半世紀ほど前、大学で、近代の「学校」は産業革命後の欧州で「工場と軍隊」のため労働者と兵士を育成するための箱ものだったと教えられたことがありました。
だから、「密」でないと成り立たないものだと考えていました。
日本は独自の庶民のための学校という武士や僧侶が教育を行うというシステムが発展していたのですが、明治以降、欧米に倣った「兵士、工場労働者」養成のスタイルに変わって、ようやくその弊害からのがれ、今年から新しい学習指導要領で方向転換を模索し始めた時にこのコロナでした。
コロナがおさまれば、とか、収まるまで我慢すればやり過ごせるという文脈での言葉がまるで日露戦争前夜の臥薪嘗胆というプロパガンダのように聞こえる時があるのは何故でしょうか。
コロナ以前に戻れないことを前提と
して、新しい「教育」や「教師」、「学校」という入れ物を考えることが必要なのではないでしょうか。
でも誰がそれを考えるのでしょうか。
学校現場などきたことのない国(文部科学省)の官僚やコロナで生命と経済を天秤にかけさせて世論だけを優先する政治家なのでしょうか、
国から教育予算を減らされ、非常勤講師の確保すら四苦八苦の都道府県教育委員会なのでしょうか、
自分の学校のことだけ考えればよしとする管理職と自分の子どものことだけを考える親たちのはざまて無力感をもっている市町村の教育委員会なのでしょうか
生殺与奪の人事権もなく、伝達方法がトップダウンかボトムアップのふたつの選択肢しか持ち合わせていない校長先生なのでしょうか
個々の不満だけを集約し、明日の見えない議論に生き甲斐を感じる多数派願望の強い同僚という名前のご近所さんでしょうか
それとも。