おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

2人目の孫が小学校に入学しました

2022-04-12 14:30:25 | Weblog

二人目の孫が今年から小学校に入学しました。
息子は入学式のあと、孫が入学した都会の小学校の入学説明会にいった時の驚きを話してくれました。

都会の小学校ではPTAが任意参加になっているといいます。

時代が変わったといえば、そうなんだろうけど、もはや男義を振りかざして役員に立候補しなくてもいいらしいといいます。
PTAは先生と保護者が交流するカルチャーセンター、スポーツクラブに変わっていくのだろうね。

子どもや学校のために行う活動は随時、学校がボランティアを募集し
その都度「保護者や地域の人」が意欲的に参加してくれることを前提にしているらしいです。

登下校の担当「地域係」は別の持ち回りとして「地域の子供会」などが担っているらしい。

「PTA」は学校が子供を守るために必要な「保護者のボランティア」という側面が強く
「先生」は何もしないで参加するだけという耳の痛い話も昔もあったようなのですが、
「保護者の方に対する感謝」は「先生たちも持っていた」ように思う。

「保護者が自分たちの楽しみや交流のために行うPTA活動」なら
「先生たち」も任意参加すればいいのにそうではないのはなぜだろう?と思ったそうです。

昔からPTA活動という時間外の勤務を伴うイベントへの参加に関しては、負担に感じていたのは「保護者の方」だけではなく「先生たち」も負担だと思っていたんだけどと結局は就職には必要がなかった「教育実習」の経験をうんちく垂れています(笑)。

その話をしながら「子どもたちのため」という視点がどこか消えていくことが何かおかしいと思うのは、私が田舎の学校で教員をしていたからだろうかとふっと考えました。

教員免許を持っているのに10年で失効することを知らなかった息子は結局PTAに参加しないというの判断したのですが時代の変化を感じるひと時でした。

もう一つ入学準備物の話


「入学説明会」では「例年、本校では」という言葉に続く文脈で、「学校ではほとんど検討がされていない」ことを露呈してしまう定番の「お道具箱」をはじめとする教材や教具に関しての「一括購入」の説明があります。

息子は参加する側ですが、開催する側で経験したことがあるので、息子が疑問に思うこと「なぜ今どき」に続く文脈の話をしました。

一年生の子どもの教材は個別に購入も可能なのだろうが「一括購入」は強制で「違うものを排除する体質」が学校にあるということは必要悪かもしれないということを前に話したのですが

そんなことより金額だといいます。

「保護者の手間を考えて一括購入」するのだろうが
「想定していたより、結構これにかかる費用が高かった」と息子は言います。

確かに昔とは違い指定された店で購入しなくてはならない水着やヘッドキャップだけではなく
任意で「ラッシュガード」や「ゴーグル」などの「安全に配慮して」いるグッズが増えているしいのです。本来廉価なものを提供するはずの公立学校が「安全」や「衛生」などの時代の要請に伴い増えてくのは仕方のないことだろうけど、大型量販店が地域に定着したことで「学校ご用達の小売店」が倒産し
「シャッター商店街」が増えたことを学習させる田舎の小学校で育った息子は都会の学校のシステムが
もう一つしっくりこないようです。

小学校で体操服に名前を書かせるのはなぜ?
1クラスの子どもの数が減っているのにクラスの子どもの名前を先生が覚えられないから?

全校で活動するときに役に立つからだよ。
「密な状態で監視するために必要なんだ」なかなか鋭い(笑)

集団で行動することを教える学校で、コロナは「密になること」を禁じた。

密な状態にならないことが「当たり前」になるなら学校も「例年どおり」では意味がなくなることも多くなるのだろう。それをすぐに対応できる学校は少ない、というか「やらなければならないこと」が多すぎると機能不全に陥る場合もあるだが「例年通りやることが時間もかからず、一番楽」だから、なんて話しても「改善」を常に求められる「会社」に努める者には理解できない論理らしい。

ただそれを「保護者が学校にストレートにいえばクレーマーと思われ学校側の心証は悪くなる」場合もあるから「学校も大変なんだ、わかってあげないといけない」考えろといった。

たしかに、「かずの勉強」で「おはじきや立体タイルを使うか数え棒を使うかは学校の使う教科書により違いがある」のにもし、最初から「どちらかの教具で購入されてた場合、教える先生が転勤などで自分の修得していた以外の指導方法が必要になることにストレスを感じること」はあったし

「一年のお絵かき」は「クレヨン・クレバス」で行うことが多いのに「絵具セット」で使い方を教えることが、三原色を教えることより優先されたりすると「色を作ることの喜び」より「お作法」としての「12色の絵具と筆の使い方」を教えているのじゃないかと考えた時もあった。

公教育は最低限のマニュアルに従わないといけないということは「先生」にならないと理解しにくい部分だと思います。

でも、たしかに同じものをみんなで使っているのでなくしたときに「自分のものがないので困るから」全部に、名前を書いてくださいという発想もわかるのですが、この辺りを「自分のものがない」ときに「どのようにして解決するか」という「社会性」を育むチャンスとしてとらえさせたいという思いのある「先生」もいなくなったのだろうか。

「シェアすること」が新しい通念として根付き、「共生」という価値が尊ばれている時代に、クレパス一本一本、鉛筆一本一本に名前を書くことの意味を問い直す時期になっているのはないだろうか。

個別に同じものを持たせることが「公教育」の責務だという考え方が「子供の個性」を埋没させていることに、まだ気づかないのだろうか。ひとり一台の会社の違う情報端末を子どもに「貸与」であれ「購入依頼という強制購入であれ」、自治体の「財政状況の違い」により「同じサービスが」受けられていないとすれば、「親の生活力」が「子どもの学力」に影響しているという論理と同じことが起こっているわけですよね。

印字した鉛筆を使わせることが「親の責務」を果たしたと勘違いしているようにも思うのは、鉛筆をちびるまで削らされた昭和のじいじの思い違いなのだろうな。


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