戦前・戦中派の私から若い方達への申し送りです。どのような事でも世論に流されずに自分の頭で考えましょう。
旧新日鉄は合理化のために旧八幡製鉄所の多くの施設を君津へ移転し、旧八幡市の中心部に大きな穴を明けて来ました。普通なら自社の都合の合理化とは言え北九州市に大きな損害を与えたのですから、何らかの代償として同市への貢献をすべきですが、その現実については北九州市に迷惑のかけちらし。無人の遺産の元本事務所さえ入室禁止。
唯一の例外は八幡製鉄所の所長で後、副社長をしていた水野勲さんが退職後、平野社宅の跡地に今まで山の上にあった九州国際大学を誘致。本来なら福岡市にあってもおかしくない九州国際センター(JICA)を誘致するなど北九州市に大きな貢献をして来ました。現在残っている溶鉱炉の跡も水野さんの指示により改修され今の形で残されて貴重観光の資源になつています。
その水野勲さんが始めたのが、JICA(ジャイカ)支援のKITA(カイタ)の発足です。私も副理事長の清水さんとのコネで参加させていただきました。現地に乗り込む前の最初の仕事は北九州市と周辺地域の工場の紹介文の作成。私はその英文化で毎日独り残業と言う楽しい日々。
その後平野の現地での本格的な活動開始。その何年後かに海外の協力いただいた方を招いての講演会とパーティー。それから友好都市の大連での講演と、設備の視察とアドバイスなど好調なKITA。
その後JICAとKITAの間がまずくなりかけた時は安川電機から来られた研修課長の働きで正常化。
私は明治高専(今の九州工大)の夜間部卒でしたが、公には伏せていましのでコースのリーダーの補助をしていました。そこで知ったのは補助役の人たちのすごいこと。一人はウインドーズの基礎のMSDOSまで使いこなす腕。一人は小学校卒なのに課長のコースリーダーを纏める副研修課長になった後死亡。コースリーダーは安川出身の一人を除いて皆新日鉄出身の、補助役に比べれば平凡な元課長や部長。後研修で新日鉄の見学して判ったのは現場を支えているのはベテランの職長。
現地に入った私は暇の時に英語の術語集の作成。パソコンによるテキストの管理システムを纏め。部長、課長としては始めて自分で予算を組むためか計算ミスが多いと言うことで、エクセルの自動集計システムを作りましたが、コースリーダーがパソコンの練習するなど早すぎて広がらぬまま。
・その内に私が補助していたコースリーダーのやる気なさに気づいて辞職を申し出ましたが遺留。
・そのコースリーダーの不正が発覚してくび。
・その後暫くして理事長、事務総長と死亡。
・一人残った副理事長は何時もJICAに出向き研修員と話し合い。一番研修員の持つ問題点を知っていたし、彼らが抱えている何か問題があれば、私たちに対策の立案や関係者からの情報入手を指示。一方英語のできぬからか?コースリーダーたちはよほどの時を除いて研修中もKITAにいるだけ。つまり研修員の抱えている問題さへ知らないコースリーダーたち。
・そんな時に役員として唯一人残った副理事長とコースリーダーの間に、今後の方向として技術中心か管理中心かで大議論。多勢に無勢で管理中心を唱える副理事長敗退、後よほど考えたのか辞職決意。
水野勲さんがKITA始めた理由として戦後の難しい時期に職員も作業者も下請げ業者も一致して困難を乗り越えるたこと書いています。つまり大事なのは皆の協力と言う管理の重要なこと考えてKITAを作ったのを新日鉄以外出身の私でさえ知っているのに、新日鉄出身のコースリーダーは忘れているのか、聞かされてといないのか?
新日鉄に就いて良く勉強した私から言えば研修員に教えられる新日鉄の技術はゼロ。強いて教えるとすれば新日鉄の存亡にからかわる技術の流出。他に考えられるのは当時から私でさえ使っていたパソコンによる情報処理など考えていた??そんなことは言われなくても外国でも直ぐに追いつくのに。私もはらはらしながら聞いていたのですが、彼らの具体的な意見は出さずしまい。
そして現実はネットで調べたのですが、今KITAで教えているのは当時のKITAの環境協力センターが担当していた北九州市の水管理や消防の技術などなど。詰まり当時の研修部の人たちが考えていた技術?は全くなし。可哀想な副理事長。
強いて副理事長のミスと言えば最初に書いたように余りにも自分優先の体質の新日鉄の人ばかりを集め過ぎていたのが本人の引退に繋がっていたこと。
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