「仏教も儒教もともに外来思想です。
だが、わたしたちがともすればそのことを忘れてしまうほど、
仏教も儒教もすっかり日本化されてしまい、ある意味では、
日本の伝統思想といってもよいほどになってしまいました。
じつは、この日本化されたということが問題です。」
と 『仏教と儒教』の著者、ひろさちや氏が「あとがき」に
書いておられます。
かつての日本は、仏教を儒教化し、儒教を仏教化することに
よって両者を日本化し、それを社会的規範としてきたようです。
【儒教の伝来】
「日本書紀」・・・応神天皇の十五年に百済王の使者として
阿直岐(あちき)が良馬二匹を貢進して来た。
応神天皇の太子の菟道稚郎子(うじのわさいらつこ)
が、阿直岐を師として経典(儒教書?)を学んだ。
翌年、阿直岐推薦の王仁(わに)が日本に来た。
「古事記」・・・・百済から阿知吉師(あちきし)が来て、
「賢(さか)しき人」を派遣してほしいとの要請に
応え、和邇吉師(わにきし)が『論語』十巻と
『千字文』一巻、を持って日本に来た。
日本書記が撰述されたころ(720年)には、『論語』が読まれて
いただろうと推測され、六世紀にはかなり伝わっていたとされて
います。
(↑「邪馬台国の会、第248回、欽明天皇と仏教伝来」リンク)
いろいろな説が載ってます。
☆『日本書記』欽明天皇十三年冬十月説(552年)
百済の聖明王が使者を送ってきて、
《釈迦仏の金銅像一軀(かみのみかたひとはしら)・
幡蓋若干(はたきぬがさそこら)・経論若干の巻》を
献上の事実をもって公伝とする。
☆『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺縁起』(538年)説もある。
最初、これらのものが入ってきたとき、天皇は群臣に
「仏教」を受容すべきかどうかを諮ったようです。
蘇我稲目(そがのいなめ)・・・崇仏を主張
諸外国でも信奉してるから、日本だけ拒めない。
物部尾興(もののべのおこし)・・・廃仏を主張
中臣鎌子(なかとみのかまこ)・・・廃仏を主張
日本には日本の神がおられるから必要ない。
天皇は蘇我稲目に仏像などを授けて、
「試みに礼(うやま)ひ拝(おが)ましむべし」と採決しました。
これは、仏教を返品することによってその他の文物制度の
輸入に障害が生じるところもあったのではないでしょうか。
だから、仏教の場合、すんなりと受容したようです。
ところが、儒教の場合、朝鮮には中国本来のあり方で伝わ
ったにも関わらず、日本に来た儒教はまったく別のものに
なっていました。日本人は宗教的要素を除いて倫理・学問・
教養として、儒教を受容したのです。
中国の文物制度の輸入品の中に入っていたという感じです。
『仏教と儒教』 ひろ さちや著:参照
私が最初に感じた「ブッダ」の話の違和感は、やはり日本人と
しての習俗に慣らされたものだったようです。
科学が進んだ現代社会における仏教は、
釈迦の悟り(如実知見)とはかけ離れてきているようです。
それに、仏教は先祖供養と密接な関係があると、
疑いもしなかった私の考えは意外なことに驚かされました。
それはまた、いづれ後々に書くとしましょう!