語らなかった当時の予科練時代のことを集中的に語り始めた。あまり毎日のように詳しく話すので僕が聞き取ったり、ヴォイス・レコーダーで録音したりした。その内容をまとめたのが上記、2017年の連続投稿である。
そしてこの父の「語り」からさらに以前の仕事をリタイアした頃、父は1人自家用車で日本全国を旅して周っていた。そしてその時に真っ先に向かったのは南九州の知覧や鹿谷といった特攻基地跡地に建つ『特攻記念館』だった。息子としては北海道から沖縄まで数回に分けて自動車旅行をする中で、おそらく戦争中の想い出深い地である霞ヶ浦周辺も訪れるのだろうと想像していたのだが、父はとうとうこの地を再訪することはなかった。いや「行けなかった」という方が正しいかもしれない。
記念館の駐車場に到着し外観を眺めてまず目に入ってくるのは館外格納庫に収納され展示されている零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)の原寸大復元模型だった。当時の航空少年の憧れの的だった海軍の主力戦闘機である。そしてゼロ戦と共に目を見張ったものがある。それは館を境に反対側の広場に設置された大戦末期の特攻兵器『人間魚雷・回天』の原寸大模型だった。知識では知っていたが実際に目の前で見ると強い衝撃を受けた。回天は潜水艦搭載の魚雷を改良し搭乗員が1人で操作できるように設計された特攻兵器である。とても小さい。胴体の直径は1mしかない。まさに「鉄の棺桶」というイメージである。回天は父親より年齢の上の予科練出身者が志願し搭乗したということだが、終戦の日にも出撃していたことは有名である。
生前、父が言っていた。「搭乗員が乗ると上官が、2階級特進っ!!と言ってハッチを閉めてしまう。2度と外にはでられない。基地を発進し潜水艦のように小さな潜望鏡を覗きながら敵艦目掛けて体当たりするか、片道の燃料しか積んでいないので海底に沈んで酸欠で死んでいくかの何れかだった」という。このような悲惨な兵器をいったいどんな人物が立案し設計したのだろうか? ここにはヒューマニティの微塵もない。
館内に入ると決して大きくはないがテーマごとに展示室が分かれており、とても観易い内容となっていた。中でも大きく引き伸ばされた写真家の土門拳氏撮影による海軍少年航空兵の日常生活や訓練、活動等のパネル展示は当時のようすをリアルに伝えていた。ここでも父親と同世代が実際に特攻で搭乗した特攻兵器「人間ロケット・桜花」やモーターボート爆装の「震洋」などのレプリカ模型が展示されていた。そして動画を観る部屋では実際の米艦隊への特攻シーンと共に特攻隊員が基地に最後に敵艦隊に突っ込んだことを知らせ打電する「ツー-ーーッ」というモールス信号の音が流された。とても悲しい音だ。
一端、外へ出て平和祈念館に隣接する銅像の立つ公園を過ぎ、陸上自衛隊の敷地内から入る『雄翔館』という資料館にも行って観た。ここでは予科練出身の特攻隊員の遺影や遺品が数多く展示されていた。その遺影の隊員一人一人がどのような飛行ルートで敵艦に突入したかという地図や隊員が家族に向けて書いた最後の手紙なども展示されていて当時のようすをリアルに伝えていた。
全ての展示をゆっくりと時間をかけて観て回り外に出ると真夏の午後の陽射しが強い。そういえば父親が亡くなった日の午後も記録的な猛暑の夏で空には入道雲がわき立ち深いブルーの空が広がっていた。帰路に着く前、駐車場に向かう道すがら、最後の予科練時代の聴き取りを終えた時、父が僕を諭すように言った言葉が浮かんできた。
「いいか…戦争をするどちら側にも正義などというものはない。あるのは人間同士の醜い殺し合いだけだ。戦争になってもっとも犠牲者が多いのはいつの時代でも若者と民間人だ。現在も続く中東などの戦争のニュースをテレビで観ていれば理解できるだろう。戦争だけはぜったいに避けなければならない」と。
父親が2度と再訪できなかった地域とそこに建った平和記念館。一度は訪れたいと思っていたが、この日、父親が来れなかった理由がよく理解できたような気がした。
お父上の話、「父が語った戦争」大変興味深く読ませて頂きました。
もともと私はこのような話には興味がありまして、8月に図書館に行きますと司書の手によるお勧めの本と言うことで、アジア・太平洋戦争関係の書物が目に付くところに置かれるのですが、その内のいくつかは出来るだけ借りるようにしています。今年の収穫は「語り継ぐヒロシマ・ナガサキの心(上巻)」という被爆2・3世による手記を集めた書物でした。筆者の多くは原爆投下後の広島・長崎市内に入った2次被爆者で、原子爆弾であることが判っていて市内に入らなければ被爆は避けられたかと言う事例ばかりでした。被爆者手帳の交付手続き等にあたっての市の担当者の対応の酷さも多く書かれていて憤りを覚えました。
私の父は大正15(1926)年生まれ。専門学校在学中(現在の明治学院大学)に学徒動員となり、昭和20(1945)年8月には、アメリカ軍の上陸攻撃に備えて、数人のグループに分かれて途中の農家等に分宿しながら茨城県の太平洋岸へと移動中で、15日にはそうした分宿先の家で玉音放送を聞いたとのことでした。
父は今も健在ですが、残念ながらもう過去の細かな記憶を述べられる状態ではありません。もう10年以上前に父に終戦のあたりのことなどインタビューしたテープがあるので、あらためて聴きなおしてみようと思います。
あと、直接の身内ではありませんが、妻の叔母の夫君に満州の阜新火力発電所の従業員とその家族たち(集団自決寸前まで追い詰められたことで知られる)と一緒にいたことがある人(本人は中学生で、夫が発電所に勤める姉の家に下宿していて行動を共にした)が居て、2年前の夏には話を聞きに行きましたが、残念ながら昨年亡くなられました。阜新発電所従業員とその家族については、所長のご子息(当時2歳)が後年父親からの聞き書きを元にまとめた本を1992年に出版していて、先ほど述べた私の親類筋の人との証言とまったく一致をしておりました。まとまりませんが、何を言いたいのかと言うと、先の大戦経験者の話を直接に聴ける機会はもうほとんど無い、そういう中で、私たちの世代は可能な限り長島さんのように聞き書きを記録に残しておかねばならないと言うことです。
あと、もう少し。
私は現在もう教職にはないのですが、更新だけはしておこうかなという気になりまして現在受講中の身(あと残すところ1日・1科目)です。そういう流れの中で受講することになったのが伊藤純郎氏の「アジア・太平洋戦争を問い直す」という講座でした。シラバスの中に「受講する者は、伊藤純郎著【特攻隊の〈故郷〉霞ヶ浦・筑波・北浦・鹿島灘】を読んでおくように。」という1行がありましたので手に入れたところ、長島さんのお父上の居た「土浦航空隊」についてのページもあり、ちょうど長島さんのブログを併せて読んでいる時でしたので、大変興味深く読みました。
1945年6月10日の土浦航空隊への空襲のことは伊藤氏の著書にも書かれており、凄惨な被害の様子などお父上の証言と共通しておりました。ただ、伊藤氏の著書には、空襲後生存の隊員は秋田県の大野村へ配置転換となったとだけ書いてありました。現地にはその旨の碑が立っているともありますが、実際の隊員であった長島さんの父上のお話もその通りなのでしょうから、秋田だけでなくいくつかの地域に配置転換となったということなのでしょうね。
長島さんのブログ第4回の終わりの方に「そうなれば僕は当然この世に生まれていない。・・・」とありました。私の父は、特攻隊員に比較したら幾分かは死への距離のある陸軍の一兵卒ではありましたが、あのままポツダム宣言を受諾せず戦争が続いていたら、おそらくこの世には居りますまい。あそこ(8月15日)で終わって良かったと思うと共に、なぜもっと早く終えられなかったのかとか、なぜ満州に国民送りこんだあげくたのか、とかあらゆることが無謀過ぎて、命を落とした方々のことを思うと悲しくなる。
私の父が実際の戦闘や外地での訓練に加わったことは無く、銃や銃剣で人を殺したり、略奪を働いたりしたという、本人の封印した記憶が無いことが、わずかばかりだが救いに感じられる。