最近……でもないか、
男と女の問題はいつの時代もあるか…
ふと、思い出してしまいました。
ーーー もうずいぶん前の話。
遠い昔、私が二十歳の頃、
親友のことでその彼氏(F)から相談を受けたことがあります。
私にも彼ができて恋人らしくなっていたかな。(今のダーリンですよん♪)
そのころの一番の親友でした。
高校からの付き合いでしたが、知らぬ間に幼馴染みよりも気が置け
る何でも話せる親友(K)となっていました。
Kちゃんは不思議な子で、相手が好きなのに手をつなぐのも嫌だと
いうんです。でも、F君とは同じ会社だったので、毎日逢ってたんです。
だから一番気が合う異性だというのは聞いていました。
そして、デートに誘われたのも受けたと言っていました。
1~2週間に1度はデートだということも聞いていました。
しかし半年以上たって、有る日突然、F君が私の前に現れたんですよ。
しかも、ちょうど私が父の入院(十二指腸潰瘍手術)で病院にいた時
でしたね。毎日、4時頃には行っていることを知っていたようでした。
それに、私の顔も知っていました。
私は話しか聞いていなかったので、びっくりしました。
何事かと思いましたよ。事故でもあったのかしら・・・なんてね。
聞けば、Kちゃんのことで私に相談したいというんです。
毎日私の話題が出ない日はないらしく、私に聞けば
『本当の気持ちを伝えているはずだろう、でなくとも自分の知りたい
こと、聞いてくれるかもしれない、また、私になら打ち明けるだろう。』
と思ったそうでした。
≪つづく≫
あ~~、楽しかった!
いえね、この間の日曜日、久々にお義母さんから
お誘いがかかって飲みに行ったんですよ~♪
今回、マーちゃんはアッシー君(運転手)
と言っても、近くの病院からの帰りだったんですけどね。
そう、またお義父さんが、入院したんです。
家での介護をお義母さんが頑張ってきてたんですけどね、
ヘルパーさんにリハビリに連れてってもらった日、胃から
出血したらしいです。少し前まで一緒にいた義母が、
「なんで気がつかんかったんだろう・・・」
って凄く気にしていました。
一瞬、危ないのかなと思いましたが、
なんとか出血が止まったみたいで、ひと安心しました。
最近建った病院(古い所からの移転)なので、大部屋なのにベッド
の周りが大きく、TVは超薄型、ちょっとしたタンス(引出しが多い)
まで置いてあって、各部屋に洗面所まで付いていました。
コールセンターは誰もが解るようになっていて、出入り
しやすいように半円形のカウンター式になっています。
よく考えて作ってあるなあって思います。
昔は病院っていえば似たりよったりのところばかりだったなあと、
古い病院しか知らない私など思いがちですが、最近は凄いですね。
相変わらず義母は、毎日朝から通ってるようです。
一日中いることもあるとか。
介護タクシーとかもあるんですね。
家族の車が出せない時は、それを使ってるらしいです。
≪介護タクシーを利用される方へ≫
URL http://www.kaigo-taxi.com/kaiin.htm
とまあ、そんなこんなで、義母の命の洗濯に
お付き合いさせていただきました。
しばしの心の休養日、
「楽しかったから、また、頑張れるわ!!」
義母の深い言葉です!
家族にとっては、複雑な心境です。
医療従事者向けN95マスク・防じんマスクDS2 フィットテストビデオ第1章
N95マスクフィットテストビデオ第2章
N95マスクフィットテストビデオ第3章
N95マスクフィットテストビデオ第4章
昨日見た夕方のTVニュースは、
鳥インフルエンザの抗体がダチョウの卵からできる というもの。
調べたらありました。
ダチョウの身体の中で人に極めて近い抗体を作り、卵黄の中に
産み出すという。それを精製する世界初の技術を開発した、
京都府立大生命環境科学研究科の塚本康浩教授は言います。
ダチョウは病気に強い。
荒れた土地でも飼育できる。
飼うのに手がかからない。
大量に作れる。
生産コストが低い。
最初は獣医をしてらしたようですが、
「この子(ペット)自慢のおばちゃんがしゃべるだけしゃべって帰るん
ですわ。」とおっしゃってました。そういうのに疲れたみたいですね。
猫や犬なら遊んでくれと甘えてくるが、ダチョウは群れを作るせいか、
あまり構わなくても良いのが教授は好きだといいます。
ダチョウに近づいて行って逃げるのを示しながら、
「こういう人間との関係が丁度好い。」って言ってましたね。
学生さんたちは、卵をくれるからよい先生だって言ってましたよ。
ダチョウを飼うのに困っていた牧場もあり、世界の4か所ほどで
飼っているらしいです。卵を買ってくれる先生が現れたいうことで、
経営を維持しているところもあったようです。
今はマスクを製品化したのを youtubu で公開していました。
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/special/pandemic/topics/200904/510471.html?ref=RL1
「N95マスク・防じんマスクDS2のフィットテストビデオ」
4章に分けて公開してるようです。
ノロウイルスや結核菌など、他の病原体などの感染予防用素材や
ダチョウ抗体を用いた腫瘍検査キットなどの商品開発も展開する
予定だそうです。
挨拶の語源を調べていると面白い。
普段何気なく使っている言葉にも、もとの使われ方を知ると、
なるほど~と思うもの、少し意味合いが変わっているもの、
語呂合わせ的に残ったもの等々面白い。
語源を知ると、この「こんにちは」もなぜ
「こんにちわ」でなく「こんにちは」なのかもわかるというもの。
ふつう、家族の間では「こんにちは」という挨拶はかわさない。
「こんばんは」という言葉もかわさないのである。また、
夫婦である間は言いかわさないが、夫婦としての心の絆がなくなり、
他人となれば、冷静にとりかわすことが出来るようになるという。
「おはよう」や「おやすみ」は大和ことばであるが、
「こんにちは」「こんばんは」には漢語が含まれている。
古くは官府の布告文、達文、法律文、上奉文などは勿論、公式
の書簡文はすべて漢文で書かれ、個人間の書簡にもやはり漢語
が多用されていた。室町時代の初めに作られた『庭訓往来』は
書簡の模範文集であるが、これはすべて漢字で書かれている
だけではなく、漢語が多く多用されている。
また、文書や書簡だけではなく、公式の場では口上や挨拶も、
漢語を多用することが見識とされていたのであり、明治時代にな
っても同様であった。現在でも格式ばって言うときには漢語を含む
言葉が使われることが多い。
おそらく「こんにちは」という漢語を含んだ挨拶ことばも、もとは
公式の場でのみ使われていた挨拶の冒頭のことばであったに
違いないだろうと書かれていた。
以下、引用
それでは、この「こんにちは」のあとにどのような言葉が続いていた
のであろうか。天明五年(1785)に書かれた『当世真々の川』に、
―――人に対する言葉をもみなまで言て居ず、今日はというて
御苦労と聞かせ、だんだんというて有難いと響かせ……―――
という一節がある。
これによると、このころ以前には、「今日は」のあとには
「御苦労」ということばが続き、「段々」のあとには「有難い」
ということばが続いていたことがわかる。
ちなみに、「段々」というのは「重ねて」というような意味であり、
山陰地方では現在でも「ありがとう」というところを、「だんだん」
とか「ただものだんだん」ということばが使われており、
松江駅前のロータリーには、「松江へようこそ・だんだん」
と書かれたアーチが掲げられている。
『当世真々の川』にいうとおり、「今日は」のあとに「御苦労」
という言葉が続いていたとすれば、何がご苦労なのかという
ことになるが、これは「御役ご苦労」であると考えるほかない。
「こんにちは」ということばは、
「今日は御役ご苦労にござる」というような武士の間の
公用の場での挨拶が、はじめにあったと思われるのである。
これが、一般庶民の間においても道普請などの公用の場での
ねぎらいの挨拶として用いられるようになり、
そのうちにこれが日常の出会いの挨拶ことばになって、
「今日は」以下が省略されてしまったものと考えられるのである。
『ごきげんよう 挨拶ことばの起源と変遷』
小林多計士:著(1991年)
Google Earth - 空から見た地球 (JA)
6月5日は「世界環境デー」です。
(6月は環境月間)
世界環境デー(World Environment Day =WED)
今年のテーマは、
「Kick the Habit! Towards a Low Carbon Economy!」
(悪い習慣をやめよう!)
環境省のHP↓↓↓
http://www.env.go.jp/guide/envdm/
先日、夕方のニュースでグリーンカラーって言葉を聞きました。
襟のカラーから、肉体労働を行う労働者をブルーカラー、
主に頭脳労働を行う労働者をホワイトカラー、
エコな労働者を指すグリーンカラー、と言われているそうです。
検索して解り易かったのが、こちら↓↓↓
http://www.nygreenfashion.com/html/news/20080408.html
ところで、今、仏像がブームになっているとのこと。
去年あたりから、仏像ガールなんていう19歳の女の子も話題になって
いるのを知ってましたが、あるお寺の住職さんのもとへ通ってくる
大学生さんたちが、今の世の中は不景気で将来が見通せないし、
不安がいっぱいで何を頼っていいのかわからない人が増えていると
言います。何かにすがりつきたいという思いで、自然と仏教というより
も仏像にたどり着いたようです。実際に仏像を見ていると、気分が
落ち着くし心が救われる気がするといいます。
そして毎年、今の時期には、座禅をくんだあと近くの田んぼへ田植え
をしに行くのだそうです。取材当日は雨の中頑張って昔ながらの
手で田植えをやっている姿をうつしてました。
お年寄りに農作業の伝授をしてもらったり、コミュニケーションをしたり、
そういうことが必要だと学生さんや若い人から聞くのは嬉しいですね。
テントを組まれた外での説法も熱心に聴く姿も映していました。
住職様の説法を聞くために、遠くからバスで来る人もいるとか・・・。
その学生さんたちが主体となって、農業の大切さを伝えていこうと
運動をしているとのことです。私たちの歳のひとからみれば、
古くさいことと思うようなことでも、今の学生さんたちにしてみれば、
経験したことない新しいことと思えるのでしょうね。
また、その新しい観点からみると新たな発想が湧き出てくるのかも
しれませんね。土地ごとにそれは違うものが出てきそうです。
そうなれば、また、新たな労働力に繋がり、海外にアウトソース
しにくい労働が生まれるってことかな。すると失業率の減少や経済
の復興、貧困層の削減に効果があるということになっていくかも。
なんにしても自給自足は本来の人間の姿でしょう。
自然と共に生き、自然を守り、人間が壊してきた自然を復元していく
ことこそが今の地球に求められていることなのだと思います。
日月紋
(じつげつもん)
日月紋は、太陽と月とを組み合わせた紋。
日月信仰は大昔からあり、現在も続いている。
日は昼を司どり、万物に光と生命を与える。
月は又、夜を司どり、影と死を与える。
天武天皇の御代、大宝元年(701年)正月一日に大極殿で
朝賀を受ける時、正面に烏形の幢、左右に日象幢、月象幢の
旗を立てた。のち、これが例になって、歴代の天子が
御即位のときには、必ずこの習慣に従うのである。
正面の烏はカラスを意味し、太陽を意味する。
それに対し、月は兎で表すこともある。
これは中国の「論衡」の説日篇に「日の中には三羽烏がおり、
月中に蟾蜍(ひきがえる)がいる」の語からきている。
事実、この金烏玉兎(きんうぎょくと)を日章旗の代わりに用いた例もある。
日月紋は、同じ大きさの円を二つ描いたので、
錦の御旗につける場合は、日を金に、月を銀にして区別した。
しかし、渡辺氏の日月紋は、色で区別しないで
円を二個描いたために判別がしがたい。
それゆえ後世、月を三日月にあらわしている。
明治元年(1867)、鷲尾隆聚に下賜した錦の御旗の
据紋は三日月になっている。
日月紋がはじめて文献に表れるのは、「太平記」で、同書の笠置陣
の条に「城中をきっと見上げると、日月を金銀で打った錦の御旗が
白日にひるがえり、光り輝いている」とある。足利時代には将軍義教
が朝廷から錦の御旗を賜ったが、日月紋についての記述はない。
戦国時代には、毛利・波多野の二人がご紋章を下賜されたことは
有名である。しかし、のち、朝廷では菊花紋を多く用いたので、
日月紋は特別な場合でない限り使わなくなった。
日月紋は、
皇室の紋章ゆえ本来、錦の御旗にのみつけられるべきものであったが、
皇室の勢いが衰えるとこれを潜用するものも出てきたし、
錦旗以外でも付けられた。「羽継原合戦記」には、
飛騨の国司が日光・月光の紋を用いたことが出ている。
明治維新になると、再び日月紋が歴史の表面にあらわれた。
鳥羽伏見の戦いでは、
日月紋が多く用いられ錦旗の中に据えられた。
「家紋総攬図鑑」より
籬架菊紋
(ませぎくもん)
特殊な構図の菊紋の一つに籬架菊紋がある。
「ませ」は間狭(ませ)で間をふさぐ意。
木や竹で組んだ簡単な垣根のことであるが、
この垣根の内に植えた菊が籬架菊である。
籬架菊 (井桁に菊)
様のHPに他の画像がありました。
↓↓↓
籬架菊模様は垣根と菊の取り合わせであるが、特に
鶴岡八幡宮にある籬架菊螺鈿蒔絵硯箱が有名である。
ケースの蓋に螺鈿を加え、他は水滴まで菊紋で飾ってある。
これは、後白河法皇から源頼朝に、賜ったと伝えられるが、
籬架菊模様は鎌倉時代の代表的な工芸意匠として流行った
ものである。のち、これらのデザインは、唐織・小袖の模様・
能装束などに受け継がれ、中国文人の詩などから浮かんだ
この珍しい図案は後世まで続いている。
使用家は「見聞諸家紋」に逸見氏の家紋とあるが、徳川時代の
幕臣の夏目氏も用いていた。ともに甲斐源氏の出で同胞である。
この模様は、はじめリアルな写実的な構図で、そのまま紋章と
して使っていたが、やがて、籬架垣は、井桁で省略化され、
菊も花一輪ですまし、結局は、井桁の内に菊という
簡単なカタチになってしまった。
(「家紋総攬図鑑」より)
パスポートに光る十六花弁の御紋章
菊花、菊花葉。菊に流れ水などをデザインした紋章。
馥郁たる香り、邪気を払い延命効果があるとされる瑞祥など
菊紋のモチーフはいずれも優雅で凛前としたところがある。
『和訓栞』によると、朝廷の御紋と唱えることは
平安初期の嵯峨天皇のときからと伝えている。
しかしこの時期には紋章は、まだ登場しない。
事実は380年あまり後の鎌倉期のはじめ、
後鳥羽上皇が衣服、調度品、帳紙、刀剣に至るまで、
菊の文様が用いられたと史上にみえる。
群臣の中で菊紋を用いた者もいたらしいが、遠慮
する結果となり、いつのまにか上皇の専用紋となった。
十六菊 三つ盛り菊 菊水
杏葉菊 十六弁八重表菊
お世話になっている家紋ワールド様です。
いつもありがとうございます。
『家中竹馬記』・・・足利尊氏が後醍醐天皇から下賜された
『見聞諸家紋』・・・設楽三郎貞清の三つ盛り菊。橘氏・
和田氏の菊水。逸見駿河入道の籬架菊。
妹尾氏の七宝の菊。
宇津木氏・中村河内守は、亀甲に菊紋。
横越氏の丸に向かい割菊。
大河戸(内)氏の並び菊。
戦国期には安芸の毛利氏、丹波の波多野氏、
越後の上杉氏も下賜。
豊臣秀吉も菊桐紋を授かったが、徳川家康は、固辞した。
「日本家紋総覧」 能坂利雄編集
「見る知る楽しむ 家紋の辞典」 真藤 建志郎著