去年の東日本大震災から間もなく1年半となります。自分なりに、この大震災を近いうちに総括したいと思っています。自分の心の中だけに留めるか、このブログに載せるかはまだ決めていません。でも、マスコミや国会、東京電力などとは違った視点で、地震のこと、原発事故のことなどを個人的にまとめてみたいと思っています。
その前に訪れておきたかったのがここです。福島県は原発事故が前面に出ましたが、岩手県・宮城県はやはり津波の被害が大きく報道されていました。その中でも目立ったのが石巻市北部の大川小学校です。全校生108人のうち74人が亡くなったことで、今でも県や市の防災体制、学校の安全対策が遺族側から追及されています。新聞では「なぜ裏山に逃げなかったのか?」という言葉が盛んに書かれていました。大地震の次には津波が来るかも知れないのに、何故?逃げなかったのでしょうか。実際の現場をこの目で見たいと思ったからです。8月25日に出掛けました。
大川小学校は北上川河口から4kmほど上流南側にありました。トラロープが校舎全体に張り巡らされ、関係者以外は立ち入り禁止との看板もありました。ただ、校舎周辺は自由に歩けるようになっているので、入り口近くの供養塔で犠牲者の方々のご冥福を祈った後に、窓やコンクリートの割れ目などから内部の様子を少しだけ覗くことができました。校舎自体は教室と集会場(?)、体育館がコンパクトにまとめられた2階建てです。2階の天井が大きく歪んでいたものの、屋根のテレビアンテナは全く曲がっていなかったため、2階天井辺りまで津波が襲ったようです。
画像の右側(南)はやや急ですが裏山に登ることは可能だと思いました。問題は左側(北)です。見渡す限り校舎以外何もありませんでしたが、津波襲来の前は郵便局や交番、民家、墓地などが学校の周りにあったようです。各種建物の後ろが堤防になっていました。その堤防のために、北上川の水位が全く見えません。当時、わずかでも水位の変化が見えていたのならば…と強く思いました。また、私は新聞で見た「裏山へ逃げろ!」の言葉から山に囲まれた小学校を想像していましたがそうではありませんでした。周りの住宅地よりも一段高いところに建てられた学校をよく見ます。しかし、大川小学校は全くの平地の学校です。校庭も低いところにあり、もしかしたら校庭の高さは北上川の水面の高さと同じくらい?との印象を持ちました。
報道等を整理すると、地震発生後に校庭に児童を集合させ、話し合いの結果、40分後くらいに学校より高い場所にある新北上大橋の付近へ避難させることとなったようです。(実際は避難途中で新北上大橋付近の堤防から津波が襲いました。)この40分も「どうしてこんなに時間が掛かっているのだ。」と遺族の間で問題になっているようです。でも、日本の学校は全員いるかどうか何重にも点呼をとるし、もしかしたら、我が子を迎えに来た保護者に対応していたのかも知れません。
その前に訪れておきたかったのがここです。福島県は原発事故が前面に出ましたが、岩手県・宮城県はやはり津波の被害が大きく報道されていました。その中でも目立ったのが石巻市北部の大川小学校です。全校生108人のうち74人が亡くなったことで、今でも県や市の防災体制、学校の安全対策が遺族側から追及されています。新聞では「なぜ裏山に逃げなかったのか?」という言葉が盛んに書かれていました。大地震の次には津波が来るかも知れないのに、何故?逃げなかったのでしょうか。実際の現場をこの目で見たいと思ったからです。8月25日に出掛けました。
大川小学校は北上川河口から4kmほど上流南側にありました。トラロープが校舎全体に張り巡らされ、関係者以外は立ち入り禁止との看板もありました。ただ、校舎周辺は自由に歩けるようになっているので、入り口近くの供養塔で犠牲者の方々のご冥福を祈った後に、窓やコンクリートの割れ目などから内部の様子を少しだけ覗くことができました。校舎自体は教室と集会場(?)、体育館がコンパクトにまとめられた2階建てです。2階の天井が大きく歪んでいたものの、屋根のテレビアンテナは全く曲がっていなかったため、2階天井辺りまで津波が襲ったようです。
画像の右側(南)はやや急ですが裏山に登ることは可能だと思いました。問題は左側(北)です。見渡す限り校舎以外何もありませんでしたが、津波襲来の前は郵便局や交番、民家、墓地などが学校の周りにあったようです。各種建物の後ろが堤防になっていました。その堤防のために、北上川の水位が全く見えません。当時、わずかでも水位の変化が見えていたのならば…と強く思いました。また、私は新聞で見た「裏山へ逃げろ!」の言葉から山に囲まれた小学校を想像していましたがそうではありませんでした。周りの住宅地よりも一段高いところに建てられた学校をよく見ます。しかし、大川小学校は全くの平地の学校です。校庭も低いところにあり、もしかしたら校庭の高さは北上川の水面の高さと同じくらい?との印象を持ちました。
報道等を整理すると、地震発生後に校庭に児童を集合させ、話し合いの結果、40分後くらいに学校より高い場所にある新北上大橋の付近へ避難させることとなったようです。(実際は避難途中で新北上大橋付近の堤防から津波が襲いました。)この40分も「どうしてこんなに時間が掛かっているのだ。」と遺族の間で問題になっているようです。でも、日本の学校は全員いるかどうか何重にも点呼をとるし、もしかしたら、我が子を迎えに来た保護者に対応していたのかも知れません。