志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

肉声の「伊江島ハンドー小」は惹きこまれた。間の者たちや村人(群衆演技)も良かった!

2012-06-10 10:44:45 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
舞台美術もまた2004年の開場記念と幾分異なり、写実性や作品世界のコンセプトを示していた。背景幕も幾分ことなっていると見たが、実際どうだろう!

すすり泣きが聞こえてくるような劇場である。ハンドー小の思いに思い入れし、彼女の痛ましさに感情移入させられる物語の展開、若い役者の感性、斬新さがきらめいた。

9日、10日と久しぶりに国立劇場おきなわは満杯だと聞いた。歌劇への思いの深さ、若い現在の綺羅星たちへの期待の大きさと見てもいいのだろう。意外と若い観客層が見えた。

一瞬、嘉数道彦のことばの調子に真喜志康忠の口調を聞いたと感じた刹那、感情が一瞬緊張した。真喜志康忠がそこにある瞬間蘇ったのである。

第6幕は船頭の出番である。地頭主(大湾三瑠)との対比のやり取りは絶妙だった。高みから見下ろす舞台設定ゆえになお、その勧善懲悪的な流れは際立った。

「天と地は情け」である。因果応報の世界でもあり、一途な思いが袖にされ、いたぶられ死に至った女の最後の自死の場面がひとつの琉球そのものの舞台の型としてそこに具現した。自死の型が美しいと思えるような舞台だった。入り髪で首を括る。その苦しみが型となってカタルシスをもたらす、そんな琉球歌劇である。

自殺は自己処罰でもある。不実な男と知らず、海山が枯れても、石に花が咲いても変わらないよね二人の愛はと誓ったはずなのに、それが全くの嘘偽りだった、というリアリティーの前で、女はその幻想に追従するように死を決意する。罪罰の報いは男に祟れよ、という思いは残してー。男への愛の執着ではない。

花岡尚子のハンドー小は美しい純情な娘を演じきった。歌いきったと言った方がいいかもしれない。知念亜希のマチ小もなかなかに美声だった船頭主も情感がのり移って次第に終幕に行くにつれてその良識・慈悲の輝きが光の輝きのように嘉数本人の輝きをもたらしていた。対する地頭主の傲慢さが最後の最後まで貫かれ、その対比の中での、復讐劇のような結末は十分納得させる構図だった。

村の若者石川直也と西門悠雅の間の者のような役回りは見せる場面でコミカルリリーフだが、そこがくっきりとして迫ってきた。石川のツヤやノビのある声もいいね。そして伊江島の若者たちによる集団の野遊びの流れのよそ者(辺土名の娘、ハンドー小)いじめも統制がとれ、化粧のメイクも口紅を落とすなど、リアリティーがあった。加那はハンドー小が思いつめて追いかけるに足る美男な佐辺良和さんである。声に艶や伸びがある。

またハンドー小の自決の場面から意図的に客席に照明があたり、舞台の情の世界と一体感が演出された。そのことについて伊良波さゆきさんにお聞きしたら、「ああそうだったのですか」との答えで演出意図ではなかったような反応だったが、実際はどうだろう。暗い観客席ではなく、意図的に薄明かりのついた劇場内はまさに一体感を演出したのである。

情、志情けと不実の世界、罪罰の因果応報がくっきり浮かび上がったのだった。

全体のイメージは稽古量の多さもあり集約された歌劇だったと言えよう。歌劇ゆえにマイクに頼らない肉声の歌唱の魅力は魅力で、聞かせた。しかし、もっと歌唱力を期待している。果実が枝もたわわに実るような、熟れた味わいを求めているのだと思う。

その後、深夜1時くらいまでコヒーを飲み、モスバーガーで買ってきた食べ物を食しながら小説家の家でユンタクにふけった。その話がなんとも興味深かった。人間の生き様のドラマのユニークサがある。なぜか創作への思いが膨らんでいた。報告書や原稿、研究発表準備が待ち構えているにもかかわらず、ユンタクにふけっていた。好きな男の骨を食べた女性作家の話とか、美人の女性がブスの女性に恋人を奪われた実話とか、離婚してまた再婚した教授の話とか、下降する欲望や上昇思考など、諸話題!

やれやれ、「君」はどうしているかな?

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。