仏教の根本は「慈悲」
慈 = 友愛の意 (サンスクリット語でマイトリー)
「同朋に利益と安楽をもたらそうと望むこと」(与楽)
悲 = 呻き声の意 (サンスクリット語でカルナー)
「同朋から不利益と苦とを除去しようと欲すること」(抜苦)
『仏教は、利己的な心情を中心とした愛を“愛”と呼び、
利己心のない愛を“慈悲”と呼んで区別します。
それゆえ、「愛」を必ずしもよいとは見ません。
「愛」ではなく「慈悲」を強調するのが仏教の特色です。
浄土真宗の改組の親鸞 (1173~1262)
(『欺異抄』第4段より)
《聖道門と浄土門とでは、慈悲の考え方が違っている。
聖道門の慈悲は、対象を憐れみ、悲しみ保護してやろうと
するものだ。しかしながら、思いのままに他人を助けることは
まずはできそうにない。そこで、浄土門では、慈悲は、念仏を
して自分が急いで仏になり、その仏の大慈悲心でもって
自由自在に衆生を助けることをいう。
今この世にあって、どれだけ他人に同情し、相手を気の毒に
思っても、完全な意味で他者を助けることができないのだから、
そういう慈悲は所詮中途半端である。だとすれば、ただただ
念仏することだけが、徹底した大慈悲心である。》
自力の仏教(聖道門)では、修行によって慈悲の心を身につける
わけです。それに対して、他力の仏教(浄土門)では、凡夫には
真の意味での慈悲の心は持てないと諦めます。
その悲しみが、凡夫にとっての慈悲なのかもしれません。』
儒教の根本は「仁」
① 人を愛すること
孔子が弟子に「仁とは何か」と問われたときにそう応えています。
しかし、自己中心的・束縛・従順を伴う愛ではいけないのです。
また、どんな人をも差別することなく愛する(=兼愛)でもありません。
儒教では、自分の身近なところからはじめて、それを広げていく
のだと言います。
まず、我が家の老人を敬い、そしてその気持ちを延長して他の
老人も敬うのです。わが子を子供として愛し、そしてよその子を
も子供として愛するのです。
② 「恕(じょ)」 思い遣り
《子曰く、「己れの欲せざるところは人に施すこと勿れ。…」》(顔淵22)
=自分がしてほしくないことを人にするな(否定的表現)
《子曰く、「それ仁者は、己れ立たんと欲して人を立て、己れ
達せんと欲して人を達す。…」》(雍也30)
=自分にとって望ましいことは他人にもそうしてやれ(肯定的表現)
両者は同じことを言っており、これが、「恕」であり「仁」であります。
このようにして「愛すること」のうちに相手に対する「思い遣り」
を加えることによって、自分と相手が対等の関係に立つこと
ができます。その対等に為ったときに、発揮されるのが「仁」です。
孔子は「克己復礼」によってそれは可能になると言っています。
自分に打ち克って礼に返るのが仁を行う方法である。そのこと
をただ1日だけでも実践すれば世界中が「仁」に同化するだろう。
仁を行うことは自分自身によるものであり、他人に関係ある
ことではない。克己というのは、自分の欲望を抑えることです。
その意味では、「仁」とは「共生」の思想だ、と考えてもよいでしょう。
最後に、この「克己復礼」によって「仁」は「愛」とは違ったもの
となります。いわば、一段と高められた「愛」になるのです。
《子曰く、「ただ仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を憎む」》 (里仁3)
仁によって、人は本当に人を愛し、人を憎むことができるのです。
愛憎を超越した高次元の愛が「仁」です。
人間を無差別に愛するのが「仁」ではなく、
本当に愛すべき人、愛してよい人を愛するのです。
そして、憎むべき人は憎む。
それが、儒教の「愛」=「仁」だそうです。
『仏教と儒教』 ひろ さちや著:より
儒教が説く道は、「個別的状況倫理」です。
具体的な人間関係において道徳を説くところに、
儒教の特色があると言えます、
つまりは、マイホーム主義的だと言えそうです。
昔はどこの大人でもそばで見かけた子供が悪いことしていたら、
ちゃんと叱ってあげたり、よいことをしたらほめていたものです。
自分の子供のように、同じように可愛がって接していたものです。
こういうところも、儒教の影響だと言えそうです。
しかし、日本における儒教の捕らえ方にも、家庭的な面が無視
されてしまい、社会生活を営む上で、社会の秩序維持の方が
重視された傾向もあるようです。
それは真の儒教精神を歪めたものだと著者はいっています。