ようやくコロナ禍が過ぎ、孫の運動会に参加できるようになりました。
上の子は今年6年生、少し遠方なのと、コロナのおかげで、式という名の付くものや、○○会というイベントには人数制限や延期で、今年の運動会が小学校初のライブ鑑賞、そして最後の機会でした。
学校では、コロナのお陰で「学校行事の精選」が進み、行事の時間短縮や内容の吟味が行われ、「運動会」もその対象になっているようですね。
当事者である子どもたちにとっては、「なくて当たり前のこと」「ズーと昔にあったこと」でも、「初めて経験する事」は楽しいことだと思います。
ただ、厄介なのは「見る側」が、「当たり前のこととしての経験」をしている保護者だということだろなと元先生のじいじは思いながら、初めてで最後の運動会を見てきました。
コロナの期間中、儀式行事の取り扱いや体育、音楽関係の行事、遠足や社会見学をどうするのかは、各学校の判断に任された部分があり、子どもたちと同様に運動会も初めて取り組むという先生もいるのかも知れませんね。
教科の指導と違い、計画書やプログラムがいかに綿密に組まれていても、それは「主催者側の感覚」なのがイベントなのです。
昭和の先生たちは「主体者」としての「子どもたちのモチベーション」と「見る側の親たちの思い」に共感する先生の思いがないと「学校行事」での「感動」は生まれないと経験則で考えてきました。
先生の指導スキルではなく、古くさい精神論的な「思い」重視論ですね。
子どもがどんな思いで、「見守ってくれる人に何かを伝えようとする姿」を示してくれるのが「学校行事」で、単なるイベントではないという「刷り込まれた意識」があるのです。
所詮、親たちは自分のこどもの姿しか見てないし、それが親として当たり前だと考えていたのでしょうね。じゃ、今の親はどうなのか、自分の子どもで判断するしかないので見てました。
母となった我が子が孫の姿をどのように見るのかも楽しみでした。
フェスで音楽を楽しむ感覚で、こどもの演技を見るのか、「母」として我が子を見るのか、それが知りたかったのです。
子どもが「見に来る誰か」のために、一生懸命努力した姿を見せる、それだけで「誰か」は感動し、満足すると考えてきました。
往々にして、先生たちは「できばえ」や「ビジュアル」などの「技」や全体を動かすというスキルや観客にどのように見せるかという演出力にこだわるという傾向があるように感じることがあったのですが、「親」までそんな評価をするなら、それは間違いだと言わなくてはと思う祖父母の心配は、娘の涙でかききえました。
親ばかな親は周りを気にせず泣くのです。
昔、指揮台の上で「先生」として演技をみた時、「そんな親たちの思いがお前にはあるか」と昭和の時代にはイベントだけが生きがいの「体育会系」と呼ばれる先輩が言った言葉をふっと懐かしく思い出しました。
娘は一生懸命、演技に取り組む姿を見ていると、六年生になるまでの子育てのことがフィードバックしてきたそうです。
たとえそれが、「去年と同じ選曲」のほんの少し振り付けと衣装が変わっていただけの演目であっても、「小学校最後の運動会」に取り組む姿は親たちやじいさんばあさんに「感動」を生むものだということなのだと思います。
帰りの新幹線で、缶ビールを飲みながら思ったことは、
徒競走がなくなり、集団演技と集団競技だけの午前だけで終わるプログラムは、時間短縮で「先生の負担軽減」のためには仕方のないことだと思うけど、「全員リレー」がなく「綱引き」なのは❓️これは昭和のノスタルジーかな。
徒競走も学習として位置づけるなら今度は「記録会」が必要になるはず。
単に廃止するだけではなく、きちんとした根拠がなくては、体力テストという報告のための時間は「健康診断」と同じ扱いにする必要があるし、体育の時間は集団ゲームの時間で終わり「体力(走投跳)」の向上はスポーツジムに任せることにならないかという危惧が生まれた。教科の専門性を考える時、「体育」も「算数」も同じく「教科学習」ととらえるのが小学校で、単一の「教科」としてとらえるのが中学校だという違いを理解してる大学の先生や政治家さんは意外と少ないかも。だから小学校の先生に魅力がなくなったのかな。
とにかく金がないと子育てが難しいのは何も学力だけではないですね。
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