『山姥』の前シテの面装束は次の通りです。面=深井、鬘、無紅鬘帯、摺箔(白地。文様は銀のもの)、無紅唐織。至って普通の中年女性の扮装で、『山姥』だから、という特別な装束が用いられるわけではありません。それだからこそ、装束の文様を選ぶときには工夫が必要になります。もちろん美しい草花の優美な装束では困るので、黒船文様と呼ばれる濃い紺地に細かい横段の文様が入った唐織とか、やや厚板がかったような大柄な文様のものなどが選ばれたりします。
これほど没個性的というか、平凡というか、中年女性の役としての典型にはまりこんだ装束を着るのですから、役者としてはその文様に気を配らなければならないのは当然ですが、それ以上に『山姥』の前シテとしての扮装が成立するかどうかは、面の選択によって決定すると言えると思います。逆に言えば、個性的な面を役者が選ぶために、あえて装束に奇をてらう事を避けているのではないか、と思わせるほどで、じつは『山姥』の前シテの面は深井のほかにも「近江女」や、変わったところでは「霊女」を使う事も選択肢に加えられています。
「霊女」(「りょうのおんな」。。ぬえの師家では「れいじょ」と読んでおりますが。。)は女面でありながらいかにも怨霊のような表情の面で、う~ん、これは ちょっとあまりにも手の内を見せすぎかな? と ぬえは思いますが。。また「近江女」は『道成寺』の専用面のように思われがちですが、意外に前シテの「替エ」として選択肢の一つに加えられている曲がいくつかあります。面白いのは「近江女」という面は「紅入」にも「無紅」にも扱われる面で、観世流の主張では『道成寺』は紅入であるのに、同じ観世流が無紅の『山姥』にも使う事を許容しているのが良い例でしょう。ほかにも「泥眼」など、紅入にも無紅にも用いられる面はありますが。。
いま、ここまで書いて思い当たったのですが、「霊女」にもいろいろなタイプがあって、中には『山姥』の後シテの専用面「山姥」に似た相貌の「霊女」がありますね。あれって。。あの型の面の最初の作者は、あるいは『山姥』の前シテに使う事を想定して創作したのかも知れない。。
そして最後の選択肢である「深井」。やはり『山姥』の前シテにはこれを選ぶ演者が多いのではないかと思います。これまた「霊女」と同様に「深井」にもいろいろなタイプ。。「型」がありまして、千差万別。。というか、これほどいろんな表情を持った、印象の異なる面も少ないのでは? と思います。
それもそのはずで、男面と比べても格段に種類が多い女面でも、中年女性の役のための面は、特殊な面を除いては意外に「深井」と「曲見」に限られてしまうのです。一方、中年の女性の役というのは能の中で かなり大きなウェイトを占めていると思います。そしてその役の性格もまた、千差万別と言わざるを得ないでしょう。同じ「深井」を用いる曲にしても、『山姥』と『隅田川』では全く描いている人物像が違うし、さらに『隅田川』と同じく子を追い求める狂女物にしても『桜川』と『柏崎』では同じ面では勤めることは難しいでしょう。『朝長』では さらに演者の面に対する要求は大きくなる。。 『山姥』にはそれにふさわしい「深井」が掛けられるべきで、『朝長』のような理知的な面でも、『桜川』の、やや可憐な面ともまた違う。。(いや、理知的・可憐は ぬえの思い込みですけれども。。)もっと直情的で、品格は微妙に劣る感じ。。『安達原』より少し品良く、という感じが理想でしょうか。
面白いもので、同じ「鬼女」(とりあえず『山姥』のワキのセリフにそう書かれてあるので、この場ではそういう事にしておきます)の化身であるのに、『山姥』と『安達原』では微妙に違いますね。これを説明するのは難しいですけれども、たとえば『安達原』では小書がある場合に前シテは縷水衣を着るのに、『山姥』の前シテに水衣を着る事は想像できない。。そんな違いです。。うう。。説明が難しい。。
これほど没個性的というか、平凡というか、中年女性の役としての典型にはまりこんだ装束を着るのですから、役者としてはその文様に気を配らなければならないのは当然ですが、それ以上に『山姥』の前シテとしての扮装が成立するかどうかは、面の選択によって決定すると言えると思います。逆に言えば、個性的な面を役者が選ぶために、あえて装束に奇をてらう事を避けているのではないか、と思わせるほどで、じつは『山姥』の前シテの面は深井のほかにも「近江女」や、変わったところでは「霊女」を使う事も選択肢に加えられています。
「霊女」(「りょうのおんな」。。ぬえの師家では「れいじょ」と読んでおりますが。。)は女面でありながらいかにも怨霊のような表情の面で、う~ん、これは ちょっとあまりにも手の内を見せすぎかな? と ぬえは思いますが。。また「近江女」は『道成寺』の専用面のように思われがちですが、意外に前シテの「替エ」として選択肢の一つに加えられている曲がいくつかあります。面白いのは「近江女」という面は「紅入」にも「無紅」にも扱われる面で、観世流の主張では『道成寺』は紅入であるのに、同じ観世流が無紅の『山姥』にも使う事を許容しているのが良い例でしょう。ほかにも「泥眼」など、紅入にも無紅にも用いられる面はありますが。。
いま、ここまで書いて思い当たったのですが、「霊女」にもいろいろなタイプがあって、中には『山姥』の後シテの専用面「山姥」に似た相貌の「霊女」がありますね。あれって。。あの型の面の最初の作者は、あるいは『山姥』の前シテに使う事を想定して創作したのかも知れない。。
そして最後の選択肢である「深井」。やはり『山姥』の前シテにはこれを選ぶ演者が多いのではないかと思います。これまた「霊女」と同様に「深井」にもいろいろなタイプ。。「型」がありまして、千差万別。。というか、これほどいろんな表情を持った、印象の異なる面も少ないのでは? と思います。
それもそのはずで、男面と比べても格段に種類が多い女面でも、中年女性の役のための面は、特殊な面を除いては意外に「深井」と「曲見」に限られてしまうのです。一方、中年の女性の役というのは能の中で かなり大きなウェイトを占めていると思います。そしてその役の性格もまた、千差万別と言わざるを得ないでしょう。同じ「深井」を用いる曲にしても、『山姥』と『隅田川』では全く描いている人物像が違うし、さらに『隅田川』と同じく子を追い求める狂女物にしても『桜川』と『柏崎』では同じ面では勤めることは難しいでしょう。『朝長』では さらに演者の面に対する要求は大きくなる。。 『山姥』にはそれにふさわしい「深井」が掛けられるべきで、『朝長』のような理知的な面でも、『桜川』の、やや可憐な面ともまた違う。。(いや、理知的・可憐は ぬえの思い込みですけれども。。)もっと直情的で、品格は微妙に劣る感じ。。『安達原』より少し品良く、という感じが理想でしょうか。
面白いもので、同じ「鬼女」(とりあえず『山姥』のワキのセリフにそう書かれてあるので、この場ではそういう事にしておきます)の化身であるのに、『山姥』と『安達原』では微妙に違いますね。これを説明するのは難しいですけれども、たとえば『安達原』では小書がある場合に前シテは縷水衣を着るのに、『山姥』の前シテに水衣を着る事は想像できない。。そんな違いです。。うう。。説明が難しい。。