さあ~てと 帯しめましょか。

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帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

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仏教の話 ☆ 4≪伝来≫

2009年10月24日 19時18分00秒 | 神・仏教・民俗の話

「仏教も儒教もともに外来思想です。

だが、わたしたちがともすればそのことを忘れてしまうほど、

仏教も儒教もすっかり日本化されてしまい、ある意味では、

日本の伝統思想といってもよいほどになってしまいました。

じつは、この日本化されたということが問題です。」

と 『仏教と儒教』の著者、ひろさちや氏が「あとがき」に

書いておられます。 

かつての日本は、仏教を儒教化し、儒教を仏教化することに

よって両者を日本化し、それを社会的規範としてきたようです。

 

 

  儒教の伝来】

 

「日本書紀」・・・応神天皇の十五年に百済王の使者として

           阿直岐(あちき)が良馬二匹を貢進して来た。

          応神天皇の太子の菟道稚郎子(うじのわさいらつこ)

            が、阿直岐を師として経典(儒教書?)を学んだ。

          翌年、阿直岐推薦の王仁(わに)が日本に来た。

「古事記」・・・・百済から阿知吉師(あちきし)が来て、

         「賢(さか)しき人」を派遣してほしいとの要請に

          応え、和邇吉師(わにきし)が『論語』十巻と

          『千字文』一巻、を持って日本に来た。

 

 日本書記が撰述されたころ(720年)には、『論語』が読まれて

いただろうと推測され、六世紀にはかなり伝わっていたとされて

います。

 

 

 

   【仏教の伝来】

      (↑「邪馬台国の会、第248回、欽明天皇と仏教伝来」リンク)
        いろいろな説が載ってます。

 

☆『日本書記』欽明天皇十三年冬十月説(552年) 

     百済の聖明王が使者を送ってきて、

     《釈迦仏の金銅像一軀(かみのみかたひとはしら)・

     幡蓋若干(はたきぬがさそこら)・経論若干の巻》を

     献上の事実をもって公伝とする。

☆『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺縁起』(538年)説もある。

 

最初、これらのものが入ってきたとき、天皇は群臣に

「仏教」を受容すべきかどうかを諮ったようです。

 

蘇我稲目(そがのいなめ)・・・崇仏を主張

  諸外国でも信奉してるから、日本だけ拒めない。

物部尾興(もののべのおこし)・・・廃仏を主張
中臣鎌子(なかとみのかまこ)・・・廃仏を主張

  日本には日本の神がおられるから必要ない。

 

天皇は蘇我稲目に仏像などを授けて、

「試みに礼(うやま)ひ拝(おが)ましむべし」と採決しました。

これは、仏教を返品することによってその他の文物制度の

輸入障害が生じるところもあったのではないでしょうか。

だから、仏教の場合、すんなりと受容したようです。

 

ところが、儒教の場合、朝鮮には中国本来のあり方で伝わ

ったにも関わらず、日本に来た儒教はまったく別のものに

っていました。日本人は宗教的要素を除いて倫理・学問・

教養として、儒教を受容したのです。

中国の文物制度の輸入品の中に入っていたという感じです。

 

  『仏教と儒教』 ひろ さちや著:参照

 

 

私が最初に感じた「ブッダ」の話の違和感は、やはり日本人と

しての習俗に慣らされたものだったようです。

科学が進んだ現代社会における仏教は、

釈迦の悟り(如実知見)とはかけ離れてきているようです。

それに、仏教は先祖供養と密接な関係があると、

疑いもしなかった私の考えは意外なことに驚かされました。

それはまた、いづれ後々に書くとしましょう!

 

 

 

コメント (2)
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