69年前の今日長崎に原爆が落とされ悲劇が始まった。台風の強風圏の中で始まった今年の「平和祈念式典」。田上長崎市長は「平和宣言」の中で、安倍晋三政権が7月に閣議決定した集団的自衛権の行使容認を巡る議論に言及し、「『戦争をしない』という誓い、平和の原点が揺らぐことに対する不安と懸念の声に真摯(し)に向き合い、耳を傾けることを強く求める」と政府に強く呼び掛けた。
昨年8月9日「長崎原爆の日に思う」とブログを書いた。平和を切に願いながら、その日のブログを今日のブログとしよう。それにしても、総理の全く温かみのない祈念式典の挨拶。広島の式典と同様、前年の祈念式典のあいさつのコピぺ(引き写し)。原爆被災者や遺族を愚弄するにも等しいことではなかろうか。
第2次世界大戦も末期、68年前の8月9日11時2分、長崎に1発の原爆が投下された。この1つの兵器で、長崎市の人口24万人(推定)のうち死者7万4909人、負傷者7万4909人、建物は約36%が全焼または全半壊した。
当日の原爆投下作戦は第一目標は小倉市(現北九州市)、第二目標は長崎市と決められていた。朝早くテニアン島から原爆を積んだB29は飛び立った。午前9時44分第一目標の小倉造兵廠上空に到達したが、目標は、前日およそ7km離れた八幡市空襲の残煙と靄に覆い隠されていた。
原爆は目視による投下が厳命されている。空襲の残煙と靄に覆い隠された目標を見た爆撃手が目視による投下確認に失敗。その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返したが失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分間が経過した。
3回もの爆撃失敗で残燃料に余裕がなくなり、予備燃料に切り替えたものの、その後、天候が悪化。日本軍の反撃体制も予測されたので目標を小倉市から第二目標である長崎市に変更、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。
小倉にかわり長崎の悲劇はこの時に始まった。
9日午前10時35分「被爆者歌う会ひまわり」の合唱で始まった総理も出席する平和記念式典。田上長崎市長の長崎平和宣言が高々と読み上げられた。「日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。」と、それは痛烈な被爆都市からの政府批判。
被爆者の平均年齢は78歳。平和宣言作業委員会被爆者代表は、安倍政権が意欲を見せる改憲、とりわけ9条の改正への危機感がつよいとある。いまだ、原爆の苦しみを背負い高齢化する被災者の願い、少しでもくみ取ってはいだだけないのだろうか。
私の家は当時、小倉から約3㌔離れた戸畑市にあった。国民学校4年生。毎朝のように空襲警報のサイレンが鳴る。10分か20分たつと敵機襲来となる。全員が防空壕に避難しなければならない。その日の朝は暑かった。空は真っ青。いつもと違い空襲警報の後、敵機襲来のサイレンがいつまでたっても鳴らない。近くの公園では蝉の声が賑やか。待ちきれなくなり蝉を取りに出かけた。夢中で蝉を取っていると、急にあたりが薄暗くなった。東の空を見ると沢山の飛行機が見える。100機だろうか、それ以上だろうか。グラマン、カーチス、ロッキードP51などアメリカの艦載機群だ。その飛行機はなにかを流している。簾のように。あとで知ったが電波妨害のための白いアルミ箔だった。
時間がたってアルミ箔が地上に近ずいた。10歳のこども喜んでそれを拾いにいった。その時、鋭い飛行機音を耳にした。右横上空低くにグラマンの姿が見える。危ないととっさに地面に這いつくばった。機銃の音がした。バシッ、バシッとすぐそばで。約10メートルは離れていただろうか、機銃の跡が2~3メートルの間隔で残っている。たちまち恐怖に襲われた。人と見れば機銃で撃つ、それは幼い子供に戦争の恐ろしさを実感させた。無事だったことが奇跡と思う。
小倉の代わりが長崎、あまりにも悲しい現実。おこがましいことだが、原爆目標地から3㌔の戸畑に住んでいた私は無事だった。68年前を振り返り、被災された犠牲者の皆様に心からの黙祷を捧げます。