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志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

初めて公開された「出停記念日2001-2000」の二部はとても良かった。一遍の詩劇の味わい!

2014-05-25 20:44:49 | 沖縄演劇

                         (第二部:学級旗を振った正人がいた。生徒指導の山田先生、宮城先生)

全国で100回以上公演されている「出停記念日」、その理由が島元 要さんの作品のもつ時代性だということ、そして21世紀の始まりのあの大きな映像から迫ってきた光景がいまだにこの現実の中で生々しくあるのだということ、などが、今回印象的だった。「死は平等だよね、金持、貧乏人がいるけど」「ここから海が見えるよ。船も見える。こうしてみるとビルの上に船がのっているみたい」などの台詞も含め、14年ぶりの『出停記念日』は、出演者の名前が周子⇔ももこ千愛→しのぶ、さやか→さやか、涼子→れいこ、奈苗→すずに代わり、後半一部さやかの台詞が増えている。漁師のお父さんが海だけみつめている場面がでてきた。愛らしい女子高生の演技は等身大で、台詞はよく聞こえなかったりの素の味わい。それでも、もも子役の末吉冷圭や、さやか役の新垣七奈など、なかなか聞かせた。その役を演じている。カメラを持ったすずも愛らしい。

(教室から見える海、船がある!ビルの上に船がのっている!)

知人の女性が途中で席を立ったのが残念だった。組踊の研究者が第2幕を見ないで帰ったのも「もったいない」と思った。1部に出る「あずみ」さんは、1学期に交通事故で亡くなった級友だった、らしいことが、最期にわかる。そしてニューヨークのテロ、映像の中の嘘のような遠くにあった事実が、身近な級友の交通事故死と比喩される。身近な死、遠くでハイジャックされた飛行機がビルに突っ込んで炎上したツインタワー!そして何より文化祭の打ち上げでクラスのほとんどが飲酒で警察に出頭、そしてかれらは翌日学校で指導を受けているという設定だ。その場に居合わせなかった4人が、がらんどうの教室に残された。その断面のドラマ、んんん、記憶が甦ってきたのは事実だ。校庭を見下ろす彼女たちの姿、海を見ていたことば、詩になっていると思っていた。確かに詩語になっていた。生と死の一遍のドラマ。

今回の2部は問題児の正人君(儀保智也)、生徒指導の山田先生(福永武史)、学級担任宮城(當間 涼)。正人君は体育祭の予行演習の時、火炎報知器を鳴らして混乱を引き起こした少年で生徒指導室に呼ばれたという設定でドラマが始まった。停学になる手続きには親との面談が必要だった。正人は生徒指導室で母親を待っている。

硬派に見える山ぷー≪山田先生≫は竹刀を持ち歩く。宮城先生はカウンセリング担当で柔らかい。「君はガラスに張り付いたハエみたいだな」の台詞でハエの羽音をたてて演じる、身体で見せるそのリズミカルな演技は好ましく、時に笑いがこぼれる。「今の子供たちは見通しがない。学校の保健室や相談室にもこれなくなった」なぜか?

出すぎて討たれない釘になる。

(當間涼、福永武史、義保智也、んん、良かった!全身演技の福永の身体のリズムに引き込まれた!)

リズミカルな動き・所作が面白い。福永がキラキラした目で動き回る。動きがリズミカルで台詞に笑える場面がある。沖縄の身体所作、特に少年・青年期独特の身体の動きが随所に見られた。しなやかなダンスのような福永の動きが終始目を惹きつけた。

見通しのないところに光を当てる。行進の機械的動き、奴隷にも兵隊にもなりたくない俺たち、しかし、反発しながらでも学校にいた。

≪以下ネタバレの可能性大ですが、島元脚本の斬新な≪大胆な≫世界観ですね!≫発見と驚きがありました!

島元さんの脚本の面白さは、新しい知見の開示と比喩(メタファー)だった。明治以来、学校の校舎のサイズは兵舎のサイズと同じだということ。学校は兵隊を養成する構図だということ、奴隷で兵隊になる。それは一握りのエリートのための奴隷の養成が基本にあるとのドキントする台詞。また人という字の古語を書いて、奴隷というより生贄だな、と国語の宮城先生。洪水、地震の中で神の力を感じざるをえない、とも。勝ち組より圧倒的に負ける人間が多いとも台詞にあったと記憶している。奴隷、兵隊から生贄の二字が飛び出してくる。しかも自然体でー。この作品の力の源にある思念は謎解きにもにていた。パズルを解く、紐解いていく歓びのようなものが一体感になっていく仕掛け、まさに古代ギリシャ時代から現在に至る、劇的虚構性の面白さでもある。

「我慢できないことを我慢できないと言っているだけだ」と、正人君。彼に身を添わせる山田ぷー、SEXピストルの音楽はうるさい!これはひりひりした優しい音楽だと正人。音楽は邦楽で十分なおれにも洋楽はわかる、と世界一やさしい歌、と山田先生が歌ったののはHappy Birthday to youだ。なぜ今日か?誕生日だったんだ!→あんな女だからなー→怒る正人、母を汚されたくない!

いつしか心を開いていく正人。「先生、蹴り倒した時、じっとしていろ、となぜ言ったんだ?」「誰か水を持ってこい、バケツだ、と言った。なんでだよ。おれはまちがいなくぼこぼこにされていた。」「死んだらよ、お前の好きな事何もできなくなる」「お前の夢は何だ?」「おれはいい先生になることだ」「おれはBIGになりたい」「ですぎるほどの釘になれば誰にも叩かれない」「ああこの人の前には未来があるんだ」「友達は年齢に関係ないだろう」「疑問形でよかったよ」

心を開いて、笑顔で挨拶するんだ。未来のお前はそこからやってくるんだ。お前がいるところ、そこが未来だ。とフォークダンスのステップを踏む山田ぷー。楽しくなる魔法のステップ!正人とダンスのステップを踏む山田ぷー。

先生、俺の気持ちは俺がきめる。

いいか、夢を実現するいい方法がある。生きていることだ。あたり前のことじゃないか。そうだ。しかし生きていたら夢がかなう。人という字は未来に向かっている。未来は何が待っているか分からなくって、それでも未来を向いている字じゃないのか?感動した山田ぷーは抱きしめる。「たいしたものだ!」

おれの先生にしてやる。一度だけ。人は未来を向いている。こういう形もあるんですよ。後ろを見ている。方向が反対もー。これは少数だからな。こっちの方が大多数でいいんだよ。どうでもいいんだよ。一般とか多数派とかいいんだ。20世紀、21世紀がどうでもいいんだ。おれが進めばそこが俺の未来だと、正人。

(演出の久保深樹君、島元さん、中里友豪さん)

宮城先生は「大事なことは自分で決めればいいと言っていたんだ。自分でつかんだことからしか始まらない。」という。説教かよ。山ぷー、山田先生、ありがとう!俺は誰の兵隊にもならない。好きにしろ。

教室の外を見たら、正人のお母さんがやってきたのだった。「よ、お袋さんだ」「あずみ」という苗字だろ。あずみ正人、良かったなー。馴れておけよ。あずみ!で終わりだが、最後のピアノの伴奏も良かった!このあずみ君が1部では交通事故で亡くなった若者だということがわかる。二部のあずみ君の輝きが、虚になる。しかしもも子は言う。生きている限り死者はいっしょだと。あずみ君は生きている間、もも子さんと生きていることが暗示されている。

福永も儀保も當間もとても良かった。んん、再演、再再演してほしい。

この二部を先にやって一部を上演してもいいのかもしれない。島元脚本の醍醐味はいい。3人の役者の感性、絡み合いがなんとも言えない味わいだった。現代詩劇の秀作だね!多くの高校生、大学生、社会人に見てほしい作品だ。いい舞台を見て幸せ気分になれた。謝!脚本の味わいは小説とは異なる。

時代は感性に運命をもたらす。9・11が3・11が背後に潜み、この作品の暗喩になっている。女子高生たちの素に見えた演技に演技の幅と深みがもっとあってもよかったと付け加えておこう。聴かせる演技をだね。一部台詞を拾ってみただけだが、論として書いてみたい作品だ。背後に死の痛み(悼み)が流れている。対比される現実の激しさ、寂しさ、虚、見通しのなさなどがー。窓を開ければ、そこは暴音にさらされる場でもある。←もっと突き詰めてみたいが、ちょっと時間が取れない。

ただ急いで書いたこの文章の訂正は続きますね。

(愛らしい高校生諸君)

 (帰りの車から見た県庁!)

 


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