まだ、学校では、目の前の山積みの課題に、世の中は経済状況やコロナの罹患者数に目が向けられていますが、今、僕は、教育現場が気になります。
オンライン教育で危惧していたことが新聞の相談欄にありました。
18才の大学生、まだ1度も大学のキャンパスには足を踏み入れてないそうです。(今年の一回生はみんなそうなのでしょうか)
「授業はオンラインですが双方向の講義は少なく、学生間のやり取りはほぼゼロ
」
回答者の教授は、みんなが未曾有の出来事で対応しているので、コロナがすぎるまで、我慢しましょうという方向(笑)
今どきの学生にそれほどの耐性(精神性でだけでなく経済的にも)があるのかなと首をかしげました。
ある大学では統計処理の課題で、学生たちにコロナの影響のアンケートをしたら、「退学や休学をかんがえている」学生が、想定以上だったとか。
金を払っているのに、映像がながれるだけのオンライン講義の課題ですね。
大学なのに進学塾とおなじなのという失望感なのかもしれませんね。
総合大学ではシステム的には可能な場合が多いので、双方向での利用の仕方をコロナ前に「習得」していない、しなかった大学の先生たちが慌てているだけなのかもしれません。
問題はさらに深刻な義務教育の現場です。
同じことが、学校や先生に文句も言えない小学校の子どもたちの学校でも起こっているということですね。
リアルだけが当たり前の風景だったコロナ以前の学校現場の限界ですね。
大学では退学や休学が学生の意思でできますが、義務教育の子どもたちは、「不登校」「登校渋り」か増えるのではないでしょうか。
東北の震災で、流れるはずのなかった校長室の巨大な金庫に入っていた「開校以来の膨大な機密情報」が海の中にしずんだように、今度のコロナで「当たり前の教室での教え方」が、消えてしまったように思います。
これからの教育の「リアルとバーチャルの往還」を可能にするシステムとそのために必要な指導者のスキルを考えなければならない理由がここにあります。
ICTが使える先生たちのなかでよく行われていたバーチャル優位とかリアル優先とかいう対比の議論をいつまでも行っている場合ではないと思います。
まず、今あるもの、今できることからのスタートが大切ですね。
短い夏休みにホッと一息ついたら、また激闘ですね。コロナにも、自分にも負けず頑張って下さい。
知識と成績という視点からの「学力」の捉え方は、とても東洋的で、科挙に代表される選抜のための手法としては魅力的だったのかもしれませんが、「学び」と「探求」という視点からの「学力」の捉え方がグローバルスタンダードであるということにようやく(ふたたび?)方向転換しようとした矢先にコロナというのも、なにか意味があるように思います。
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