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新作組踊「真珠道」について、以前書いた論評を読み直し、纏めたい。

2018-04-25 13:49:16 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

 

沖縄芝居「真玉橋由来記」と新作組踊「真珠道」について

2005年2月23日 第322回 沖縄芸能史研究会例会  発表要旨

沖縄芝居「真玉橋由来記」と新作組踊「真珠道」

1.伝承の背景
  
 真玉橋の人柱伝説は典型的な「言い出し型」(他、通りがかり型がある)で、長柄橋伝説「もの言わじ父は長柄の人柱、雉も鳴かずば撃たれざらまし」の影響が見られる。(「橋と伝説 一日橋・比謝橋など」沖映演劇 第52回公演(沖映企画部、昭和49年。5月5日)。口碑伝説 「真玉橋の架橋」(『島尻郡誌』昭和12年 島尻郡教育部発行)もよく知られているが、役者の平良良勝(1893-1979)が昭和10年ごろ役者仲間と真玉橋に行き、近くの民家でお茶をご馳走になり、「この真玉橋はたいへんですよ。人一人のみこんでいます。この橋の下には女が1人死んでいます」の話を聞いて、当時人気のあった岡本綺堂の「長良川の人柱」の芝居をヒントに「真玉橋由来記」(「七色元結」)がで

きあがった、と嘉手川重喜は『沖縄芸能大鑑』(1983年発行)で紹介している。

実際の真玉橋は、1522年、尚真王の時代に木橋五座(世持橋、雲子橋、世寄橋)が架橋され

(「琉球国由来記」1713年)、1708年、尚貞王時代に石橋に重修されている。美橋で石工技術の完成期だと、久保孝一は『真玉橋之記』(平成2年)で詳述している。

 ところで真玉橋の人柱伝説は、1925年皇居二重櫓の敷地から21体の白骨が掘り出され、民俗学者が「人柱伝説」に関する多くの論を発表したような経緯(磯川全次著『生贄と人柱の民俗学』批評社、1998)はなく、「神女の髪の毛を埋めたことから派生したのでは?」(豊見城のお年寄り、沖縄タイムス、1997年7月16日、朝刊)や「9ヶ月もかかった当時の難工事で犠牲者も出たと思われる。人間の力では難しいという認識を背景にそういう伝説が生まれたのでは?」(村史専門部員、沖縄タイムス、1998年8月6日)の説が新聞からうかがえる。伝承に関して、中村史が「真玉橋の人柱」と題し、「奄美沖縄民間文芸研究大会」で発表(1998年8月)している。『生贄と人柱―』を読むと、人柱に対して柳田国男が懐疑的な論を発表しているのに対し、中山太郎や南方熊楠が肯定的な論の展開をしていることなどが目に付く。豊見城では、「真玉橋の人柱」の伝承が、芝居の前にすでに広く知れ渡っていたことが自明で、民間伝承が芝居でさらに流布した事例と言えよう。金城朝永が昭和8年に発行した「異態習俗考」にも真玉橋の人柱についての言及があるように、尚真王治世以前に殉死が施行された琉球の風俗習慣と祭儀での人肉共食の史実をみると、人柱にまつわる伝承・伝説があったとしても不自然ではない。

そこで、七色元結の女、の七色は琉球王府時代にあった色(元結)なのか?神女、巫女(ユタ)が身に付ける特別なものだったのか、はさらなる課題である。宮古の島造りの神話に「古意角、古依玉は天の夜虹橋を渡り、七色の綾雲にのって下界に下る」(『南方文化の探求』河村忠只雄、創元社 昭和14年)があり、また西洋では、例えば、虹が神と人間との契約の印としてワーズワースの詩篇に登場するように、七色(虹色)が特別な意味性を持っていることが推測できる。

2.新作組踊「真珠道」について

国立劇場おきなわ開場記念公演(2004年3月)として上演された「真珠道」に関しては、すでに横道萬里雄が高く評価した論評を含め作品や実演家の声を網羅した冊子(『真珠道』国立劇場おきなわ調査養成課、2004年8月)が発行されている。作者の大城立裕は「真玉橋由来記」を見たことがない、と言明しているが、「真玉橋の人柱」の伝承は氏の中で認識されていたようだ。それは大城の小説『花の碑』(1985年、群像)にすでに「真珠道遺恨」が登場する点からも明瞭。「花の碑」は玉城朝薫を主題に描かれた小説だが、組踊5番を創作する朝薫の苦闘と共に、その時代を生きる朝薫自身を相対化する幻の組踊6番目(の作品)として創作されたのが「真玉橋遺恨」で、当時の政治状況や朝薫の妻、朝敏との関係も視座において論じられている。

大城立裕全集Ⅳ巻の「花の碑」を紐解くと、「真珠橋普請の伝説を思い出した。人柱にすすんで身を捧げたユタはあるいは普請奉行の思い女ではなかっただろうか。思う男のために身を捧げることが、同時に世のためにも国のためにもなるということは、ユタが女として思った最高の幸せではなかっただろうか?」「愛ゆえの犠牲では?」(P.313)とある。当初からユタは進んで身を捧げた女として捉えている。芝居との大きな差異だ。また「組踊は人柱になった女の男である普請奉行が女を死なせた後悲しみをもって真珠道を首里へ戻るところで終わる。女の宿命が男の宿命に照り返すことになった。」(P.317)は脚本の結末そのものである。

一方でその作品への批評的視点として、「朝敏は王府を批判する物語だという。ただ女の悲しい性、女と男の運命的な行き違い書いたつもりでいる。(P.330)と朝敏の視線をたどり、犠牲への視点は、「女は表がみえず底を見る。その底を見るゆえに表から抑圧される。それを底から突き破ろうとする時、己をほろぼすことによってしか、それは遂げられないのだろう」(P.331)と女の犠牲による昇華・転化への視点を開示する。しかし小説の中で実際に時代の権力の犠牲になる朝敏を対象化し、「普請奉行は私か。女を殺したのは自分だ、と考えるに及ぶことを私は書いていないが、あるいは書き加えるべきだろうか。そうなると男も女の後を追って死ぬべきか。いま平敷屋朝敏を殺したのはこの私だと考えた上で、この私がなお死ぬことができずにいるとすれば私はやはり『真珠道遺恨』を完成したことにはならないのだろうか。」(P.334)と政治の生贄になった男を憂えている。

大城の小説『花の碑』を念頭に新作組踊を解釈すると、封建制度・システムの枠組みの中で倉田殿内の嫡男真刈は自然の情愛の対象・真珠村の百姓娘・コマツとの結婚を成就できなかった。制度に阻まれたわけで、個が社会システム(スーパーエゴー)に敗北したことを暗示する。一方、コマツもまた恋の成就ならず受苦の果てに神人(ユタ)になる。カミダーリーやさまざまな苦行が想像できる。受苦の果てにユタとして村人の安寧を祈る存在になる。アクション、受苦、認識の悲劇のリズムがコマツには投影されている。

国場川(自然)の脅威に対する人為的な政治・社会的目的・意志として真玉橋の普請奉行として登場するのがかつての恋人真刈だが、コマツは思いを打ち明け七色元結をして自ら人柱になる。彼女は犠牲を一身に負うことによる愛の昇華を遂げる。自らの愛と村人や国の幸せの花の台になる。その犠牲の上で普請奉行としての公務を全うした真刈は重い心で真珠道を上る。悲劇的沈鬱な気分で幕となる。

ここで愛の勝利者は犠牲になったコマツで二度為政に敗北する真刈がいる。確かに両者とも制度の犠牲者であることは確かだが、コマツは死んで愛を永遠に昇華させた。 犠牲による反転に対し残された男はその命と死の重みに耐えかねている。

そこで見えてくるのは、文明・政治の表象としての真珠道に対して文化表象としての真玉橋・人柱の伝承である。もはや真珠道はない。残されたものはその虹の架け橋となった犠牲の女の伝承である。それはあらゆる犠牲の表象・虐げられたものたちへの エールでもありえる。自ら犠牲になった者たちはしかし真にその自由な生を謳歌できなかった。そこに後味の悪さが伴う。(芸大の女子学生の感想)

後味の悪さは弱い女が二重に犠牲にならざるをえないシステムであり、残された男が同じシステムを生きていく構図である。システムを無化できない自然の脅威がありそのシステムに対抗できない男の姿は敗北者の姿である。そこに救済の様式を思考できるか?おそらく真刈が苦悶する幕切れにコマツを称え御供する儀礼儀式が必要なのだろう。しかし見方によっては朝薫の時代から変わらない琉球・沖縄の歴史のコンテキストが描かれていると言えようか。比喩としてみると沖縄は絶えず政治的為政者に何らかの生贄を供してなりたっている存在である。するとコマツも真刈も確かに同じ穴のムジナの犠牲者としての位置をあてがわれていることになる。その点で鋭い現実批評・公演だった。

「花の碑」において犠牲は朝敏との視点も含まれている。朝薫もまた時の政治に翻弄された当人でもあった。国(政治)と個(自由や芸術)、文明と文化の対立・相克さえ髣髴させる。

上演は唱えにもっと凛々しさがほしかった。村人は美男である必要はなかった。演出の点でコマツは真刈に出会う前から七色元結を持参していたことになる。すでに再会も犠牲も織り込み済みだったのである。「親あんま」に類似する舞踊・所作などの別れの愁嘆場の再現はそれで結構引き締まった。時計回りに進む古典組踊に対して、後向きとの批判(真喜志康忠)もある。

2.芝居「真玉橋由来記」について

 物語の筋は展開が明るい結末で幕となる。人柱の犠牲に対する供養とその痛みに答えて娘のナビー小と普請奉行の息子神山の息子との縁談により犠牲と不幸を救い上げる構図になっている。人柱により橋が完成しても浮かばれない霊の救済措置はおそらく沖縄の島人たちの人情だが、そこに未来への縁・希望がある。悲劇的な出来事を解消する方策が芝居の作劇に盛り込まれた凄さがあり、生き続けるための知恵でもある。

歌劇の要素も加味し、また言い伝え、遺言を生かす劇作術は、人間の善意と暖かさをも表出する。自然の脅威、偶然性を生きる人間の自ら制御しえない運命に対する諦観と家族愛があり、それをまた見届け受け止める人情が信じられている。その素朴ながら人情を大切にする物語ゆえに「真玉橋の人柱」伝説が広がる所以があったのであろう。

紙面の都合で詳細は論文として新たにまとめる予定である。

<3.7.05> 以下は発表資料

   1. 伝承の背景
  真玉橋の人柱伝説―「言い出し型」(通りがかり型)
*長柄橋伝説「もの言わじ父は長柄の人柱、雉も鳴かずば撃たれざらまし」の影響―「橋と伝説 一日橋・比謝橋など」沖映演劇 第52回公演(沖映企画部、昭和49年。5月5日)
*口碑伝説 「真玉橋の架橋」(『島尻郡誌』昭和12年 島尻郡教育部発行) *「人柱伝説と真玉橋をモチーフとした演劇」-崎原綾乃  『真珠道』 (国立劇場おきなわ調査養成課 2004、8月)

* 昭和10年、平良良勝(1893-1979)初演?岡本綺堂「長柄川の人柱」の影響、入江光風の作品?の影響―「生贄」の題材か? * 1522年(尚真王) 真玉橋、木橋五座 世持橋、雲子橋、世寄橋 ⇒琉球国由来記(1713年)
1708年 石橋に「美橋で石工技術の完成期」 尚貞王 * 「神女の髪の毛を埋めたことから派生したのでは?」(豊見城のお年寄り)
* 「9ヶ月もかかった当時の難工事で犠牲者も出たと思われる。人間の力では難しいという認識を背景にそういう伝説が生まれたのでは?」(村史専門部員)
* 「真玉橋の人柱」(中村史)-奄美沖縄民間文芸研究大会での発表 1998年8月
* 『生贄と人柱の民俗学』 磯川全次 (批評社、1998年)
七色元結の女、神女、巫女(ユタ)
*七色=虹色⇒宮古の島造りの神話「古意角、古依玉は天の夜虹橋を渡り、七色の綾雲にのって下界に下る」⇒資料『南方文化の探求』河村忠只雄  創元社 昭和14年
*虹は神と人間との契約の印⇒ワーズワースの詩篇

2.新作組踊「真珠道」について
*梗概⇒資料
*国立劇場おきなわ会場記念公演2004年3月を見た劇評(横道萬里雄)⇒資料
*脚本・上演台本⇒資料

*****
「真玉橋由来記」を見たことがない、と大城氏。

先行作品⇒『神女』『天女死すとも』『花の碑』、特に『花の碑』(1985年、群像)にすでに「真珠道遺恨」が登場する。その作品の中身に関してかなりのページを割いて苦悶する玉城朝薫が彼の幻の組踊6番目(の作品)として、朝薫自身の当時の政治状況や妻、朝敏との関係も視座において論じられている。

P.313「真珠橋普請の伝説を思い出した。人柱にすすんで身を捧げたユタはあるいは普請奉行の思い女ではなかっただろうか。思う男のために身を捧げることが、同時に世のためにも国のためにもなるということは、ユタが女として思った最高の幸せではなかっただろうか?」「愛ゆえの犠牲では?」

P317「ユタと普請奉行を同時に苦しめる王府の威令、、、、ユタの悲しみが主か?府普請奉行の悩みが主か、という堂々めぐりが一挙に解決した。組踊は人柱になった女の男である普請奉行が女を死なせた後悲しみをもって真珠道を首里へ戻るところで終わる。女の宿命が男の宿命に照り返すことになった。

P.330「朝敏は王府を批判する物語だという。ただ女の悲しい性、女と男の運命的な行き違い書いたつもりでいる。

P.331「女は表がみえず底を見る。その底を見るゆえに表から抑圧される。それを底から突き破ろうとする時、己をほろぼすことによってしか、それは遂げられないのだろう」

P.334「普請奉行は私か。女を殺したのは自分だ、と考えるに及ぶことを私は書いていないが、あるいは書き加えるべきだろうか。そうなると男も女の後を追って死ぬべきか。いま平敷朝敏を殺したのはこの私だと考えた上で。この私がなお死ぬことができずにいるとすれば私はやはり『真珠道遺恨』を完成したことにはならないのだろうか、、、、、、、。」

以上を参照しながらこの新作組踊を解釈すると、 封建制度・システムの枠組みの中で倉田殿内の嫡男真刈は自然の情愛の対象・真珠村の百姓娘・コマツとの結婚を成就できなかった。制度に阻まれる。個は社会システム(スーパーエゴー)に敗北する。⇒類似系「親あんま」在番制度・身分制度、別れの愁嘆場の類似的表出(舞台)

一方コマツもまた恋の成就ならず受苦の果てに神人(ユタ)になる。カミダーリーやさまざまな苦行が想像できる。受苦の果てにユタとして村人の安寧を祈る存在になる。 国場川(自然)の脅威と政治・社会的目的で真玉橋の普請を祈願する村掟や村人の思いを汲んで登場するのがかつての恋人。コマツは思いを打ち明け七色元結をして自ら人柱になる。彼女は犠牲を一身に負うことによる愛の昇華を遂げる。自らの愛と村人や国の幸せの花の台になる。その犠牲の上で普請奉行としての公務を全うした真刈は重い心で真珠道を上る。悲劇的沈鬱な気分で幕となる。

ここで愛の勝利者は犠牲になったコマツで二度為政に敗北する真刈がいる。確かに両者とも制度の犠牲者であることは確かだが、コマツは死んで愛を永遠に昇華させた。 犠牲による反転が起こった。残された男はその命と死の重みに耐えかねている。

そこで見えてくるのは、文明・政治の表象としての真珠道に対して文化表象としての真玉橋・人柱の伝承である。もはや真珠道はない。残されたものはその虹の架け橋となった犠牲の女の伝承である。それはあらゆる犠牲の表象・虐げられたものたちへの エールでもありえる。自ら犠牲になった者たちはしかし真にその自由な生を謳歌できなかった。そこに後味の悪さが伴う。(芸大生の感想)

後味の悪さは弱い女が二重に犠牲にならざるをえないシステムであり、残された男が同じシステムを生きていく構図である。システムを無化できない自然の脅威がありそのシステムに対抗できない男の姿は敗北者の姿である。そこに救済の様式を思考できるか?おそらく真刈が苦悶する幕切れにコマツを称え御供する儀礼儀式が必要なのだろう。しかし見方によっては朝薫の時代から変わらない琉球・沖縄の歴史のコンテキストが描かれていると言えようか。比喩としてみると沖縄は絶えず政治的為政者に何らかの生贄を供してなりたっている存在である。するとコマツも真刈も確かに同じ穴のムジナの犠牲者としての位置をあてがわれていることになる。⇒その点で鋭い現実批評・公演だった。

「花の碑」において犠牲は朝敏との視点も含まれている。朝薫もまた時の政治に翻弄された当人でもあった。国(政治)と個(自由や芸術)、文明と文化の対立さえ髣髴させる。
* 上演は唱えにもっと凛々しさがほしかった。村人は美男である必要はなかった。演出の点でコマツは真刈に会う前から七色元結を持参していたことになる。すでに再会も犠牲も織り込みずみだったのである。

2. 芝居「真玉橋由来記」について

 物語の筋は展開が明るい結末で幕となる。人柱の犠牲に対する供養とその痛みに答えて娘のナビー小と普請奉行の息子神山の息子との縁談により犠牲と不幸を救い上げる構図になっている。人柱により橋が完成しても浮かばれない霊の救済措置はおそらく沖縄の島人たちの人情だが、そこに未来への縁・希望がある。悲劇的な出来事を解消する方策が芝居の作劇に盛り込まれた凄さがあり、生き続けるための知恵でもある。

歌劇の要素も加味し、また言い伝え、遺言を生かす劇作術は、人間の善意と暖かさをも表出する。自然の脅威、偶然性を生きる人間の自ら制御しえない運命に対する諦観と家族愛があり、それをまた見届け受け止める人情が信じられている。その素朴ながら人情を大切にする物語ゆえに「真玉橋の人柱」伝説が広がる所以があったのであろう。 ⇒資料参照
<2.23.05>

 



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