見習い百姓のつぶやき

宮仕えも一段落、半農半Ⅹを本格化。農的暮らしとさまざまなⅩを悩んで、楽しんで一歩づつ。

天孫降臨神話と人麿の挽歌

2024-10-15 16:10:42 | 古代のこと

先日借りてきた梅原猛著「水底の歌~柿本人麿論 上・下」、上巻を読み終え下巻へ。
大の苦手だった古典、であるのに、鎌倉、室町、江戸、そして近世の文献を渉猟、いちいち引いてあるし、活字もことのほか小さいので目は白黒、四苦八苦(><
上下で650頁を超える大作、後何日かかるやら、、、

と思いながら読み進めていて、そういうことだった!?目から鱗。
アマテラスは持統天皇を擬して創造されたと読んで知っているつもりでしたが、天孫降臨神話の歴史と裏事情がこれほど理路を持って語られて、なるほど~~!!
その始まりは人麿の草壁皇子への下記の挽歌。


天地(あめつち)の 初(はじめ)の時 ひさかたの 天(あま)の河原(かはら)に 八百万(やほよろづ) 千万神(ちよろづがみ)の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して 神分(かむあが)ち 分ちし時に 天照(あまて)らす 日女(ひるめ)の尊(みこと) 天(あめ)をば 知らしめすと 葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天地の 寄り合ひの極(きはみ) 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲(ぐも)の 八重かき別けて 神下(かむくだ)し 座せまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥(とぶとり)の 浄(きよみ)の宮に 神ながら 太敷(ふとし)きまして 天皇(すめろぎ)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神あがり あがり座しぬ

わご王(おほきみ) 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花(はるはな)の 貴(たふと)からむと 望月(もちづき)の 満(たたは)しけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船(おほふね)の 思ひ憑(たの)みて 天つ水 仰(あふ)ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁(つれ)もなき 真弓の岡に宮柱 太敷き座し 御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言(みこと)問はさぬ 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬる そこゆゑに 皇子の宮人 行方知らずも

柿本人麿 巻二167番歌

天孫降臨神話が公式文書(日の目を見たかどうかは別)に初めて書かれた古事記が、元明天皇に献上されたのは712年です。
草壁皇子の薨去は689年ですから、献上の20年以上前に人麿が挽歌に詠んでいる。
この時、天照らす日女の尊が葦原の瑞穂の国に降臨させるはずだったのは草壁の皇子で、降臨は八百万、千万神の合議によって決められたことになっている。
ただ、降臨する予定の皇子が若くして
薨去し、石門を開いて神あがりしてしまった。

人望篤い大津皇子は持統女帝に粛正されたのですが、殿上の空気が厳しく、
天皇即位を躊躇っていた草壁皇子が若くして薨去したためシナリオが変わり、、、
持統女帝は直系の軽皇子(持統女帝の孫)の
天皇即位を願い、繋役として空位となっていた天皇に即位したんですね。
その後、異例とも言える15歳で
軽皇子は文武天皇として即位したけれど、24歳で薨去し、皇子の聖武天皇即位迄、文武の母の元明天皇、姉の元正天皇が即位する。


その正当化のため、天孫降臨神話の降臨の主体が皇子・オシホミミノミコトではなく皇孫・ニニギノミコトに、アマテラスが一度隠れた天岩戸から出てきたと。
なるほどね、アマテラスは持統女帝、天岩戸から出てきたのは元明天皇、皇孫の降臨を命じるのが持統女帝と高木神の不比等ってことになるんだ!
そして、文武天皇の妃は藤原不比等の長女の宮子、聖武天皇は孫になるわけだ!だから、皇孫降臨を命じる高木神は不比等に擬されるわけで、天孫降臨神話でめでたく正当化されるということなんですね。


そうそう、肝心な話、古事記の作者は稗田阿礼となっていますが、あれっ?古事記献上の20年以上前、天孫降臨神話の原型が草壁皇子の挽歌にある!
人麿と稗田阿礼って、、、?

余談ですが、反乱の罪を着せられて自殺した長屋王にも、不比等の次女長俄子が嫁いでいる(@@
保険が掛けてある、さすが遠謀深慮の不比等ですね。

コメント
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