まずは古代のお話から。
古代における天皇(いつから天皇と呼ばれたのかは知りませんが)とそのほかの豪族たちとの権力争いが今の奈良県であったことは歴史の勉強で学んだと思います。邪馬台国がどこにあり卑弥呼がどこに住んでいたかは別にして(最近の研究では箸墓古墳が卑弥呼の墓だとか)奈良にあった「都」が京都に移ったことは間違いのない事実ですよね。
古代の飛鳥時代において多数の豪族から大王としてのポジションを獲得し、大和朝廷を奈良で立ち上げた時、天皇家はまだまだ不安定でそのほかの豪族たちや天皇家内部での権力抗争などとても面白いものがある時代ですよね。
物部氏と蘇我氏との対立は仏教が原因といわれていますが聖徳太子は蘇我馬子とタッグを組み物部守屋と大阪府の八尾市付近で戦い、戦勝を四天王に祈っています。聖徳太子がすでに天皇だったという説もあるのですが四天王への祈りは仏教徒の証ですよね。
そう古代から仏教徒だから菩提寺があっても何の不思議もないはずなのです。
でも明治大正昭和に生まれた世代はある違和感があるのですよね。
神道という「神社」と深い関係のある「古事記」や「日本書紀」に書かれている神話の部分が、何かすっきりしないのですよね。
八尾の宗教戦争は「神」を信奉する物部氏と「仏」を信奉する天皇側が勝利し、以後の奈良時代にも大仏を作ったりしていますよね。なのに敗れた物部氏が主張していた「神」に天皇が祭り上げられているという構造が、彼らが生まれた時代には出来上がっていたのですね。
でも、奈良時代には、大仏は立てても天皇家の菩提寺は奈良にはなぜなかったのでしょうか。飛鳥時代は古墳なのは理解できますが、大陸から仏教思想が入ってきたてからも、寺院の建設は行われるのに菩提寺という考え方がなかったのでしょうか。これも面白いテーマなのですが、宗教的なことやあまり奈良には興味がないので、先に進みます。
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