さて遅くなりましたが例によって舞台進行を見ながら能『砧』を読み進めて参りましょう。この能は文句の美麗さでは大変有名ではありますが、じつは凝った修辞のためにちょっと意味が通りにくいところもあり詞章の意味を読み解くのは意外に難しいですね。
また前場の時間経過が不分明とは良く言われるところですが、ぬえはそれほど違和感を持っていません。『砧』の台本が人物の相関関係とか事件の経過など時間の進行に主眼が置かれているのではなく、シテの心理描写に重点が置かれているのは明白だし、その表現のためには事件「そのもの」さえ存在していればよいので、~たとえば遠くから誰かが擣つ砧の音が聞こえてきたとか、新たな使いが到着して夫がこの年の暮れにも帰郷できないと知らせるとか、こうした事件の積み重ねによって段々とシテが不安感に追い詰められていく事にこそ、この能のテーマの主流はあると思うのです。そもそも夫の帰郷を待つ妻(シテ)は夕霧の到着以前からすでに不安から憔悴していて、彼女にとって現実的な時間経過そのものが不分明であったでしょう。彼女にとっての時間とは、すでに夫が帰り来る「その日」としてしか意味を成していないのではないかと思います。
さて能『砧』は世阿弥晩年の自信作、というのが定説化していますが、室町末期にはすでに ほぼ上演は途絶えて忘れ去られた能になってしまいました。その後200年あまりを経て江戸前期に、宝生流、観世流で復曲され、次いで喜多流で、幕末から明治にかけて金剛流で流儀の上演曲に加えられました。金春流は戦後になっての復曲です。
こうしたことが原因なのか、シテ方の各流儀で、型や謡い方が大きく異なっている点も『砧』の特徴なのだそうです。もっとも能としての上演がなかった時代にも『砧』は謡としては上演されていたようで、現在観世流で重習とされているのと同じように、謡としても古来大事に扱われきたようで、喜多流を除けば各流儀で詞章にそれほど大きな異同はないようです。世阿弥の自筆本こそ伝存していないものの、『砧』は上演が途絶えている間も比較的本文がきちんと伝承されてきたようですね。
上記のように『砧』はシテ方各流儀で型や謡い方が異なっている能なのですが、ぬえはもとより観世流のことしかわからないので、このブログでも観世流の舞台進行のご紹介とさせて頂きます。
囃子方・地謡がそれぞれ幕と切戸から登場して着座すると、名宣笛でまずワキの蘆屋の某が登場します。ワキの後ろにはツレの侍女・夕霧が続いて登場するのですが、ワキとツレが一緒に登場するのは珍しい例ですね。まあ、皆無ではないでしょうが、その場合でもシテやツレ、あるいはツレ立衆が大勢登場する中にワキが交じっている、という例ばかりが頭に浮かび、このようにワキと、面を掛けた女ツレが二人っきりで登場するのは異例だと思います。
ワキは舞台常座に立ち、ツレはその後ろで正面に向いて、ワキの陰に隠れるように下居します。
ワキは素袍上下の出で立ち、ツレは唐織着流し。ともに市井の普段着の人物、という表現です。もっともワキは地元・九州蘆屋の豪族とか領主のような身分の高い人物と思われます。
ワキこれは九州芦屋の何某にて候。われ自訴の事あるにより在京仕り候。かりそめの在京とは存じ候ひつれども。当年三とせになりて候。余りに古里の事心もとなく候程に。召使ひ候夕霧と申す女を。古里へ下さばやと存じ候。<ワキの詞章は下懸リ宝生流による。以下同> ワキはツレに向き直って、
ワキ「いかに夕霧。余りに古里心もとなく候程に。おことを下し候べし。この年の暮には必ず下るべき由。心得て申し候へ。
ツレ「さらばやがて下り候べし。必ずこの年の暮には御下りあらうずるにて候。
ワキ「心得て候
ワキ…シテにとっては帰りを待ちわびる最愛の夫が訴訟ごとのために都に三年逗留している事実が観客に明かされ、自分が不在の故郷のことを心配して侍女・夕霧を使いに下す、という事情が知らされます。ワキが登場する前場はこれだけで、ツレに用事を言いつけるとワキはすぐに幕に引いてしまい、あと舞台は夕霧の旅の場面に移ります。ちなみに喜多流ではこの場面がなく、最初に舞台に登場するのは帰郷を急ぐ夕霧で、彼女の口から都での事情が説明される、という展開になっています。
また前場の時間経過が不分明とは良く言われるところですが、ぬえはそれほど違和感を持っていません。『砧』の台本が人物の相関関係とか事件の経過など時間の進行に主眼が置かれているのではなく、シテの心理描写に重点が置かれているのは明白だし、その表現のためには事件「そのもの」さえ存在していればよいので、~たとえば遠くから誰かが擣つ砧の音が聞こえてきたとか、新たな使いが到着して夫がこの年の暮れにも帰郷できないと知らせるとか、こうした事件の積み重ねによって段々とシテが不安感に追い詰められていく事にこそ、この能のテーマの主流はあると思うのです。そもそも夫の帰郷を待つ妻(シテ)は夕霧の到着以前からすでに不安から憔悴していて、彼女にとって現実的な時間経過そのものが不分明であったでしょう。彼女にとっての時間とは、すでに夫が帰り来る「その日」としてしか意味を成していないのではないかと思います。
さて能『砧』は世阿弥晩年の自信作、というのが定説化していますが、室町末期にはすでに ほぼ上演は途絶えて忘れ去られた能になってしまいました。その後200年あまりを経て江戸前期に、宝生流、観世流で復曲され、次いで喜多流で、幕末から明治にかけて金剛流で流儀の上演曲に加えられました。金春流は戦後になっての復曲です。
こうしたことが原因なのか、シテ方の各流儀で、型や謡い方が大きく異なっている点も『砧』の特徴なのだそうです。もっとも能としての上演がなかった時代にも『砧』は謡としては上演されていたようで、現在観世流で重習とされているのと同じように、謡としても古来大事に扱われきたようで、喜多流を除けば各流儀で詞章にそれほど大きな異同はないようです。世阿弥の自筆本こそ伝存していないものの、『砧』は上演が途絶えている間も比較的本文がきちんと伝承されてきたようですね。
上記のように『砧』はシテ方各流儀で型や謡い方が異なっている能なのですが、ぬえはもとより観世流のことしかわからないので、このブログでも観世流の舞台進行のご紹介とさせて頂きます。
囃子方・地謡がそれぞれ幕と切戸から登場して着座すると、名宣笛でまずワキの蘆屋の某が登場します。ワキの後ろにはツレの侍女・夕霧が続いて登場するのですが、ワキとツレが一緒に登場するのは珍しい例ですね。まあ、皆無ではないでしょうが、その場合でもシテやツレ、あるいはツレ立衆が大勢登場する中にワキが交じっている、という例ばかりが頭に浮かび、このようにワキと、面を掛けた女ツレが二人っきりで登場するのは異例だと思います。
ワキは舞台常座に立ち、ツレはその後ろで正面に向いて、ワキの陰に隠れるように下居します。
ワキは素袍上下の出で立ち、ツレは唐織着流し。ともに市井の普段着の人物、という表現です。もっともワキは地元・九州蘆屋の豪族とか領主のような身分の高い人物と思われます。
ワキこれは九州芦屋の何某にて候。われ自訴の事あるにより在京仕り候。かりそめの在京とは存じ候ひつれども。当年三とせになりて候。余りに古里の事心もとなく候程に。召使ひ候夕霧と申す女を。古里へ下さばやと存じ候。<ワキの詞章は下懸リ宝生流による。以下同> ワキはツレに向き直って、
ワキ「いかに夕霧。余りに古里心もとなく候程に。おことを下し候べし。この年の暮には必ず下るべき由。心得て申し候へ。
ツレ「さらばやがて下り候べし。必ずこの年の暮には御下りあらうずるにて候。
ワキ「心得て候
ワキ…シテにとっては帰りを待ちわびる最愛の夫が訴訟ごとのために都に三年逗留している事実が観客に明かされ、自分が不在の故郷のことを心配して侍女・夕霧を使いに下す、という事情が知らされます。ワキが登場する前場はこれだけで、ツレに用事を言いつけるとワキはすぐに幕に引いてしまい、あと舞台は夕霧の旅の場面に移ります。ちなみに喜多流ではこの場面がなく、最初に舞台に登場するのは帰郷を急ぐ夕霧で、彼女の口から都での事情が説明される、という展開になっています。