志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

戦前、いつ頃から琉球舞踊にガマクが入ったのだろうか?戦前の録画舞踊を見ているがガマク入れがない?

2015-04-05 08:24:40 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

           ≪花笠をかぶって「かせかけ」のかせと枠を持つ3人の少女たち・明治10年代、どうも茣蓙の上、畳の上に立っているね!≫


近世の村踊りを見てもガマクが入っているのか、直立した姿勢でガマクはなく腕を伸ばしたまま小廻りしたりしている所作が見える。多良間の二才踊りもそうだね。近代はどうかというと大御所の阿魔和利の所作も優雅さは感じられない。ガマク的なものがないのだ。ビックリしたのは戦後のジュリ馬の行列、その踊りと戦前1936年に収録された録画を見ても違うのである。手を伸ばしてユイユイ、さっと小廻りする戦前の動さに対して戦後は腕も緩やかにまるめアクセントをつけて躍っている。動きに不自然さがないのは戦後の動きである。なぜか、体系や系譜がが定かではないところがある琉球舞踊かと、ちょっとがっかりしているが、舞踊家の中には舞踊継承の系譜が怪しく見える方々もおられるようだ。辻生まれでズクで女学校を出てかつ辻を主体の舞踊に取り組んだ方、歌・三線、お箏に取り組んだ方もいたかもしれない。それは琉球芸能に魅力があったということを示している。古典の大家で辻で指導した方々もいる。毎日がハレの場だから、これほど芸能を継承するのにいい場所・空間は他になかったように思えるのだがー。映像で見る限り、あるいは資料で見ても戦前のジュリ馬は1936年が最後で、その後17・18年間のブランクがある。貴重な記録が残されているのは幸いだった。


おそらく王府時代の古典踊りの型は村踊りの中にあり、板谷徹さんが指摘した通りで、古典女踊りの優美さも『花風』以降ということになりそうだね。村踊りの場合、ガマク入れに替る「ジャンメー」(腰を深く落とす動作)、あるいは「クマイシレー」(やはり腰を深く落とす動作)が指摘されている。≪板谷、小橋川ひとみ≫それでは現在の古典女踊りはどうなのだろうか?変節に変容を重ねて、沖縄が日本への同化の過程で磨き上げた形ということになるね。女立ちだね。同化と異化の弁証法が沖縄の舞踊の中でも蠢いていたのである。沖縄芝居はその典型だと考えてきたが、つまり古典の組踊のもどきとして日本の歌舞伎や壮士芝居を取り入れて新たに誕生した芝居形式である。やれやれ!


すり足が登場したのが昭和11年、1936年。1936年は芸能にとっては重要な年である。しかし日中戦争が始まる前の年でもある。近代以降の雑踊りの良さは良さだね。古典女踊りは1940年の踊りの映像をみてもガマクを入れないでさっと小廻りである。すり足も徹底されていないので、なみ足、あるいは軽くするように歩いているような感じだね。しかし辻では少女たちが楽しげに四季踊りを二つの扇をもって踊っている。愛らしい。白足袋をはいって元気よく踊っているが外でも草履ははいていない。はかない方が踊り易かったのだ。


しかし真喜志康忠さんの雑踊りは録画に残っているが、とても軽やかでいい。戦前の雑踊りの軽やかさが現在では失われているのだろうか?残念。のびのびとした踊りはワクワクさせる。そういえば上間郁子さんの78歳にして個性的な雑踊りはもう、何とも言えない魅力だった。戦後の舞踊家はかなわないね。


遊里・遊郭の芸能に対する差別主義者たちは、遊郭≪男の遊び場・社交場≫の踊りだからよくないと言いそうだが、遊郭の芸妓たちは、村々の踊りでも招聘されて躍っていた。折口信夫はジュリの芸能をくさしているね。渡嘉敷守良の女踊りをほめているが、琉球舞踊は男の舞踊だとも書いている。(『渡嘉敷守良の世界』32貢)。「女性が琉球踊りに不適切なことは、尾類(ズリ)の踊りを見ても訣る」と書いている。折口の美意識に反して女性たちは戦後を迎えた。(女形芸のモデルも芸妓だったかもしれないね)←実証できる!


それからさらにビックリしたのは玉城節子先生が優美に踊っているのが素敵な「かせかけ」だが、明治の始めに何と傘をかぶって踊っている。3人の少女たちである。近代の踊りに興味を持っているところだが、彼女たちこそが主体だったのかもしれない。


琉球舞踊は、ひょっとしたら大きな鏡が登場してから変わったのかもしれない。←嘘のような本当の話?あるいは、1936年に東京での公演を経てすり足が登場したとしたらその後ですね。戦争直前までにだいぶ形が変わっていったのだろうが、戦争直前の記録があまりない。終戦後、芸能は女性たちが表にでて変わっていった。辻の芸妓が躍り出たのである。眞境名佳子さんたちは女学校を出て盛重さんから短期間指導を受けているが、上間郁子さんや上江洲フミさんなど諸屯も指導を受けているね。辻の芸妓たちの舞踊への情熱は凄かったのである。間 好子さんもそのお一人だね。眞境名さんが戦後の栄街の料亭で出張的に芸妓に舞踊を指導しているが、彼女は「花風」を一月もかけて教えていて、盛義さんの方が創作舞踊など豊富で人気があったとお聞きした。眞境名琉の宮城幸子さんなども料亭で踊子をしていた事があり、戦後の沖縄での女性舞踊家たちの勢いが凄かったことが分かる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。