<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

よろこびの野原の野ウサギは

2014年05月16日 15時23分31秒 | Weblog
よろこびの野原に住んでいる野ウサギは、
自分がなぜここへ生まれて来たのかを考えてみたのですが、答えが出ません。
ここへ生まれて来たのは自分だけではありません。
だから自分だけが特別というわけでもないのです。

ここの野原へ来ると風はそよろそよろしてよろこんでいます。
ここの野原に聳えている岩はたてがみを靡かせたようにしてよろこんで風を受けています
ここの野原に飛んでくる小鳥たちはみながよろこびの歌を歌っています。
ここの野原に育っている草木は光を浴びるといつもきらきらして踊っています。
ここの野原を流れている小川の水音は流れのあちこちでハミングをしています。
ここの野原では蛇たちでさえも絡みついたりいじわるをしたりしないのです。


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三郎のいのちだけではなかったのだ

2014年05月16日 09時20分55秒 | Weblog
畑にインゲン豆が整列をしている

いのちの整列であって

仏陀の整列であるから

朝の光がまぶしく照って輝かしている



その周囲には

サツマイモの蔓苗やズッキーニや

ジャガイモや九条葱が整列をし

その周囲には藪があって

藪の女竹や藪椿や

その藪の影には

オドリコソウやホトケノザがやっぱり整列をしている

こんなにたくさんのいのちが

整列をして朝を迎えていた



朝の光の中で

小さな仏陀を体現していたのは

三郎のいのちだけではなかったのだった
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絵美さんの靨には漣が打ち寄せる

2014年05月16日 08時51分17秒 | Weblog
絵美さんには靨(えくぼ)がある。
笑うときに、両方の頬に寄せてくる漣(さざなみ)だ。
雲が差し込む光で、これが白く光る。
僕はこれを美しいと思う。絵のようだと思う。
触ってみたくなるが、そうしてしまったら、たちまちのうちに掻き消えてしまいそうだから、僕は触らない。
漣であるから、そもそも形を有してはいないのだ。
形を有していないのはすべて絵なのだ。
昨夜は夢でこの絵美さんが登場したが、靨だけだった。
靨がスクリーンに大写しになった。そこで目が覚めた。くすくす笑ってしまった。
打ち寄せる漣もあまりにも大型だったので、絵美さん全体を打ち消していた。

しかし、絵美さんはコクリコである。人間のようにはいかない。

人間として生きているように見えても実は現象にすぎないのだ。現象は思いの映像なのだ。実体はないのだ。
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ニルンには彼の本質のルグソが寄り添う

2014年05月16日 08時18分22秒 | Weblog
「ここにいるのはそんなに長いことではないんだ」
「ここにいない間の方が何倍も何倍も長いってこと?」
「うん、何百何千倍もね」
「ふうううん」
「だからといって、ここにいる間を粗末にしていいってことじゃないんだ」
「若葉の山が朝の光に輝かされているように、うっとりね」
「そうだよ」
ニルンとニルンの本質が話をしていた。ここというのは、水の惑星「地球」のことである。
ニルンの本質は、ニルンの現在ばかりではなく、過去も未来も通して寄り添っているので、時間を通して理解ができているのだ。
本質は宇宙名が与えられている。ニルンの場合は、それはルグソという名だった。
生まれてくる度に、人の名前は違うので、今回はニルンになっているけれど、その前はこの地球ではなかったので、ニルンではなかった。でも、本質の名はルグソだった。
本質のルグソは、ニルンに、「輝かされている通りにしていればいいんだよ」とよく話をしていたので、ニルンもこれを覚えていて、よく二人の間でこの会話が交わされていた。
若葉の山が朝の光に輝かされているところを何度も見て、ニルンはそれを確認していた。きらきらしている山の木を美しいと思った。
輝かされているということは輝いているというのと同じだった。立場を変えているだけで同時性だった。
此処に居る間は短い。ここではただ若葉の山のように輝やかされているきりで、十分輝いている。ニルンはこれで安心をもらっていた。
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