秋田へ帰ってしまう友人の送別会をうちで行い、わいわいやった後、一人HNK教育の『マキノ雅弘 ある活動屋の生涯』を見る。
やっぱり彼はすごい…。4歳から役者として仕込まれ、父省三の制作を手伝い始め、十代から監督としての才能をめきめき発揮。
そのエンターテインメント性、斬新さは抜きんでていた。番組内でも紹介されていた、スターなしで大ヒットを飛ばした『浪人街』(昭和2年)。私も活弁をやった作品であるが、市井に生きる浪人群像は非常にイキイキとしていて、ぐいぐいひき込まれてしまう。スターたちは皆マキノプロから独立していなくなってしまったのに。父省三がうたった「一スジ、二ヌケ、三ドウサ」を実践した監督の手腕である。
彼の作品に出演した無名の役者が何人も大スターに育った。
死ぬまで、映画にこだわり続け、病床にあっても、映画を撮りたがった。
任侠路線でない、彼が本当に撮りたかったエンターテインメント映画を、後期にもっと撮ってほしかったなあ、と思う。
やっぱり彼はすごい…。4歳から役者として仕込まれ、父省三の制作を手伝い始め、十代から監督としての才能をめきめき発揮。
そのエンターテインメント性、斬新さは抜きんでていた。番組内でも紹介されていた、スターなしで大ヒットを飛ばした『浪人街』(昭和2年)。私も活弁をやった作品であるが、市井に生きる浪人群像は非常にイキイキとしていて、ぐいぐいひき込まれてしまう。スターたちは皆マキノプロから独立していなくなってしまったのに。父省三がうたった「一スジ、二ヌケ、三ドウサ」を実践した監督の手腕である。
彼の作品に出演した無名の役者が何人も大スターに育った。
死ぬまで、映画にこだわり続け、病床にあっても、映画を撮りたがった。
任侠路線でない、彼が本当に撮りたかったエンターテインメント映画を、後期にもっと撮ってほしかったなあ、と思う。