さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
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帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

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仏教の話 ☆ 6≪慈悲&仁≫

2009年10月30日 21時53分00秒 | 神・仏教・民俗の話

 仏教の根本は「慈悲」

 慈 = 友愛の意 (サンスクリット語でマイトリー)

     「同朋に利益と安楽をもたらそうと望むこと」(与楽)

 悲 = 呻き声の意 (サンスクリット語でカルナー)  

     「同朋から不利益と苦とを除去しようと欲すること」(抜苦)

 

『仏教は、利己的な心情を中心とした愛を“愛”と呼び、

利己心のない愛を“慈悲”と呼んで区別します。

それゆえ、「愛」を必ずしもよいとは見ません。

「愛」ではなく「慈悲」を強調するのが仏教の特色です。

 

 

 

 浄土真宗の改組の親鸞 (1173~1262)

      (『欺異抄』第4段より)

《聖道門と浄土門とでは、慈悲の考え方が違っている。

聖道門の慈悲は、対象を憐れみ、悲しみ保護してやろうと

するものだ。しかしながら、思いのままに他人を助けることは

まずはできそうにない。そこで、浄土門では、慈悲は、念仏を

して自分が急いで仏になり、その仏の大慈悲心でもって

自由自在に衆生を助けることをいう。

今この世にあって、どれだけ他人に同情し、相手を気の毒に

思っても、完全な意味で他者を助けることができないのだから、

そういう慈悲は所詮中途半端である。だとすれば、ただただ

念仏することだけが、徹底した大慈悲心である。》

 

自力の仏教(聖道門)では、修行によって慈悲の心を身につける

わけです。それに対して、他力の仏教(浄土門)では、凡夫には

真の意味での慈悲の心は持てないと諦めます。

その悲しみが、凡夫にとっての慈悲なのかもしれません。』

 

 

 

 儒教の根本は「仁」

① 人を愛すること

 孔子が弟子に「仁とは何か」と問われたときにそう応えています。

 しかし、自己中心的・束縛・従順を伴う愛ではいけないのです。

 また、どんな人をも差別することなく愛する(=兼愛)でもありません。

儒教では、自分の身近なところからはじめて、それを広げていく

のだと言います。

まず、我が家の老人を敬い、そしてその気持ちを延長して他の

老人も敬うのです。わが子を子供として愛し、そしてよその子を

も子供として愛するのです。

 

 

② 「恕(じょ)」 思い遣り

 《子曰く、「己れの欲せざるところは人に施すこと勿れ。…」》(顔淵22)

 =自分がしてほしくないことを人にするな(否定的表現)

 《子曰く、「それ仁者は、己れ立たんと欲して人を立て、己れ

 達せんと欲して人を達す。…」》(雍也30)

 =自分にとって望ましいことは他人にもそうしてやれ(肯定的表現)

 両者は同じことを言っており、これが、「恕」であり「仁」であります。

 

このようにして「愛すること」のうちに相手に対する「思い遣り」

を加えることによって、自分と相手が対等の関係に立つこと

ができます。その対等に為ったときに、発揮されるのが「仁」です。

 

孔子は「克己復礼」によってそれは可能になると言っています。

自分に打ち克って礼に返るのが仁を行う方法である。そのこと

をただ1日だけでも実践すれば世界中が「仁」に同化するだろう。

仁を行うことは自分自身によるものであり、他人に関係ある

ことではない。克己というのは、自分の欲望を抑えることです。

その意味では、「仁」とは「共生」の思想だ、と考えてもよいでしょう。

最後に、この「克己復礼」によって「仁」は「愛」とは違ったもの

となります。いわば、一段と高められた「愛」になるのです。

 

《子曰く、「ただ仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を憎む」》 (里仁3)

仁によって、人は本当に人を愛し、人を憎むことができるのです。

愛憎を超越した高次元の愛が「仁」です。

 

人間を無差別に愛するのが「仁」ではなく、

本当に愛すべき人、愛してよい人を愛するのです。

そして、憎むべき人は憎む。

それが、儒教の「愛」=「仁」だそうです。

 

  『仏教と儒教』 ひろ さちや著:より

 

 

儒教が説く道は、「個別的状況倫理」です。

具体的な人間関係において道徳を説くところに、

儒教の特色があると言えます、

つまりは、マイホーム主義的だと言えそうです。

昔はどこの大人でもそばで見かけた子供が悪いことしていたら、

ちゃんと叱ってあげたり、よいことをしたらほめていたものです。

自分の子供のように、同じように可愛がって接していたものです。

こういうところも、儒教の影響だと言えそうです。

 

しかし、日本における儒教の捕らえ方にも、家庭的な面が無視

されてしまい、社会生活を営む上で、社会の秩序維持の方が

重視された傾向もあるようです。

それは真の儒教精神を歪めたものだと著者はいっています。

 

 


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