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夜行特急「まりも」、今夜ファイナルラン

2008-08-31 | 鉄道
先程、北海道の札幌駅と釧路駅から夜汽車が最後の旅に出た。
8月31日出発の列車を最後に廃止される夜行特急「まりも」。
札幌と釧路を長年に渡り走り続けてきた、伝統ある名門夜行列車。
2008年の夏休み最後の日の今夜、ファイナルラン。

僕も先週末に有給休暇とマイル特典航空券を利用して、一足先に「まりも」に別れを告げてきた。

平成20年8月24日

深夜11時を過ぎても、人通りの絶えない大都会札幌の玄関口、JR札幌駅。
いつの間にか超高層ビルまで聳え立った煌びやかな北の大ターミナル駅から、「まりも」は出発する。


プラットホーム軒先に提げられた「まりも」の乗車位置表示。
ヘッドマークと同じ、夜の阿寒湖と月と星、そして波間に漂う毬藻のどこか神秘的な意匠が旅情をそそる。


スラントノーズの国鉄型車輌を先頭に、「まりも」が札幌駅に入線して来た。
最新鋭のL特急「スーパーカムイ」と並んで停止する「まりも」を、鉄道愛好家や旅行者がカメラに納める。


早速車内へと入る。
今夜予約してある席は、座席車主体の「まりも」編成に1輌だけ連結されたB寝台車の下段ベッド。
廃止間近でお別れ乗車で混み合う「まりも」でも最も人気のある席なので、寝台指定券の確保には苦労したのだ。
尤も、「まりも」をはじめとする道内夜行列車は先ずB寝台から売れる傾向があったので、昔からピーク時期の寝台券の入手には苦労したものだ。


定刻の23:08、札幌発車。
発車の時間も遅いし、明日の朝は早暁6時前には終着駅の釧路に到着してしまうので、かつては「乗ったら一刻も早く寝たもん勝ち」といった趣があったが、あと1週間で廃止となる夜行列車との別れを惜しむ乗客が大半の今夜ばかりはそういう訳にもいかず、皆すぐに眠りに就こうとはせず思い思いに「まりも」の夜を楽しんでいるようだった。
それでも午前1時を回り、列車が石勝線の山中区間に入り車窓から灯りも消えるとB寝台車の車内は寝静まった。


洗面所に設置されたソフトドリンクの自販機で買った、北海道限定の「リボン ナポリン」を飲みながら「まりも」の旅を味わう。
以前は車内自販機で、同じく道内限定品のビール「サッポロクラシック」や何故かおつまみセットまで買うことができて、車内で意気投合した見知らぬ旅人同士ささやかな酒宴を開くことが出来たのも懐かしい。もちろん、寝台車内で飲み合うと周りで寝ている「堅気の旅人」に迷惑なのでデッキや洗面所での立ち飲みだったりしたのだが、お互い若くて元気で楽観主義だけは溢れんばかりの貧乏旅行者同志の酒盛りは楽しかったなぁ…

「まりも」は寝台車を連結する夜行列車にも関わらず、機関車が牽くブルートレインのように専用の客車編成ではなく昼間の特急と共通のディーゼル車輌で編成され運転されている。そのため寝台車はディーゼルカーに挟まれるかたちで編成に組み込まれ、前後のディーゼル動力車から推されたり牽かれたりして走ることになるのだが、そのせいで独特のフワフワとした乗り心地となり、これがまた眠気を誘うゆらぎのリズムで気持ちが良いのだ。
僕も九州からの長距離フライトと苫小牧での宇宙ステーション「ミール」見学の疲れが出て眠くなった。いつまで起きていたいが、暫くベッドに横になることにする。
但し、朝の太平洋は是非見たいので束の間の眠りとなるが。


ベッドの中で気が付くと、もう車窓は明るくなっていた。
高緯度の北国の夜明けは本当に早い。
早速ベッドから飛び起きて、車窓に広がる道東の風景を見つめる。




原野の彼方に太平洋が見えてくると、もう終着駅釧路が近い。
寝台車から眺める夜明けの原野も、夏の終りの鉛色の大海原も、これで見納め。


午前5時50分、特急「まりも」は定刻に釧路駅に到着した。
余りにも朝の早い、もっと乗っていたいと名残惜しくなる7時間足らずの夜の旅だった。

夜行列車「まりも」は昭和26年に釧路と函館を直通する急行列車の愛称として名付けられ誕生した、歴史ある名門列車である。
但し、その後2回程「まりも」の列車名はダイヤ改正の余波で消滅と復活を繰り返しており、現在の特急「まりも」は平成13年に再々復活を遂げて登場したものということになる。
登場しては消え、そしてまた現れる数奇な列車名として、旅人の中には「是正しく阿寒湖の毬藻の如くダイヤの波間に浮き沈む列車」と呼ぶ風流な御仁も居たように思う。
僕自身、学生時代には長期休暇の度に学生課からせしめた学割証で買った虎の子の「北海道ワイド周遊券・学割」を握り締め数え切れないほど渡道し、そして夜には当時札幌を中心に道内各地へ向かって北海道の夜を走っていた道内夜行列車を宿代わりにした口だが、数え切れないほどの回数乗車した札幌と釧路を結ぶ夜行特急は当時「おおぞら13・14号」を名乗っていた。
だから僕は再々復活した「まりも」にはよく考えたら今回が初乗車だということに気がついたのは、釧路駅から乗り換えた釧網本線の普通列車の車内から朝の釧路湿原を眺めている時だった。
「そうか、本当に“最初で最後”のまりもの旅だったんだな…」

僕の学生時代、夜の北海道は夜行列車が行き交っていた。
札幌から釧路を結ぶ「おおぞら13・14」号、いくつもの峠を越えて網走へ行く「オホーツク9・10号」、最北端の稚内を目指す「利尻」、これらは寝台車つき夜行ディーゼルカー三姉妹。
そして函館まで走る「列車のユースホステル」こと夜行快速「ミッドナイト」、この列車は青春18きっぷで乗れたしカーペットにゴロ寝できたので有り難かったなぁ…
一体、幾つの夜を北海道の夜行列車の中で過ごしたことだろう。

気が付くと、みんないなくなってしまった。



翌日、再び乗り込んだ「まりも」の上り札幌行き列車で迎える朝。
これが本当に最後の、北海道の夜汽車の朝。

日本から、夜汽車が消えていく。

スピードと効率重視の前には、夜明けを目指しひたすら夜の底を走り続ける旅さえも許されない、そんな国になっていくのだろうか。
それは即ち「夜の闇の深さと寂しさ」そして「夜明けの光の温かさ」さえも知らぬ心が空っぽの国になっていくということではないのか?

そんな国には、「本当の夜明け」さえももう二度と来ないんじゃないか…?

でも、僕はそれでも「まりもは再び波間に浮かび上がることがあるかも知れない」と微かな希望を捨て切れなかったりもするのだ。

深夜の狩勝峠越え、寝静まった寝台車のデッキから、あの頃の若い旅人達が
「なーに、大丈夫大丈夫!俺達みたいなどうしようもない奴らがしぶとく旅をし続ける限り、この国にも列車は走り続けるよ。お客が居る限り、走るのを止める訳にはいかないからな!だから、これからも旅を続けないといけないな!人生死ぬまでが旅だよ」と缶ビール片手に笑い合う声が、ふと聞こえてきたような気がした。

ありがとう、そして…
「いつかまた会おう!わが青春の夜行列車よ!」

平成20年8月31日、最後の道内夜行列車「まりも」、ファイナルラン


SAVE OUR SHIP ~ミール、懐かしき宇宙船。苫小牧~

2008-08-31 | 宇宙
遅い夏休み、懐かしい宇宙ステーションに会ってきました。

平成2年というから、あれからもう18年も経つのか。この年、日本人が初めて宇宙へと旅立った。
その日本人は宇宙開発事業団NASDAの宇宙飛行士ではなく、テレビ局勤務のサラリーマンだった。そして、宇宙へと向かった先は同盟国アメリカ・NASAのスペースシャトルではなく、ソ連の宇宙ステーションだったのである。


北海道、苫小牧市科学センターの一角にある、ミール展示館



ミール展示館へはJR苫小牧駅から歩くこと約20分。
まだ真夏だというのに肌寒い木枯らしのような風の吹く8月23日、僕は再び北海道の地を踏んだ。
つい1週間前にも青春18きっぷの旅で北海道を縦走したばかりだが、また来てしまった。今回は航空会社のマイル特典航空券を使ったので、実質的に旅費はタダなので、まあいいか。

今回、北海道に来たのは、今月限りで廃止となるある夜汽車への別れを告げるためだが、件の札幌発釧路行き臨時夜行特急「まりも」号の発車は午後11時過ぎ。1日に1本だけ運行されている九州福岡空港から北海道新千歳空港へのANAの直行便の到着時刻は午後1時過ぎなので、余りにも時間がある。それに、新千歳空港は苫小牧からも程近い。という訳で、この機会に以前から一度行ってみたいと思っていた苫小牧市科学センターへと足を運んだのである。
ここには、地球上に唯一遺された「本物のミール」があるのだ。

ミールは、ソビエト社会主義共和国連邦が建造した宇宙ステーション。
日本も実験棟「きぼう」で参加する国際宇宙ステーション(ISS)の運用が開始される遥か以前の1986年から地球周回軌道を飛び続けた歴史ある宇宙ステーションである。
ロシア語で「平和」を意味するこの宇宙船は永らく宇宙ステーションの象徴として軌道上に君臨し続け、老朽化やソ連の崩壊とロシアの経済混乱によりにより運用継続が困難となり2001年に南太平洋上ニュージーランド東方2000キロの洋上に落下して消滅するまでに地球周回軌道を86331回周り、世界各国から延べ100人以上の宇宙飛行士たちが訪れ滞在した。そしてその中には日本人として始めて宇宙へ行った秋山豊寛さんが含まれている。

苫小牧駅の観光案内所で「あの~、ミールを見に来たんですよ。宇宙ステーションの」と言うと、すぐにパンフレットの地図にチェックを入れて行き方を教えてもらえた。
陽射しも弱く寒々とした苫小牧市街を歩いて、目指す苫小牧市科学センターに到着。ミール展示館は何故か外から見るとヘリコプターの機体が収納されているのが見えたり、前庭に蒸気機関車C11が鎮座ましましていたりする。


中に入ると、いた!
ミールが、宇宙ステーションが目の前に現れた。
思ったほど巨大ではない。以前、種子島で打ち上げがキャンセルされたまま倉庫に納められたH-IIロケットを見たことがあるが、狭い倉庫にぎっちり詰まって馬鹿でかく見えたH-IIに対していかにもシンプルでコンパクトに見え、「本当にこんな小さな宇宙船に何人も生活していたの?」という感じだ。
尤もここに納められているのはミールの中核となる「コアモジュール」と科学実験モジュール「クバント1」のみで、実際には地球周回軌道上のミールは最終的には7つものモジュールと時にはNASAから迎え入れたスペースシャトル・オービターまでもが連なる宇宙の一大建造物集合体だったのだ。


ここにあるミールは的川泰宣先生の「YMコラム」バックナンバー(2000年1月19日)によると「地上の訓練用に使われた本物」とある。ミール展示館の解説案内によると「予備機」とあるので、いずれにせよ万一ミールのコアモジュールとクバント1の打ち上げが失敗した場合には代わりに宇宙へと行く筈だったものということになる。
この「宇宙へ行けなかったミール・コアモジュールとクバント1」は、その後のソ連革命による連邦崩壊とそれに続くロシアの経済混乱で競売に掛けられる憂き目に会い、そして苫小牧の建設会社によって競り落とされ「地元北海道苫小牧の子供たちに見せてあげたい」ということでここに安置されるに至ったのである。まさにようやく地上の安住の地を得たのだ。


コアモジュールとクバント1の結合部。
外殻の径が同じなのでロケットの1段目と2段目の結合部のように見えるが、中央部には「人が通る通路」が貫かれている。




コアモジュールに翻る赤旗と「鎌と槌」、ロシア語による正式国名表記Сою́з Сове́тских Социалисти́ческих Респу́бликを表すCCCP。
現在ではある種の懐かしさすら感じる、社会主義超大国の残滓。


船内を見られるようになっている区画もあるのだが、もはや「アナクロな懐かしさ」しか感じないのだ。
アナログのダイヤルが並んだコンソールのレトロフューチャー、これは宇宙研の内之浦宇宙空間観測所で見た時代遅れのロケット制御用最先端機器と同じ哀愁をもって、僕に何かを訴えかけてくるのだ。


秋山さんがミール船内で筋トレをしているVTRを見た記憶があるのだが、こんな狭い区画でトレーニングしていたのか。


コアモジュールのドッキングポート。
ここに数多くのモジュールが接続され、宇宙ステーション「ミール」を構成していた。
そして遂には東西イデオロギーの垣根を越えて宿敵アメリカのスペースシャトル「アトランティス」までもがミールに繫がったのである。

ミールはまさに文字通り「平和」を体現した宇宙船だったのだ。




ミール展示館の一画にはこんなものも展示されていた。
固体燃料ロケットモーターの推力中断実験って、宇宙研は苫小牧でこんな実験もしていたんだ。
確かに、JR日高本線に乗って苫小牧駅を出発すると嫌になるくらい広大な工業団地予定地とか荒野が広がってるから、多少の固体燃料大爆発は問題にならないくらいの場所は目一杯ありそうだもんなぁ。。。

この後、プラネタリウムの上映があるとの案内放送があったので科学センター本館に移動してプラネタリウム鑑賞。
小振りなドームだったけど、機材が僕の地元熊本市立博物館のものと同じメーカー製なもので上映中の雰囲気がそっくりだったりして面白い。
それにしても、本館との渡り廊下の途中にあった実験室のレトロな雰囲気はどうだ。
友人のKたちとつるんで科学談義に熱中した中学校の理科実験室を思い出した。


激動の20世紀末を地球上で漂流した宇宙船がようやく安住の地を得た、苫小牧市科学センターミール展示館。
そこは懐かしい最先端が眠る、不思議な雰囲気が楽しい博物館でした。

科学センターを後に苫小牧駅へと向かう。
裏手の小学校の前で、Kに電話をかけた。
「もしもし…『これ、本番ですか?』」
「え?何だお前どこにいるんだ?」
「また北海道だよ。それより、『これ本番ですか?」には『カエルは元気だよ』だろ?」
「…ミールだな。」
「そうだよ。ミールに会ったよ。今、苫小牧にいる。♪SAVE OUR SHIP永遠に漂流する魂だから…」

♪せめて今は強く抱いて

さあ、札幌駅に行こう。夜行特急「まりも」が待っている

白鳥英美子・中村由利子ジョイントコンサート~FRIENDS~ を観る

2008-08-31 | 映画・演劇・コンサートを観る
地元の、というか我が家から徒歩圏内のホールでのコンサートでした。

中村由利子さんは、萩尾望都の名作「トーマの心臓」をモチーフにした実験的な映画「1999年の夏休み」に使われたアルバム以来ずっと聴いていました。
硬質なピアノとでもいうのか、結晶のような弾き方が耽美的。

ジョイントコンサートということで、白鳥英美子さん(トワ・エ・モワの人だそうですが、すみません僕はトワ・エ・モワ自体よく知らない…)の歌がメインの構成で、中村さんのオリジナル曲は数曲しか聴けなかったのが残念。
それでも「ディア・グリーン・フィールド」のイントロがホールに流れた瞬間、「1999年の夏休み」のワンシーンやこの映画について上級生の女子生徒と図書準備室で語り合った高校生のあの日の情景、ヘッドホンステレオでこの曲を聴きながら旅した北海道や南部縦貫鉄道の車窓が甦ってきたよ。