ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第18次支援活動<石巻市>(その5)~千年前の「奇跡の一本松」。。末の松山

2014-01-08 02:27:22 | 能楽の心と癒しプロジェクト
多賀城市に向かう前に、まずは塩竃神社に参詣。ぬえにとって相性がよい神様、と さるところで言われたこともあって親近感を持って伺いました。拝殿はただいま補修工事の最中でした。



この神社の境内には杉の木を取り巻くように橋掛リ? のような通路が設けられた舞殿がありまして、じつはここでの奉納上演を震災の年からお願いしているのですが、時期が悪くていまだに実現せず。このときも事前に打診してみましたが、やはり年末の神社はお札を氏子さんに配ったりでご多忙の時期でした。。



(舞殿の画像は震災の年の夏に撮ったものです)

さて多賀城は奈良時代に陸奥の国府が置かれた東北のかつての中心地で、都とは最も接点が濃い場所でした。そのために歌枕となっている場所がいくつかあります。



こちらは有名な「末の松山」。百人一首にも採られた清原元輔(清少納言の父)の歌「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」で知られているわけですが、この歌には本歌があって、それが『古今和歌集』にある東歌「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」。行ってみるとこの東歌の方が大きな歌碑に刻まれていました。



いずれの歌も末の松山を決して波が超すことがない、と言われるように、変わらない永遠の愛を誓った、という意味なのですが、この「波」こそ、すなわち古来三陸地方を度々襲った津波の事を指している、と考えられています。

本当かなあ? と ぬえも思ったのですが、貞観11年(869)に、今回の震災津波とよく比較される いわゆる「貞観津波」が起こり、前掲の東歌が収められた『古今和歌集』の成立がその直後の延喜年間(910年前後?)とされること、清少納言の父である清原元輔(908~990)もそれより100年ほど後の、比較的貞観年間に近い時代の人であること、さらには「末の松山」がある場所が国府の置かれた多賀城付近である(異説もあるようですが)ことから考えると、貞観津波の中で生き残った松の話がまず「東歌」として現地で詠まれ、これが国府の役人を通じて都に伝えられ、元輔の歌に再生された可能性は十分に考えられるでしょう。ちょうど今回の震災でも津波に耐えて残った陸前高田の「奇跡の一本松」とまったく同じ現象が、今から1,100年以上前に起こっていたのです。

さて「末の松山」からわずか数十m下ったところに、もう一つの歌枕「沖の石」があります。こちらも百人一首に採られた「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」という歌で有名。この歌の作者の二條院讃岐は平安末期から鎌倉時代前期、と貞観からはやや後代の人ですが、源頼政の娘で、以仁王を奉じて乱を起こした武人でありながら歌人としても名高い頼政の血は争えない才能の持ち主ですね。



「わが袖は。。」の歌は干潮のときにさえ水面に姿を現さない石に喩えて乾くことのない我が袖の涙を詠んだ恋の歌。水面下に沈んだ石がなぜ歌に詠まれて都にまでその名声が届いたのか。。それほど印象的な奇岩だったのでしょうね。。ところが実際の「沖の石」はこのように住宅街の中に取り残された池? に囲まれた、なんとも風情のない岩の塊でした。まあ、奇岩といえばそうも言えるか。どうも江戸期にはすでに内陸に取り込まれてしまっていたようです。

さて震災でこの「波越さじ」と詠まれた「末の松山」と、「潮干に見えぬ」という「沖の石」は震災時にどうなったのか。

じつは「末の松山」は海抜10m前後のところにあり、すぐ近くの「沖の石」は同2mほどの標高なのだそうです。震災当時 多賀城市には8mの津波が襲ったそうで、このときに「末の松山」には津波は届かず、「沖の石」は水没し、瓦礫に埋まったとのことでした。

車が突っ込んだ状態の「沖の石」の画像がアップされていました。大変貴重な記録です。

わかるかしら? 上に ぬえがアップした画像とは正対した、反対側の位置からから撮影した画像ですね。2枚の画像に写った松の幹の曲がり具合を参考にしてください。

ほかにも付近に歌枕はあるのですが、ぬえがこの2つの場所にこだわる理由は。。これが能『善知鳥(うとお)』の本文に2つとも仲良く出てくるからです。

末の松山風荒れて。袖に波越す沖の石。または干潟とて、海越しなりし里までも、千賀の塩竃身を焦がす報ひをも忘れける事、業をなしゝ悔しさよ。。

この部分、ちょっと解釈が難しいところなので現代語訳しておくと、

(鳥を捕らえる猟師が死後殺生の罪で地獄に堕ち、その霊が僧の前に現れて懺悔のために狩りの様子を語る場面で)「海近くで末の松山のような松林に強風が吹き付ける日も、きっと有名な沖の石も水に沈んでいるだろう程に海が荒れて、自分の袖も濡れるような日も、または干潟や、その向こうに遠く見える里のあたりまでの距離であっても、近いと感じるほどに狩猟は心楽しく、それが知らず知らずに仏の戒めである殺生の報いで、まるで千賀の塩竃で汐を焼くように、我が身を滅ぼして地獄の業火に焼かれる運命に陥る罪業を重ねていると気づかないことを今になって悔しく思う」
。。ということになりましょうか。