「しつけ」を必要としない「若者言葉」による若者社会と「しつけ」をまだ必要とする「大人言葉」による大人社会
若者言葉で育った「子どもたち」は大人社会で必要とされる「大人言葉」や「大人たちの文化」を知らずにいる。
教師の多くは「しつけ」は「躾」と書き「我が身を美しくする、品位をそだてるものだ」と理解してきた。
しかし語彙や知識として子どもたちに伝えることはできても、学校教育の中で「教育」することにしり込みしてきたのではないだろうか?
生徒に送ったメールに「了解」とかえって来ても、何のこだわりを感じない若い先生。
学年で任務分担時に、まず「楽な仕事はどれですか」と聞く若い先生に、それが、おかしいと指摘すれば「お局様」とレッテを貼られ悩むミドルリーダーたち。
そんな若い先生が「道徳」を教えても、子どもたちは建前だけしか理解できないように思います。
廊下を走る子どもを高圧的な言葉しか制止できないことに悩むのは真面目な若い先生なのです。