<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

こころはよろこびを耕す田である

2014年05月25日 12時09分25秒 | Weblog
われは福田(ふくでん)を耕す。

お釈迦様はそう仰った。

農耕に従事している農夫から、あなたも農事に勤しんだらどうかとたしなめられた仏陀=お釈迦様は、わたしも田を耕していますと返事をされた。農作物が実る田ではないが、ここでは人間の幸福が実る。われは福田(ふくでん)を耕す、と。

仏教、仏陀の教え=仏法こそは福田である。

仏道を歩む者は福田をみな耕している。法(ダンマ)を聞くわがこころが福田である。日々の幸福を実感する福田である。

不幸を産み出す田はない。これは空(くう)の教えである。

わがこころは福田(ふくでん)である。不福田(ふふくでん)ではない。

わがこころはよろこびを耕す田である。深く深く耕す田である。耕すことで自足できるこころが成育する。

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落ち穂を拾う 黄金を拾う

2014年05月25日 11時26分16秒 | Weblog
小学校の頃に、落ち穂拾いという行事があった。麦の収穫が終わった後と米の収穫が終わった後、学校近くの田圃を歩いてまわり、そこに落ちている落ち穂を拾って行く。

昔はコンバインなどというものはない。手にした鎌で刈り取っていく。

こういうことを先生といっしょにやっていた記憶が蘇ってきた。いまは麦刈りの季節を迎えている。今自分の小学生はそんなことはしていないと思う。

その時に先生が、拾うということが大事だといった話をされた。宝物は落ちているのでそれを拾うのだと。目をやればそれが宝物だと。それを生かして使えば宝物になるのだと。

宝物という立派な形を持っているものにしか目が行かないけれども、麦の落ち穂や米の落ち穂をそれとして見るという目の態度を教えてもらったように思うが、もうすっかり忘れていた。



悟り悟りというが、悟りとはいったいどういうものか、悟道とはどういうものか、と禅道の老師に若い雲水が尋ねた。

親切な老師が答えた。田舎の田圃道に落ちている牛糞馬糞を黄金と見る、これが悟りだ、と。

価値のないものに価値を見いだすことだと。

価値を見いだし得ないものの中に黄金の価値を見いだすことは、なおざりになるものである。

見捨ててしまっているもの、つまらないものとして投げ出して顧みないもの、そういうものの中にきらきら輝く黄金を見て、はたと手を打って驚喜する。驚喜して自得する。自得は悟りだ。そこで大安心をする。大安心は黄金以上かも知れない。



内に目をやればわが内が黄金の悟りの場になっている。目を閉じればわが内に目が行くしかないのだ。周章狼狽がこれでぴたっと止む。慌てなくなる。腹の底の丹田に力が籠もるようになる。

己一人を貧者としなくても良くなる。己一人を不幸者としなくてすむようになる。己を瞑想して、己のものを見る姿勢を正してみる。僻目(ひがめ)僻事(ひがごと)を放擲して元の大自由になる。



老人になった。小学生の面影はとうにない。だが目を閉じればあの頃の田圃が浮かんでくる。

もう一度幼い頃に戻って、杖を頼りの落ち穂拾いというものをしてみるとするか。何が落ちているか。何が拾えるか。久々に手にした黄金ならばそれはそれは眩いことだろう。
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そうではなかったのだ

2014年05月25日 11時00分01秒 | Weblog
よろこべないことでも
よろこぶのですか
いいえ
それはできません
わたしはよろこべるものから
よろこんでいます

インゲン豆が花を着けた
白い花だ
大きな葉の葉裏で
大きな瞳を開いている

青虫が来て話を始めた

花を着けたので
花を着けたわたしをよろこびたい
花を着けたことから始まって
目に見るものを
もっともっとよろこびたい

豆の白い花がそう言ったので
それを食べに来た青虫が
わざと抵抗を示しているのだ

ふたりの会話を聞いているのは
夏雲だ
深い知恵の知恵者が笑っている



自然界の生き物たちには
こころがない
などとわたしら人間は思っているが
そうではなかったのだ
すべては
流儀を立てて
それぞれによろこんでいるのだ

地上がよろこんでいると観察をしたので
夏雲が
あんなにゆうゆうとしていられるのだ
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美しい少女はもっと美しくなる

2014年05月25日 10時14分06秒 | Weblog
画家は少女を美しく描く。美しく美しく描く。美しい少女はもっと美しくなる。美しくされた少女のこころが温かい春の花園を造っている。そしてキャンバスから画家のわたしを妖しく誘ってくる。絵の中に静座したままでは居られなくなったのだ。

描かなければ少女はこんなに美しくはなれなかったのだ。美の発芽はあったとしても、それが成長をして花をつけることはなかったのだ。画家はそういって自分の画業を慰めてみる。

少女はこれに少しだけ反発をする。ぷのふくれっ面をする。固有根源の美を否定されたようで不満足なのだ。

しかし、美しくするのは画家だ。その始めに美しい少女は存在していなかったのだ。少女に美を認識させたのは画家なのだ。これでようやく美が胎動を始めたのだ。無性受胎はない。受精卵からしか美が受胎しないのだ。

(人間の才能というのもこれに似ているかもしれない。あなたは素晴らしい。あなたは素晴らしい。素晴らしい才能を生かさない手はない。これでようやく画家は活動を開始する。活動をするには才能を認められるということが大事なのだ。少女はこれを実証させる。これは実証させる少女の手柄だ)

人間は美しくなる。これは画家のモデルになる少女だけではない。人間は美しく生きることができる。それには画家になることだ。キャンバスがそこになければ、こころをそれにすればいい。そこに美しいものを描く。モデルは少女だけとは限らないのはもちろんだ。

たとえば夏雲を描く。雲をモデルにする。これを美しく見て美しく描く。雲はやっと美しくなる。画家の前ではポーズを取ってもっと美しくなる。

人間を描く。これを美しく見て美しく描く。美がさらに加わる。それをまた美しいと見る。美しく思う。恋をするまでにこころをときめかせる。ふたりの共有する時間が美しい春になって美しい桜を咲かせる。

キーポイントは?

それはモデルを美しく見るということだったのだ。美しく見たものを美しく描きとめておきたかったのだ。そこに情熱を沸騰させたのだ。

これは人間と人間だけに当てはまることではない。目の前に現れたのはすべてモデルだ。雲もコクリコも山も海も、美のモデルだ。

日曜美術館を見た。画家バルテイスの絵を見ながらそんなことを思った。人間が生きるこの世を美しく描く画家になりたいものだ。そうやってわたしを美しく生きたいものだ。
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「おはよう」ではなく「おそよう」

2014年05月25日 09時23分27秒 | Weblog
おはよう、ではなく、おそよう。今日は起きるのが遅くなった。もう8時を過ぎていた。それから朝ご飯。南瓜の味噌汁に青紫蘇が刻んで入っていた。これが美味しかった。

9時からはNHK日曜美術館が始まった。画家の名はバルテイス。刺激的な少女の絵を描いている。54才で20才の若き日本人大学生に出会う。芸術家は死の間際まで美を追究する。

日差しの中で今日も赤いコクリコが咲いている。風があるので右へ左へと揺れている。長い長い茎のてっぺんに居座った美が蝶を刺激する。わたしも刺激される。

昨日は昼過ぎから畑に出た。夕方は風が強く吹いた。半袖にしていたわたしは寒さを覚えた。娘が小型トラクターーで畑を耕した。鍬で畝を作った。ここに紫芋の苗を差し込んだ。

わたしがしたのは、耕された後の土の中にある草の根っこを、探して抜き出すこと。畑の周囲の草取りをすること。椅子に座ったままの姿勢だからなかなか捗らなかった。

里芋の種芋を友人が持って来てくれたのでこれも娘が畝に植え込んだ。もうこの時間には夕闇が覆っていた。でも、働いたという充実感が身心を支配した。

お風呂を沸かしてもらっていたのでさっそく温まった。風を引くかと思った。体重計の乗ると57・2kg。食べても食べても体重が元に戻らない。湯船の中の老体が皺を集めてぶざまだった。

子どもの頃に見ていた老人をいまはまさしく自分が演じているというこの落差がわたしをくすりと笑わせた。子どもと老人をひとりで演じ分けてみた。時間にたっぷり支配された老人のわたしと、時間に影響を受けないですむはずの子どもの精神が、会話をした。
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