ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『歌占』。。運命が描かれる能(その4)

2008-05-12 00:33:32 | 能楽
正面に向いたツレは名宣リ。。つまり自己紹介の文を謡います。

ツレ「かやうに候者は。加賀の国白山の麓に住まひする者にて候。さてもこの程いづくの者とも知らぬ男神子の来り候が。小弓に短冊を付け歌占を引き候が。けしからず正しき由を申し候程に。今日罷り出で占を引かばやと存じ候。

この自己紹介文の最後で、この役がワキであれば両手を前で合わせる型~「掻き合わせ」とか「立拝」と呼ばれる型をするところなのですが、シテ方ではこの型は行わない事が普通です。もっとも「立拝」という型がシテ方にないわけではなくて、この型はもっぱら舞の中などに現れてきますね。ワキ方にとっての「立拝」が、名宣リの中で特に自己紹介としての演技の意味があるとは思えないから、これは儀式的な型、あるいは「名宣リ」を終えて通常であれば「道行」を謡う事を囃子方などほかの演者に通知するための「知ラセ」のような意味を持つ型なのではないか、と ぬえは考えていますが、シテ方にとっての「立拝」は、やはり儀式的な意味は持ちながら、舞の一部としての機能も併せ持っているところに、少しく違いを感じたりしています。まあ、ワキ方とシテ方と、たまたま似ているけれど、実際は全く別の型をそれぞれの意味で行っているのかもしれませんが。

それと、書き忘れましたが、このツレと子方が登場する「次第」という登場音楽ですが、この囃子でワキが登場した場合は「立ち戻り」と言って、ワキは舞台の先まで進み出て、それからクルリと後ろを向いて少し下がり、それから子方(やワキツレ)と向き合います。これもシテ方は同じ「次第」で登場してもほとんど行わない型ですね。

この「立ち戻り」ですが、おワキがワキツレを従えて登場する場合であれば、下掛り宝生流のおワキは一人で舞台に入り、この時ワキツレは後見座の前あたりで立ち止まって舞台には入りません。おワキはそのまま脇座の方まで出て、やがて「立ち戻り」になるときにワキツレは するすると舞台に入っておワキと立ち並び、囃子方のキッカケの手を聞いて一同が向き合っておられるようです。一方 福王流のおワキの場合はおワキが舞台に入る際にワキツレも舞台に入り立ち並び、おワキだけが「立ち戻り」の型をして、それから囃子方の手を聞いて一同が向き合っておられるようです。

この二つの型、それほど大きな違いがあるようには見えないかもしれませんが、たとえば大小前に作物が出される能では囃子方から舞台がよく見渡せない場合もよくあって、上記の下掛り宝生流の型の方であれば、ワキツレが舞台に入るところを見ればワキが「立ち戻り」の型をしているのがわかりますので、お囃子方としてはキッカケの手を打ちやすい、という事はあるでしょうね。

ところがシテ方ではこの「立ち戻り」は ほとんど行われません。なぜなのでしょうね。型附では『夜討曽我』に「立ち戻りをしてもよい」というように書いてあったように思いますが。。いずれにしても『歌占』では、この「次第」で能の冒頭に登場する役は観世流の場合ツレが勤める事になっていますので、「立ち戻り」の型はありません。

でこの役。。役名では「男」とあるだけの無名の人物ですが、役割としては どう考えてもワキ方が勤める種類のお役だと思います。子方を伴って登場し、しかもその子方とは関係が極めて薄い役。やがて子方の肉親がシテとして現れて、最後には親子の邂逅を果たす。。狂女物には共通したストーリー設定が『歌占』には通底していて、そうであるならばこの役はワキである事が能の通例なのです。

『歌占』。。運命が描かれる能(その3)

2008-05-11 00:52:45 | 能楽
まだ「段」の話は続く。

前回、段と呼ばれる小段の一番最初のものを「掛かり」と呼んで、それは演出上では(登場音楽の場合で考えれば)プロローグに当たる部分であって、全体の「段数」を数える上ではノーカウント、というお話をしました。ところが例外もいくつもあるんです。

たとえば舞の段数。特殊な舞を除いて舞は通常「三段」か「五段」で舞われますが、この数え方がどうも規則性がない。。上掛りシテ方(観世・宝生流)では「舞三段」といえば「掛かり」「初段」「二段」「三段」の四段構成で、うん、たしかに「掛かり」はノーカウントのようです。ところが「舞五段」で演じられる場合には、単純に考えれば二つの段が増やされるはずなのに、実際には一つの段。。「四段」が増えるに過ぎません。こうなると“「舞五段」の場合には”とくに「掛かり」もカウントして「五段」になる、と考えるほかなく、そうでなかったら、日本では昔から奇数を尊ぶ習慣からか、あるいは「四」を忌むためか、“便宜上”「四段」と呼ぶのを避けて「五段」と言い習わしているのに過ぎなくなってしまう。。

そう言えば観世流の『高砂』の小書「八段之舞」は、「掛かり」~「七段」までの八段構成だから「舞五段」と同じ数え方なのに、『融』の小書「十三段之舞」では、全部で十四段の構成で、これまた考え方に違いがあります。

まだある。『道成寺』の「乱拍子」は、どうやら同じ寸法で演じられても流儀によって段数の数え方に相違があるそうです。ぬえが習った師家での数え方と、ほかのシテ方や囃子方のお流儀での数え方が違う。。ですから「乱拍子」では楽屋で「○段」という呼び方はしないのです。「頭(かしら)いくつで中之段にして頂いて。。」なんて言ったりしていますね。混乱を避けるために仕方がないのだと思いますが、どうもあまり能の小段の数え方は統一されていない、とも言えると思います。

。。ともあれ『歌占』では囃子方により「次第」が演奏されると、「一段」か、あるいは最近はもっと省略されて「段ナシ」という方法で演奏されて、やがて子方を先立ててツレが登場します。

子方は稚児着に稚児袴という出で立ちで、これは男の子である事を表しています。続いて登場するツレは「素袍男」と呼ばれる出で立ちで、無地熨斗目を着付にして、その上に素袍上下を着、小さ刀を差し、鎮扇を持って出ます。そういえば子方は素袍よりも略式の出で立ちだと思う(上着を着ていない裳着胴の姿だから)のに、なぜか扇だけは中啓を持っていますね。鎮扇よりも中啓の方がやはり本格だと思うのに、二人の装束とのバランスとしては逆になりますね。これも不思議なことです。

やがて二人は舞台に入り、子方は脇座の前、ツレは角のあたりに止まって、囃子の合図の手を聞いて向き合い、ツレが一人で「次第」と呼ばれる「七・五・七・五・七・四または五」の字数が標準となる定型の文句を謡います。

ツレ「雪三越路の白山は。雪三越路の白山は。夏蔭いづくなるらん。

これに引き続いて地謡が同じ文句(ただし重複する文句の冒頭の二句は繰り返さず一度だけ謡う)を低吟する「地取」と呼ばれる部分を謡い、その間に子方とツレは正面に向き直り、ツレが「名宣リ」を謡います。

『歌占』。。運命が描かれる能(その2)

2008-05-09 20:56:24 | 能楽
それでは例によって鑑賞の参考までに、能『歌占』の詞章と型を記してゆきたいと思います。この能は珍しくワキのない能で(観世流の場合、ですが)、観世流の謡本と比べて実演上の詞章の異動というものがありません。でも、そもそもなぜワキが登場しないのでしょうね。

囃子方と地謡が座着くと、すぐに囃子方は床几に掛けて「次第」の囃子が演奏されます。「次第」は通常の上演では「一段」と呼ばれる二段構成で演奏される登場音楽です。二段構成なのになぜ「一段」と呼ぶかというと。。「次第」に限らず能の器楽奏~登場音楽だけでなく舞の演奏も~はいくつかの「段」と呼ばれる小段の積み重ねによって構成されていて、その最初の小段を「掛かり」と呼んで、なんというか、構成の小段数としてはノーカウントにしているのです。その「掛かり」の次に来る小段から「初段」「二段」「三段」。。と数えてゆく~~すなわち構成小段の数に「掛かり」の小段を一つを足した総数が、楽屋言葉としての「一段」とか「二段」という実演上の呼び方になるのです。「掛かり」は「プロローグ」のような存在と考えたら分かりやすいでしょうか。実際のところ、「次第」のような登場音楽では「一段」で演奏される場合は「掛かり」では登場するべき役は姿を見せません。「初段」となってはじめて幕を揚げて橋掛りに登場するのです(正確には、初段となって、囃子方が打つ ある「キッカケ」を聞いて幕揚げとなります。ですから初段となってすぐに役者が姿を見せるわけではありません)。

「次第」の小段構成の説明について、じつはこれでは不足でして、上記の通りこの「一段」と呼ばれる演奏形式は「通常の演奏の場合」なのです。現代ではすでにこの「通常の演奏」というものが「本式の演奏」からは略式なんですよね。実際には「次第」は「二段」構成で演奏されるのが本式で、すなわち「掛かり」「初段」「二段」という三段構成で演奏されるのです。この場合は「掛かり」「初段」がプロローグであって役者は登場せず、もっぱら囃子方によってその役者が登場する場面の雰囲気を設定する小段だと言うことができるでしょう。そのあとの「二段目」ではじめて役者が登場するのが本式の演奏法で。ですから「一段」構成で演奏される場合は「初段目」を省略して演奏し、プロローグとしての「掛かり」、役者が実際に登場する最も大事な小段としての「二段目」を演奏しているのです。

「なんだお客さんの前で省略して演奏するなんて」と思われる向きもあるかも知れませんが、事態はそう簡単ではありません。たとえば「次第」の場合、正式の「二段」で演奏されていたのはずっと以前、おそらく近代のはじめまでで、その後はずっと「一段」で演奏されるのが普通なのです。これは実演上の効果、という面が近代の役者として再検討されてきた結果であろうと思います。

実際のところ、「次第」を正式の「二段」で演奏したならば、役者の登場までには数分以上の時間が掛かることになります。「プロローグ」としての「掛かり」「初段」が、役者が登場するまでにお客さまの期待感を高めるためのある種の装置であるとしたならば、これは少々長すぎるのではないでしょうか。高まった期待を裏切る登場の仕方は、かえって役者に対する注目を削ぐ結果になる。。

もちろん往古から演じ続けられ、演奏され続けてきた能の登場音楽や舞の小段構成というものが観客本位で作られているものであるはずがなく、我が国の芸能の成り立ちから考えれば、おそらく神道や仏説に基づいた数の理論に裏打ちされたものである事は間違いないでしょう。役者も自身が神仏に扮することもある特殊な立場の存在という自意識も自負もあったはずで、とすれば近代に入って理論的な考察なく省略が行われるようになった経緯としてはおそらく、目に見えない神仏に対する畏敬が、薄らいだ、とは言いませんが、それと同等にお客様の目を意識する近代人の自我の萌芽なのかもしれません。

『歌占』。。運命が描かれる能(その1)

2008-05-07 23:05:27 | 能楽
もう来月に迫りましたが、ぬえは師家の主宰会・梅若研能会6月公演にて能『歌占』を勤めさせて頂きます。小品で、殺伐としたお話で。。少なくとも色気はない曲で。。そして地謡としてはクセを謡うのが難しい。。正直に言えばこの曲にはそんな程度の印象しか ぬえは持っていませんでした。地謡としては何度となく謡っておりますが、あとはツレを1度勤めたくらいなもので、曲としてなじみがあまり深い曲とも言えなかったのですが。。今回はこの曲とはじめてキチンと向き合ってみて、発見もありましたし、なんというか能楽の歴史の中で数奇な運命を持った曲ということもあって、深い印象を持つことができました。

今回より例によって、上演曲『歌占』について ぬえなりの考察をしてゆきたいと考えております。どうぞしばらくよろしくお付き合いくださいまし~~ m(__)m

まずは当日の番組のご紹介です。

『梅若研能会6月公演』 平成20年6月19日(木)午後5時30分開演
            於・観世能楽堂(東京・渋谷)

   仕舞    弓八幡  加藤 眞悟
          夕 顔  青木 一郎

能   歌 占うたうら   シテ(渡會何某) ぬ え
           子方(幸菊丸) チビぬえ
           ツレ(男)    中村 政裕
   笛  小野寺竜一、小鼓 鵜澤洋太郎、大鼓 高野 彰
   後見 中村 裕ほか、地謡 梅若万三郎ほか

  ~~~ 休憩 十分 ~~~

狂言  二九十八    シテ(何某) 三宅 右矩 アド(女) 三宅 右近

能   項 羽こうう   前シテ(尉)/後シテ(項羽)長谷川晴彦
           ツレ(虞氏) 梅若 泰志
           ワキ(草刈男)高井 松男
           アイ(渡守) 三宅 近成
   笛  寺井義明、小鼓 観世新九郎、大鼓 柿原光博、太鼓 大川典良
   後見 梅若万佐晴ほか、地謡 梅若 紀長ほか
                       (終演予定 午後8時15分頃)
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◆入場料◆ 指定席6,500円/自由席5,000円/学生2,500円/学生団体1,800円
◆ お申込・お問合◆ ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

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平日の夕方、それも早めの時刻で大変心苦しいですが。。どうぞお誘い合わせのうえご来場賜りますようお願い申し上げます~~

伊豆の国市で子どもたちへの稽古。いろいろありました(その4)

2008-05-05 01:34:58 | 能楽
子ども創作能『江間の小四郎』で小四郎~のちの北条義時の役を今年勤めてくれる千早ちゃんのお母さんから、親子ですでに義時の墓に詣でて挨拶を済ませてきたことを聞いた ぬえでしたが、このお母さんとお話しているうちに、どちらともなくアイデアがわき上がり始めました。せっかく新作しているご当地ソングの子ども能です。それならば、いっそ一度は子どもたちみんなで義時のお墓に参拝したらどうだろうか。。このお母さんがまたアイデア豊富な方で、午前中からお寺に集まって、参拝のあとはみんなでワイワイお弁当を食べて、それからいつもの稽古場に移動して薪能の稽古ができたら、なあんて。そりゃ楽しいね! 子ども創作能が、自分たちの地元のお話をもとにして作られている事を実感できるし、郷土史の勉強にもなり、郷土愛をはぐくむ基にもなるし。

そんなこんなで ぬえもこのアイデアを実行委員会に諮ってみたところ、実行委員会としても歓迎してくださったようです。あくまで希望者のみ参加、現地集合、ぐらいに、割とゆるい感じに取り決めておけば、ご父兄にも実行委員会にも負担にならずに催すことができるでしょう。このあたりまで決まった段階で北條寺さんに連絡を取り、ご協力を頂けるか打診してみました。こちらもご住職さまは歓迎して下さって、先日伊豆の国市にお稽古に行った帰りに、ついに北條寺さんにお伺いして相談するところまで漕ぎつけたのでした。

この頃には ぬえのアイデアももう一つ先に進んでいて、せっかく薪能に出演する子どもたちが北條寺さんに集まるのならば、ご墓前で子ども創作能『江間の小四郎』の一節を子どもたちの手で謡って手向けたらどうかなあ、なんて。それから参拝のあとに、厚かましいかもしれないけれど、できればお寺の寺務所を拝借して子どもたちと一緒にお弁当を食べて。その時にご住職から北條寺と義時のお墓との関係について子どもたちにお話をして頂ければ。。うん、これは面白いことになりそうだ。

北條寺のご住職・渡邉文浩さまに実際にお会いしてみると、この計画にとっても喜んでくださって、墓前への参拝も、昼食のために寺務所を貸して頂くことも、さらにその時にお寺のいわれをお話して頂くことも、すべて快く引き受けてくださいました。それどころか、それならば、というわけで、子どもたちが集まるその時に安千代(大蛇に命を奪われた小四郎の嫡子)の供養のために法要を営んであげよう、と仰ってくださいました。すごい! すごい! あ。。でも、実行委員会にももう余分の予算はありませんし、子どもたちが大挙してお寺にお邪魔するのについてさえ、お寺にはお礼といっても子どもたちの元気な「ありがとうございました!」って言葉ぐらいしかないんですが。。(←これも考えてみれば ぬえ、強引かしら。。) でもご住職さまは地元・伊豆長岡で教育委員会にも名を連ねておられる方で、子どもたちのためなら喜んで協力してあげる、というありがたいお言葉を頂きました。

う~~ん、ちょっとした思いつきがだんだん大きな形になって、しかも極めて実現性が高くなってきた! ご住職のスケジュールのご都合も考えまして、7月上旬に実施できるかも、です。

薪能に参加する子どもたちやそのご父兄もこのブログを読んでおられるかもしれませんが、これから北條寺にお参りする計画を細かいところまで作り上げて、そうですね。。5月末か6月はじめ頃までに ぬえが皆様にご参加をお誘いするプリントを作り、子どもたちに配るようにするつもりです。もしももっとアイデアがあったら、ぜひ ぬえまでお知らせください~~

この計画はとっても面白いと思うので、せっかくだから市報とかローカル紙が取材してくれないかな~。o(^-^)o

伊豆の国市で子どもたちへの稽古。いろいろありました(その3)

2008-05-04 01:53:38 | 能楽
今日は横浜・本牧にある「三渓園」で結婚式のお手伝いをして参りました。今回はブライダル会社からの依頼だったもので、以前の舞さんや みささんの結婚式のように新郎新婦と一緒に作り上げる感じはなかったのですが、それでも みささんの時に始めた新郎新婦の入場の先導のお役は以前にも増してうまく出来たのではないかと思います。今回は特にご希望でお色直しの退場の先導役も勤めさせて頂きました。ちょっと新しい体験だったわけですが、ブライダル会社からの依頼のお仕事であっても割と自由にやらせて頂けたので、この点は本当に感謝しておりますし、またご親族やご列席のみなさまにも喜んで頂けたようで、ひと安心です。

ぬえ、三渓園ははじめて訪れましたが、ここは良いですね! 明治~大正期の豪商(と同時に近代日本画家の大パトロン)の邸宅で、いくつかその時代に建てられた建築もありながら、大部分はその財力によって各地の名建築を広大な敷地の中に移築したものです。それがまた、いかにも数寄者好みの建物を選んでいて。たとえば紀州の徳川頼宣の別荘だった臨春閣。池に映える姿が雁行の桂離宮に比されるそうですが、それよりも二階のテラスの瀟洒な感じが、これは西本願寺の飛雲閣にイメージが似ている気がする。要するに当時のテーマパークのような場所なのですが、寄せ集めの建築が林立する趣味の悪さとは、ギリギリのところで一線を画しているというか。高低の複雑な散策路を歩むと突然向こうに変わった軒が見えてくる。。ぬえは非常に感心しました。やっぱり日本の建築物はいいなあ、と思える庭園です。

また、この日は朝からあいにくの雨だったのですが、次第に降り止んできて。自分の出番を終えてから園内を散策に出たのですが、う~~んこれがまた。雨上がりが檜皮葺や茅葺きの建物と合うんですよねえ。。しかも季節は新緑。池のほとりの藤棚はちょうど盛り。臨春閣の玄関の前には、一輪だけ、大輪の白牡丹が咲き誇っていました。

閑話休題。。

さて伊豆のお話ですが、北條寺に実際にお伺いしてみると、寺伝でもやはり寺の建立は北条義時の手によるもので、大蛇に襲われて命を落とした嫡子・安千代の菩提を弔うために建立されたもの、とされていました。そして本尊として阿弥陀如来像を運慶に命じて作らせた(!!!)そうです。

さすがに ぬえも伊豆に9年も通っていると、この北條寺に伝・運慶とされる仏像があることだけは知っていました。北條寺の住職さまは快く本堂にご案内くださり、その像も拝見することができました。阿弥陀様としては割と厳しいお顔の仏さまで、ぬえもそう思うけれどもご住職も「運慶本人というより。。慶派の作でしょう」と仰っておられました。現在同寺のご本尊は南北朝期の観音菩薩像で、中国宋代の様式を備えた独特のもので、う~~ん。これは美しい。四国に八十八カ所巡りがあるように伊豆にも豆州八十八カ所霊場巡りの風習があり、また観音信仰による観音巡りも往時は盛んに行われたのだそうです。それにしても観音様がご本尊で、阿弥陀如来様が脇侍では阿弥陀様も居心地が悪かろう。やはりいつの世もハンサムなお方が主役を奪い取ってしまうのは致し方がないようで。

じつはこの北條寺、伺えば鎌倉の建長寺さんに連なるお寺なのだそうです。これは ぬえも知りませんでした。そう言われてみると北條寺の山号も巨徳山で、これは建長寺の山号である巨福山の流れである事をあらわしているのでしょう。という事は臨済宗のお寺なのですが、う~~む、そういえば建長寺もご本尊は巨大な地蔵菩薩立像でした。ぬえ、不勉強にしてよく知らないのですが、禅宗では菩薩さまがご本尊になる事が多いのかしら? 座禅三昧を旨とする宗派なのですから、あるいは完成形としての如来よりも、修行僧という自らの立場の先輩として菩薩さまに親近感をお持ちになる、というような事があるのでしょうか。

たまたま去年、縁あって建長寺さんで『隅田川』を勤めさせて頂く機会を得た ぬえ。そんな話にも花が咲きましたが、なんだか不思議な縁も感じた ぬえでした。

伊豆の国市で子どもたちへの稽古。いろいろありました(その2)

2008-05-01 02:23:16 | 能楽
悠さん、コメントありがとうございます。綸子ちゃんへの声援と受け止めました。実際、綸子ちゃんは それでも毎回笑顔で稽古場に登場するんですよ。彼女には「代役はいないから、引き受けたら後戻りはできないよ」と言ってありますが、ホントは泣きじゃくって「もうヤダ!辞める」と言われた場合の代替案も考えてはいました。もうそういう心配は必要ないようです。

さて今回は「狩野川薪能」の演目の中で全国に誇れる特徴的な演目「子ども創作能」について。

もう9年目になる「狩野川薪能」ですが、薪能をこの土地で実現にまでこぎつけた大倉正之助さんの希望で第1回目から「子ども創作能」を上演しています。地元の民話を題材にして、地謡も含めて地元の小中学生だけで作り上げられる新作の「創作能」。それも9年も上演が続いているのはこの「狩野川薪能」だけでしょう。

この9年の間には町村合併などいろいろな事がありましたが薪能はしっかり存続しています。今回上演する『江間の小四郎』は「子ども創作能」としては2作目、少しずつ洗練を加えながらこの曲も上演4年目を迎えました。

あらすじは:北条義時(鎌倉幕府2代目の執権)がまだ江間の小四郎と名乗って伊豆長岡の江間に住んでいた頃、その子安千代は千葉寺に通って学問に勤しんでいた。ところがある日、通学のために江間の大池のほとりを過ぎようとすると、池の中より大蛇が現れ、従者の奮戦むなしく安千代は命を奪われる。報告を受けた父・小四郎は急ぎ大池に駆けつける。大蛇は鉄を嫌うという教えにより小四郎の家臣の武士が池に兵具を投げ入れると、はたして大蛇が現れる。武士は大蛇と格闘するが、八幡大菩薩に祈念を籠めた小四郎が矢を放つと、その矢は大蛇の左目に突き立ち、たちまち明王の火焔となって大蛇の身を焼いた。大蛇は黒雲に乗って逃げようとするが果たせず、ついに蛇ヶ橋のたもとから川面に飛び込んで姿を消した。小四郎は我が子の菩提を弔い北條寺を建立し、その弓矢の高名は後の世まで語り継がれたのだった。

。。というものです。ぬえのほか何人かの能楽師が協力して作詞・作曲をしました。このお話のほとんどの部分は、伊豆の民話集のような刊行されている書物から題材を得たのですが、ぬえは4年前、この曲を作詞するにあたって、長岡の教育委員の方に実際に現地を案内して頂き、その折に書物には記されていない、地元に伝わる この物語のエピソードなども伺う事ができました。その話のいくつかは、この創作能にも盛り込んであります。

さて、この物語の中にあらわれる「北條寺」。。大蛇との格闘の後に小四郎が我が子の菩提を弔うために建立したお寺ですが、じつは当地に現存しています。そしてこのお寺には、この物語の主人公たる北条義時の墓もあるのです。

ぬえはこの物語を作詞・作曲したとき、やはり北條寺さんにもお参りしてご挨拶をしておかねば、とは思ったのですが なかなか伊豆での稽古は時間に追われてして果たせず、ようやく『江間の小四郎』初演の直前に、時間を見つけて一人で北條寺を訪れました。ところが残念ながらお寺はお留守で。。しかたなく義時の墓参だけをしました。境内にある小高い小山のうえに義時のお墓はあります。この時は新作の報告を墓前に報告申し上げ、東京に帰りました。

それからの年も なかなか北條寺さんへ出向く機会に恵まれず。。でも、毎年、子ども創作能に出演する子どもたち、わけても小四郎や安千代の役の子には、地元に伝わる民話の登場人物を演じるのですから、公演前に必ずこの北條寺さんの義時のお墓に詣でなさい、とは申しております。遠い昔の事とはいえ、実在した人物の役、しかも当地に眠る人の役を演じるのですからやはり挨拶だけは欠かさないでいてほしい、と。 で、毎年子どもたちからは「は~~い」という元気よい返事だけは聞いていますが、本当にお墓参りに行ったのかな~~??

ところが今年は、もう稽古も始まって早々のこの時期に、すでに今年の小四郎役の千早ちゃんのお母さんから「北條寺の義時のお墓に親子でご挨拶に行ってきました」という報告が ぬえに入りました。ほおっ! そこから ぬえの考えも広がって、またこのお母さんのアイデアがとっても面白くて。今年は例年になく創作能に出演者する小中学生に、郷土史を知る勉強になり、郷土愛を育てる企画を立ち上げることに致しました。

その実施のために、今回の稽古の終了後に実行委員の方と一緒に北條寺さんへ伺い、今さらながらのご挨拶がてら、打合せに行って参りました。