ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その10)

2016-05-18 22:50:28 | 能楽
とか言っているうちに、ついに明日が『通盛』公演の当日になりました。
おかげさまでチケットもかなり売れ行きが良いようで。。ありがたいことです。
動かない能だから、そういうときは舞台で役者が何を演じているのか、このブログでお伝えすることができたら本望です。

で、今日は最後の話題。。表題にもした「直ぐなる能」について考えてみたいと思います。

『通盛』について、世阿弥よりも時代が遡る古作の能であることは前述しました。その多くは作者も不明なのですが、じつは『通盛』は作者が判明している数少ない能です。

いわく世阿弥の伝書『申楽談儀』に、

静 通盛 丹後物狂 以上、井阿作。

とあるからです。
が、「井阿弥」は詳細が不明の人物で、世阿弥と同時代か少しだけ遡る時代の人であるらしいこと、能の作者であり役者でもあったろう、と推測されるほかは、読みさえ「いあみ」なのか「せいあみ」なのかさえ判明していません。

ところが同じ『申楽談儀』の別の箇所では

道盛、言葉多きを、切り除け切り除けして能になす。

と、その井阿弥の原作を世阿弥が大幅に改作したことが記されています。
これらの事実は大変有名で、同じく『申楽談儀』の中で『通盛』に言及している次の記事もよく知られています。

祝言の外には、井筒・道盛など、直ぐなる能也

偶然にもどちらも今回の梅若研能会での上演曲だ。。(汗)

『通盛』を世阿弥は「直ぐなる能」と評しているわけですが、「直ぐなる」の意味は、その直前に、

先、祝言の、かゝり直なる能より書き習ふべし。直なる能は弓八幡也。曲もなく、真直成る能也

と書かれていて、これを「能の台本を書くには神をあがめる脇能から学び始めるべきだ、『弓八幡』などは好例で、複雑な変化もなく、素直な能である」と解すれば、『通盛』も『弓八幡』のように素直な能だ、という事になるのですが。。本当にそうでしょうか。

今回『通盛』の稽古をしてきて、前シテが「主役」ではあっても「主人公」ではないのだ、という事を経験しました。現在まで、それほど多くの能を演じてきたわけではないけれども、これは ぬえにとって初めての出来事でしたね。

それから、この能は面白いことに台本に時間軸の逆転が組み込まれていますね。

前シテでは入水するに到る小宰相の心理を描いているのに対して、後場では通盛と小宰相の逢瀬から通盛の戦死に到るまで。。彼女の入水事件からは数日遡った一ノ谷の合戦の前後が描かれるのです。世阿弥が確立したとされる複式夢幻能では、前シテがある事件について述べ、後場ではその同じ物語を本性を現した後シテが語る、という事が多いですが、『通盛』はそれとも違う、前後の場面で別々の事件を描いています。

極論してしまえば、前場では小宰相(の化身)がシテなのであり、後場では通盛がシテであるような複雑な構成を持った能だとも考えられるのです。

少々異端な構成とはいえ『通盛』は複式夢幻能として台本が形作られていますから、その形式を創造したとされる世阿弥によって、『通盛』は井阿弥の原作からは根本的な変更が行われているとも考えられるし、そうなると、ここまで複雑で精巧な演出を持った『通盛』を「直ぐなる能」と言うことはできるのでしょうか。

また一方、世阿弥の『三道』では

一、軍体の能姿。仮令、源平の名将の本説ならば、ことにことに平家の物語のまゝに書くべし。

とあって、『通盛』はこれにも違反しているように思えます。通盛は「生田の森の合戦に於て。名を天下に上げ。武将たつし誉れを」得た人物ではなかったし、この能の舞台となっている鳴門は「平家の一門果て給ひたる所」でもなければ「仰せの如く或ひは討たれ。又は海にも沈」んだという場所でもありませんし。。

ぬえの結論なのですが、ぬえはこの能は、少なくとも井阿弥の原作の当初には「修羅能」として作られた能ではなかったのではないか、と考えています。

もちろん井阿弥の原作は伝わらず、世阿弥がどこまで原作に手を入れたのかも不明ではありますが、「源平の名将の本説」を描くのが「修羅能」であるならば、『通盛』は武将である通盛だけが主人公ではありません。ツレ小宰相は前場ではシテと同じような地位を与えられ、後場でもこの二人の逢瀬が重要な場面であるし、この二人の法華経による救済がテーマと考えられます。この能は武将の活躍や悲哀を描く能、というよりは、戦乱によって運命を狂わされた男女の愛と悲劇の物語と捉えるべきでしょう。

世阿弥が原作を改変し、その方法が「言葉多きを、切り除け切り除けして能になす」であったのならば、原作は二人の関係をより濃密に描いていたのかもしれないし、ぬえは世阿弥がそれを小宰相の入水事件と、一ノ谷での二人の逢瀬と通盛の戦死、という二つの物語に整理して、それをみずからが開発した「複式夢幻能」の形式にまとめたのではないか、などと想像を逞しくしています。

こして考えたとき、とくに後場でのシテとツレとの登場場面に、ぬえはほかの修羅能よりも『女郎花』や『船橋』『錦木』といった、やはり仲を引き裂かれた男女の愛欲を描いた能との近親を感じます。修羅能には珍しく『通盛』に太鼓が入るのも、それによって夫婦がそろってワキ僧の前に本性を現すのも、これらの3曲と共通の演出です。そうしてまた、世阿弥作とされてる『錦木』を除けば、『船橋』も『女郎花』も、『通盛』と同じく古作の能と考えられているのです。

『通盛』の最後の場面。。ようやくシテが活発に動作をする場面。。では典型的な「修羅能」としての型がつけられていますし、これをもって『通盛』は修羅能というジャンルに属する曲だと考えられていますが、ぬえにはむしろ、この場面こそ「修羅能」という範疇に括るために、世阿弥によって追加された場面なのではないか、とさえ思います。

派手な斬り合いなどの場面よりも、むしろ男女の気持ちの機微を描く能。。それが『通盛』の本質なのではないか、と考えております。

(この項 了)

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その9)

2016-05-18 02:37:29 | 能楽
最後の場面、「読誦の声を聞く時は」以降は、シテの頼みを受けてワキが読誦した法華経の功徳によってシテが成仏したことを表します。この部分、能『葵上』の最後の場面とまったく同文であることは有名ですね。同じ催しに『通盛』と『葵上』が上演されるときは(いや、重複を嫌う能ではそんな番組が組まれる事はあり得ないのですけれども)、『通盛』の方がこの重複している文句を替えるように、わざわざ次のような詞章さえ用意されています。

読誦の声を聞く時は。読誦の声を聞く時は。修羅の苦患を滅して。弘誓の舟にのりの道。彼岸に早く到りつつ。成仏得脱の身となり行くぞありがたき。身となり行くぞありがたき。

『通盛』も能の中では古作に属する曲ですが、『葵上』も同じく古い時代に作られた能です。同じ文句を共有している、という事は、どちらかが詞章をパクったのかも知れません。そうであればオリジナルなのは『葵上』の方でしょう。同じ日に上演が重なったときは『通盛』が譲って詞章を替えるから、というのが理由ではなくて、「心を和らげ」たのが「悪鬼」だ、と詞章にあるからです。平通盛は「亡者」ではあっても「悪鬼」ではありませんね。この表現は般若の面を掛ける『葵上』の後シテにこそふさわしいです。

が、どちらが詞章をパクったか? という観点ではなくて、ここは「どちらがより古作の能なのか」の証左としてこの詞章が参考になる、と考えておきたいと思います。世阿弥よりも前の時代の能については分かっていない事も多く、作者さえ判然としないのですから(能の作者が不明である点については世阿弥以降も事情は同じですが)。ですからたとえば、観阿弥・世阿弥ら、後に現代にまで継承されている能楽の家の系譜とは違った方法論に拠って上演していた「座」(能の劇団)もあったかも知れないのです。その集団が、たとえば、必ず同じ文句「読誦の声を聞くときは。。」で終止する台本ばかりを書く伝統だって、あったかも知れない。そうであれば『葵上』が『通盛』より古く成立した曲だとも言えない事になります。これは証拠となる資料も伝わらないので荒唐無稽で極論でしょうが、同じくそんな伝統はなかった、という証拠も、これまたないのです。こう考えるときには「悪鬼」という表現も判断材料のひとつにはなり得る。。

ちょっと脱線したので話を戻して。。

こうして能『通盛』を読み解いてきましたが、ぬえがどうしても気になるのは、能『通盛』の後場のクセで描かれている合戦前夜の小宰相との逢瀬です。

能ではここは妻との仲睦まじい語らいの場面なのであって、それを弟の教経が割って入ったために通盛は合戦の場に身を投じ、これが小宰相との最期の別れとなりました。

が、『平家物語』を読むとき、二人の逢瀬は必ずしも「仲睦まじい逢瀬」だったとは言い難いのではないでしょうか。通盛は翌日に自らの戦死を予感して、想像をたくましくして考えれば、妻・小宰相との最期の別れのために彼女を陣屋に呼び寄せたのです。一方、呼び出しを受けた小宰相は通盛に会って、みずからの懐妊を告げました。

通盛は妻の懐妊を喜びましたが、それは彼がこの世の形見として子を残す事を喜んだのであって、やはりみずからの死が厳然として心を独占していたからです。一方の小宰相は、通盛が「いつもより心細げに打ち嘆きて」戦死の予感を語ったのにもかかわらず、「軍はいつもの事なれば」と、通盛の悲壮な思いに気づきませんでした。

ぬえが考えるに。。この夜の逢瀬で、二人の気持ちはすれ違っていました。みずからの死を予感した通盛は悲しかったのです。だから小宰相にもうひと目会って、自分が亡き後の彼女の生活について心配をしていました。

でも、小宰相は、それとは逆に、この夜の逢瀬が嬉しかったのではないでしょうか。まずは都落ちをしてから戦乱に明け暮れる生活の中で、夫・通盛とゆっくり語り合う時間がなかったこと。これが叶えられたのがこの夜の逢瀬なのであって、しかも彼女はその場で懐妊を通盛に告げることができたのです。二人の愛の証しが新しい生命となって結実した。。彼女にとってこの夜は二人の希望のある未来を確認しあう場だったのです。

悲しいかな、この二人の気持ちの齟齬が悲劇を生んだという事でしょう。通盛は自分が亡きあと、小宰相が形見の子を育て、自分の後を弔ってくれることを願っていました。ところが小宰相には通盛の死は予想できなかった。いつしか二人には平和な世の到来と、楽しい家庭生活が訪れるであろうと、懐妊した彼女はそう思ったのです。

だからこそ、通盛の戦死を聞いた小宰相は動揺し、乳母の制止も振り切って夫の後を追ったのでした。

このところ、『平家物語』では乳母の切実な説得が胸を打ちます。いわく、幼い子や老いた父母を残して小宰相さまに従ったこの乳母の気持ちを何とお心得なさりますか。通盛さまの御子を出産なさって養育する事こそが供養でありましょう。また冥土では六道と言って行き場はひとつではありません。後を追われても通盛さまに会う保証はないのです。ただお心を静めて。。

能では、こう説得する乳母の制止を振り切って小宰相は入水するのですが、『平家物語』では乳母の制止を聞いた小宰相は 乳母に入水するつもりだと告げた事を後悔して、その場をなんとか取り繕い、その夜みなが寝静まった頃に一人で身を投げました。お腹の子どもは、もし「十に九は必ず死ぬるもの」と言われた出産を無事に済ませても、生まれてくる我が子を見るたびに、夫・通盛の面影をそこに見てしまい、心の安住はない、と 彼女は思い定めていました。

結局。。通盛と小宰相は、相思相愛だったのに、最期はあらゆる面で違う道を歩んでしまいました。死んだ場所も通盛が摂津国一ノ谷に対して小宰相は阿波国鳴門。死亡の原因も通盛の討ち死にに対して小宰相の入水。。

死後、二人は成仏できていないようですが、死亡の理由が仏教的な解釈によれば通盛が戦乱で殺生戒を冒したのに対して、小宰相は通盛に対しての妄執が止みがたかったための死、と捉えられるかもしれません。乳母が小宰相に言ったように、このような心のすれ違いが、彼らを六道の別々の道に向かわせてしまったのかもしれない。

だから、ぬえはこう考えています。能『通盛』の前場で夫婦は仲良く釣舟に乗って登場しているように見えるけれども、じつは冥土ではあい見える事ができていないのではないか。同じ釣舟に同乗しているように、お互いの姿は見えていても、触れあうことはできない。。二人の気持ちの齟齬から生まれた死の位相の違いが、死後にも二人には壁となって立ちはだかり、その苦しみから僧に回向を求めて二人は現れたのではないか。

そう考えるとき、前場の終わりにシテがツレに手を掛けて制止する事にもう一つの意味が生まれてきます。

ぬえは以前にこのツレを制止するシテの行動を、小宰相の入水のときに通盛はすでにこの世にいなかった事から、入水しようとする乳母の「行動」だけを抽出して、小宰相がそれを振り切る決意の現れとして表現しているのだ、と解しました。この行動を起こしたのは通盛の霊でもなく、ましてや乳母の霊でもなく、つまり人物ではなく、小宰相の入水という行為の強さを表現する手段なのだと。

しかし、やはり通盛は彼女に自分の後を追ってほしくなかったのです。やはり小宰相を制止したのは、自分の後を追ってほしくない通盛の心であったかもしれません。

通盛は合戦前夜の逢瀬で小宰相に、自分が死んだら、我が子を形見として育て、自分の後を弔ってほしい、と頼んでいます。しかし小宰相は、そのいずれの頼みも実現することなく、愛する夫の許に向かおうとしたのでした。この二つの気持ちのズレが、結果的に二つの死を導き出してしまい、それは死後も二人を苦しめる、永劫の悲劇に繋がってしまったのでしょう。

ぬえはこの能を修羅能として捉えるよりは、やはり男女の愛の、悲劇的な物語として作られた能なのではないかと考えています。