ワキの読経に耳を傾けるシテとツレの二人。風情のある場面ですが、ここでツレが着座するまで、ずっと二人は立ったまま。しかも正面から見るとシテの姿はツレの後ろに隠れてしまって、地謡の中であたりを見回す型さえ見えにくい事になってしまいます。『通盛』という曲は正面席で見るのはやや不利になりますね。中正面の脇正面席寄りのお席の方がシテの姿はよく見えます。
そこで、演者もいろいろ工夫はしておりまして、いわく、周囲を見渡す型の足遣いに注意して、少しだけツレの真後ろに立つのを避けるとか、今回は先輩のアドバイスも受け、師匠のお許しも頂きましたので、定められた型とは少し変えて、早めにツレに着座させようと考えております。
さて経を読む声に心を静めて聞き入る二人にワキ僧も気づき、声を掛けます。
ワキ「誰そやこの鳴門の沖に音するは。
シテ「泊り定めぬ海士の釣舟候よ。
ワキ「さもあらば思ふ子細あり。この磯近く寄せ給へ。
シテ「仰せに随ひさし寄せ見れば〈と棹に右手をかける〉。ワキ「二人の僧は巖の上。シテ「漁の舟は岸の陰。
ワキ「芦火の影を仮初に。御経を開き読誦する。シテ「有難や漁する。業は芦火と思ひしに。
ワキ「善き燈火に。シテ「鳴門の海の〈と下居て合掌〉。
シテ/ワキ「弘誓深如海歴劫不思議の機縁によりて。五十展転の随喜功徳品。
先ほど「楫音を静め唐櫓を抑へて」と棹に右手を掛けたシテは、ここでも再び棹に手を掛けながら二足だけ前へ出ます。先ほどの型は、経を聞くために舟が流れないように棹で舟を固定したのであり、こちらはワキに「この磯近く寄せ給へ」と乞われたシテが「仰せに随ひ」舟を「さし寄せ」たのです。本当に舟の作物をワキのそばに移動させるのではなく、二足出ることで舟が「移動した」ということを表現します。能らしい表現方法ですが、やはり型を注視し、台詞を聞き取りながら、でないとすぐに理解するのは難しいですね。
ところでここ。。ちょっと ぬえは違和感を持っています。海に出る「釣り舟」という設定ですが、棹をさしてそれを操縦するのは「川船」の方法ですよね。川船というのは、水底までが浅い川に適した舟で、舟の底が平らなのです。そうして長い竹竿で川底を突くことによって、川の流れに流されずに進むことができるのです。また舟を止めるときも(まさに『通盛』のシテがここでしている型のように)、竹竿を川底に突いて、船頭さんが自分の足を踏ん張ることで舟を固定するのです。
底までが深い海では棹で舟を操縦するのは無理で、海舟の場合は「帆」で進むのでなければ「櫨」を漕ぎながら進むはずですね。舟を止める場合は碇などを海に投げ込むのかな?
まあ、このあたりの齟齬は京都を中心に発達した能では致し方のないところかもしれません。
しかしながら経を読む僧が海岸の岩の上に座し、その下に舟を漕ぎ寄せた漁翁と若い女の二人が殊勝そうに僧の声に聞き入る、というのは風情の良い場面です。僧は日が暮れてあたりが暗くなってきたので、釣り舟の篝火の火を借りて、それを頼りに経を読もうとしたのであり、一方のシテの言葉は、これはちょっとわかりにくいですが、「ありがたや漁する。業は芦火と思ひしに。善き燈火に鳴門の海の」とは、漁という殺生を生業としている身は罪深く心憂いのであり、篝火さえその殺生のための道具であると思っていたのに、僧に乞われて読経の手助けをすることになるとは ありがたいことだ、というような意味です。
地謡「実にありがたやこの経の〈と立ち上がり扇を開き〉。面ぞ暗き浦風も。芦火の影を吹き立てゝ〈と扇にて篝火をあおぐ〉。聴聞するぞありがたき〈と下居〉。
地謡「竜女変成と聞く時は。竜女変成と聞く時は。姥も頼もしや祖父は言ふに及ばす。願ひも三つの車の芦火は清く明かすべしなほなほお経。遊ばせなほなほお経あそばせ。
かくしてシテは地謡の文句の中で立ち上がり、腰に挿していた扇を取り出して開き、篝火をあおぐ型をします。僧と漁師たちはこの鳴門の海を介して心を通わせたのでした。
ワキ「あら嬉しや候。火の光にて心静かに御経を読み奉りて候。先々この浦は。平家の一門果て給ひたる所なれば。毎夜この磯辺に出でて御経を読み奉り候。取り分き如何なる人この浦にて果て給ひて候ぞ委しく御物語り候へ。
さて読経も一段落したところで、ワキはシテに声を掛け、この鳴門で命を失った平家の人々について尋ねます。ワキの僧はこの鳴門に住む人ではなく、平家を弔うためにひと夏の間、この所に逗留している、と冒頭に言っていますね。ここはその土地に住む漁師であろうと推測されるシテとツレに、鳴門での合戦の模様を尋ねたのです。
シテ「仰せの如く或ひは討たれ。又は海にも沈み給ひて候。中にも小宰相の局こそ。や。〈とツレを見て〉もろともに御物語り候へ。
シテは当たり前のように鳴門で命を落とした平家の人々のことを語り、その中でもことに哀れな物語として小宰相が入水自殺を遂げた事を語り出そうとしたところで、それまで押し黙っていたツレにも声を掛けて、ともに物語るように促します。
もうほとんど自明の事だと思いますが、もちろんこれはツレが、この海に身を投げた小宰相だからシテはツレに声を掛けたのです。シテはツレが自らの声で僧へ語ることを促すことで、僧に懺悔をし、罪障を晴らそうとしてやったのかもしれません。
ところで…ここで「源平の鳴門の合戦?」と疑問を感じた方もあるかもしれません。じつはその疑問は正解で、阿波の国で源平の合戦はありませんでした。それどころか『平家物語』によれば、この鳴門で命を落としたのは、みずから海に身を投げた、小宰相ただ一人なのです。
このへんは演出上のトリックのようなものかもしれません。この地で命を失ったのが小宰相一人だ、としておくとワキは彼女一人を弔うために鳴門にやって来た事になるのですが、それよりも、平家一門の跡を弔う僧の前に、彼の知らない小宰相の悲しい物語が提示される方が、その悲劇を知って重ねて僧が弔う意識が鮮明になりますし、そうなれば後場でシテの通盛とツレの小宰相の二人が登場するのに必然性が生まれるからです。
もっとも。。この地で誰が亡くなったのかも知らずに、鳴門にやって来て、漠然と平家を弔うワキ僧、というのも うかつな事ではありますけれどね。
いずれにしても、シテとツレによる小宰相の入水自殺の物語は、土地の伝承のような他人事の物語から、次第に自らの身の上を語るように迫真を増してゆきます。
ツレ「さる程に平家の一門。馬上を改め。海士の小船に乗りうつり。月に棹さす時もあり。
シテ「こゝだにも都の遠き須磨の浦。シテ/ツレ「思はぬ敵に落されて。実に名を惜む武士の。おのころ島や淡路潟。阿波の鳴門に着きにけり。
ツレ「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。
シテ/ツレ「いかに何とか思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。通盛は討たれぬ。誰を頼みてながらふべき。この海に沈まんとて。主従泣く泣く手を取り組み舟端に臨み〈と二人立ち上がり〉。
ツレ「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ〈ツレは右の遠くを見る〉。
地謡「沈むべき身の心にや。涙の兼ねて浮むらん〈ツレはシオリ〉。
そこで、演者もいろいろ工夫はしておりまして、いわく、周囲を見渡す型の足遣いに注意して、少しだけツレの真後ろに立つのを避けるとか、今回は先輩のアドバイスも受け、師匠のお許しも頂きましたので、定められた型とは少し変えて、早めにツレに着座させようと考えております。
さて経を読む声に心を静めて聞き入る二人にワキ僧も気づき、声を掛けます。
ワキ「誰そやこの鳴門の沖に音するは。
シテ「泊り定めぬ海士の釣舟候よ。
ワキ「さもあらば思ふ子細あり。この磯近く寄せ給へ。
シテ「仰せに随ひさし寄せ見れば〈と棹に右手をかける〉。ワキ「二人の僧は巖の上。シテ「漁の舟は岸の陰。
ワキ「芦火の影を仮初に。御経を開き読誦する。シテ「有難や漁する。業は芦火と思ひしに。
ワキ「善き燈火に。シテ「鳴門の海の〈と下居て合掌〉。
シテ/ワキ「弘誓深如海歴劫不思議の機縁によりて。五十展転の随喜功徳品。
先ほど「楫音を静め唐櫓を抑へて」と棹に右手を掛けたシテは、ここでも再び棹に手を掛けながら二足だけ前へ出ます。先ほどの型は、経を聞くために舟が流れないように棹で舟を固定したのであり、こちらはワキに「この磯近く寄せ給へ」と乞われたシテが「仰せに随ひ」舟を「さし寄せ」たのです。本当に舟の作物をワキのそばに移動させるのではなく、二足出ることで舟が「移動した」ということを表現します。能らしい表現方法ですが、やはり型を注視し、台詞を聞き取りながら、でないとすぐに理解するのは難しいですね。
ところでここ。。ちょっと ぬえは違和感を持っています。海に出る「釣り舟」という設定ですが、棹をさしてそれを操縦するのは「川船」の方法ですよね。川船というのは、水底までが浅い川に適した舟で、舟の底が平らなのです。そうして長い竹竿で川底を突くことによって、川の流れに流されずに進むことができるのです。また舟を止めるときも(まさに『通盛』のシテがここでしている型のように)、竹竿を川底に突いて、船頭さんが自分の足を踏ん張ることで舟を固定するのです。
底までが深い海では棹で舟を操縦するのは無理で、海舟の場合は「帆」で進むのでなければ「櫨」を漕ぎながら進むはずですね。舟を止める場合は碇などを海に投げ込むのかな?
まあ、このあたりの齟齬は京都を中心に発達した能では致し方のないところかもしれません。
しかしながら経を読む僧が海岸の岩の上に座し、その下に舟を漕ぎ寄せた漁翁と若い女の二人が殊勝そうに僧の声に聞き入る、というのは風情の良い場面です。僧は日が暮れてあたりが暗くなってきたので、釣り舟の篝火の火を借りて、それを頼りに経を読もうとしたのであり、一方のシテの言葉は、これはちょっとわかりにくいですが、「ありがたや漁する。業は芦火と思ひしに。善き燈火に鳴門の海の」とは、漁という殺生を生業としている身は罪深く心憂いのであり、篝火さえその殺生のための道具であると思っていたのに、僧に乞われて読経の手助けをすることになるとは ありがたいことだ、というような意味です。
地謡「実にありがたやこの経の〈と立ち上がり扇を開き〉。面ぞ暗き浦風も。芦火の影を吹き立てゝ〈と扇にて篝火をあおぐ〉。聴聞するぞありがたき〈と下居〉。
地謡「竜女変成と聞く時は。竜女変成と聞く時は。姥も頼もしや祖父は言ふに及ばす。願ひも三つの車の芦火は清く明かすべしなほなほお経。遊ばせなほなほお経あそばせ。
かくしてシテは地謡の文句の中で立ち上がり、腰に挿していた扇を取り出して開き、篝火をあおぐ型をします。僧と漁師たちはこの鳴門の海を介して心を通わせたのでした。
ワキ「あら嬉しや候。火の光にて心静かに御経を読み奉りて候。先々この浦は。平家の一門果て給ひたる所なれば。毎夜この磯辺に出でて御経を読み奉り候。取り分き如何なる人この浦にて果て給ひて候ぞ委しく御物語り候へ。
さて読経も一段落したところで、ワキはシテに声を掛け、この鳴門で命を失った平家の人々について尋ねます。ワキの僧はこの鳴門に住む人ではなく、平家を弔うためにひと夏の間、この所に逗留している、と冒頭に言っていますね。ここはその土地に住む漁師であろうと推測されるシテとツレに、鳴門での合戦の模様を尋ねたのです。
シテ「仰せの如く或ひは討たれ。又は海にも沈み給ひて候。中にも小宰相の局こそ。や。〈とツレを見て〉もろともに御物語り候へ。
シテは当たり前のように鳴門で命を落とした平家の人々のことを語り、その中でもことに哀れな物語として小宰相が入水自殺を遂げた事を語り出そうとしたところで、それまで押し黙っていたツレにも声を掛けて、ともに物語るように促します。
もうほとんど自明の事だと思いますが、もちろんこれはツレが、この海に身を投げた小宰相だからシテはツレに声を掛けたのです。シテはツレが自らの声で僧へ語ることを促すことで、僧に懺悔をし、罪障を晴らそうとしてやったのかもしれません。
ところで…ここで「源平の鳴門の合戦?」と疑問を感じた方もあるかもしれません。じつはその疑問は正解で、阿波の国で源平の合戦はありませんでした。それどころか『平家物語』によれば、この鳴門で命を落としたのは、みずから海に身を投げた、小宰相ただ一人なのです。
このへんは演出上のトリックのようなものかもしれません。この地で命を失ったのが小宰相一人だ、としておくとワキは彼女一人を弔うために鳴門にやって来た事になるのですが、それよりも、平家一門の跡を弔う僧の前に、彼の知らない小宰相の悲しい物語が提示される方が、その悲劇を知って重ねて僧が弔う意識が鮮明になりますし、そうなれば後場でシテの通盛とツレの小宰相の二人が登場するのに必然性が生まれるからです。
もっとも。。この地で誰が亡くなったのかも知らずに、鳴門にやって来て、漠然と平家を弔うワキ僧、というのも うかつな事ではありますけれどね。
いずれにしても、シテとツレによる小宰相の入水自殺の物語は、土地の伝承のような他人事の物語から、次第に自らの身の上を語るように迫真を増してゆきます。
ツレ「さる程に平家の一門。馬上を改め。海士の小船に乗りうつり。月に棹さす時もあり。
シテ「こゝだにも都の遠き須磨の浦。シテ/ツレ「思はぬ敵に落されて。実に名を惜む武士の。おのころ島や淡路潟。阿波の鳴門に着きにけり。
ツレ「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。
シテ/ツレ「いかに何とか思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。通盛は討たれぬ。誰を頼みてながらふべき。この海に沈まんとて。主従泣く泣く手を取り組み舟端に臨み〈と二人立ち上がり〉。
ツレ「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ〈ツレは右の遠くを見る〉。
地謡「沈むべき身の心にや。涙の兼ねて浮むらん〈ツレはシオリ〉。