シテの登場音楽は「一声」(いっせい)です。「一声」は大小鼓による演奏に笛がアシライで彩りを添える囃子で、大小鼓は「ノル」と言いますが、リズムに合わせた演奏をし、これによって登場した役者は「ノラズ」、つまりリズムに合わない謡を謡います。大小が「ノラズ」に打ち、登場した役者が「ノッて」謡う「次第」とは全く逆になるわけですね。「一声」で登場した役者は拍子には合わせないまでも定まった文字数の謡を謡うのが普通で、定型では「五・七・五・七・五」の文字数です。また「サシ」という散文調の謡を謡う曲もあります。
「一声」は「次第」と比べてノリのある軽やかさが持ち味で、カッチリした感じの「次第」とはこれまた好対照です。ですから、前シテというよりも後シテの登場にしばしば用いられます。「次第」はそれが打たれる曲により非常に重厚な感じの登場を演出できるので、シッカリと、あるいはシットリと登場する前シテの役にはいかにも似つかわしいのです。それに対して「一声」は、そのノリの良さをうまく生かして、後シテが勇ましく、あるいは優美に、なんというかスーーッと、異次元から音もなく現れる感じにうまく合っているように思います。
「一声」には役者が登場する前に演奏されるプロローグの部分の中の一節「越シノ段」にいくつか手組の種類があって、それにより「本越一声」「片越一声」などに分類されます。もっとも現代では「一声」を区分するこの「越シノ段」の部分をしばしば省略して上演するので、実演上多くの場合「一声」はどれも同じになってしまっていますが。。
『歌占』では「片越一声」と定まっていて、これは「一声」の中でも最も軽く扱われる種類のものです。しかし ぬえが所蔵する幸流小鼓の手付では、『歌占』の一声にはわざわざ「アマリサラリナラズ」と注記がされています。「サラリ」というのは謡や囃子の演奏の速度のことで、つまり位取りとして あまり速く打たないように」と書かれてあるのです。一概には言えないにしても能では男性の役は女性の役よりも軽く、速く扱うのが一般的な傾向ですし、『歌占』のシテは白髪であっても「若き人」と本文にあります。そのうえその役割も「辻占い師」。どちらかというと小品に属する『歌占』のシテは、どこまでも軽く登場するのがふさわしいようにも思えますが、やはり「占い」という神の心に触れる職業を行っている流浪の神官、という神秘性が登場時に立ち現れる事が求められているのでしょう。それが表現されてはじめて、この曲の眼目たる「地獄の曲舞」を舞う意味づけがされるのかもしれないですね。
シテは上記のような装束の取り合わせの姿で、短冊を五枚つけた小弓を右肩に担いで登場し、橋掛り一之松に止まると正面に向いて謡い出します。
シテ「神心。種とこそなれ歌占の。引くも白木の。手束弓。
「それ歌は天地開けし始より。陰陽の二神天のちまたに行き会ひの。小夜の手枕結び定めし。世を学び国を治めて。今も道ある妙文たり。
「占問はせ給へや歌占問はせ給へや。
「神風や。伊勢の浜荻名を変へて。伊勢の浜荻名を変へて。よしといふも芦といふも。同じ草なりと聞く物を。処は伊勢の神子なりと。難波の事も問ひ給へ。人心。引けば引かるゝ梓弓。伊勢や日向の事も問ひ給へ日向の事も問ひ給へ。
「一声」は「次第」と比べてノリのある軽やかさが持ち味で、カッチリした感じの「次第」とはこれまた好対照です。ですから、前シテというよりも後シテの登場にしばしば用いられます。「次第」はそれが打たれる曲により非常に重厚な感じの登場を演出できるので、シッカリと、あるいはシットリと登場する前シテの役にはいかにも似つかわしいのです。それに対して「一声」は、そのノリの良さをうまく生かして、後シテが勇ましく、あるいは優美に、なんというかスーーッと、異次元から音もなく現れる感じにうまく合っているように思います。
「一声」には役者が登場する前に演奏されるプロローグの部分の中の一節「越シノ段」にいくつか手組の種類があって、それにより「本越一声」「片越一声」などに分類されます。もっとも現代では「一声」を区分するこの「越シノ段」の部分をしばしば省略して上演するので、実演上多くの場合「一声」はどれも同じになってしまっていますが。。
『歌占』では「片越一声」と定まっていて、これは「一声」の中でも最も軽く扱われる種類のものです。しかし ぬえが所蔵する幸流小鼓の手付では、『歌占』の一声にはわざわざ「アマリサラリナラズ」と注記がされています。「サラリ」というのは謡や囃子の演奏の速度のことで、つまり位取りとして あまり速く打たないように」と書かれてあるのです。一概には言えないにしても能では男性の役は女性の役よりも軽く、速く扱うのが一般的な傾向ですし、『歌占』のシテは白髪であっても「若き人」と本文にあります。そのうえその役割も「辻占い師」。どちらかというと小品に属する『歌占』のシテは、どこまでも軽く登場するのがふさわしいようにも思えますが、やはり「占い」という神の心に触れる職業を行っている流浪の神官、という神秘性が登場時に立ち現れる事が求められているのでしょう。それが表現されてはじめて、この曲の眼目たる「地獄の曲舞」を舞う意味づけがされるのかもしれないですね。
シテは上記のような装束の取り合わせの姿で、短冊を五枚つけた小弓を右肩に担いで登場し、橋掛り一之松に止まると正面に向いて謡い出します。
シテ「神心。種とこそなれ歌占の。引くも白木の。手束弓。
「それ歌は天地開けし始より。陰陽の二神天のちまたに行き会ひの。小夜の手枕結び定めし。世を学び国を治めて。今も道ある妙文たり。
「占問はせ給へや歌占問はせ給へや。
「神風や。伊勢の浜荻名を変へて。伊勢の浜荻名を変へて。よしといふも芦といふも。同じ草なりと聞く物を。処は伊勢の神子なりと。難波の事も問ひ給へ。人心。引けば引かるゝ梓弓。伊勢や日向の事も問ひ給へ日向の事も問ひ給へ。