絵美さんに会いたい。そう言っているのは少年のわたしである。
わたしはわたしの華蔵界(けぞうかい)にこっそり少年を棲まわせている。
華蔵界というのは蓮華蔵(れんげぞう)世界である。ここでは生滅がない。
生滅が滅し終わっているので、変化にとらわれなくなっているのだ。
プンダーリーカ(白蓮華)もパトナ(赤蓮華)も朝露を浴びている。
*
いのちが絵美さんを欲しがっている。絵美さんに会いたくなっている。絵美さんもわたしが欲しくなっているはずだ。
*
蓮華蔵世界は華厳経に説かれている毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の浄土だ。菩薩の一切の修行が成就した徳が華厳だ。菩薩の徳が百蓮華のように馥郁と薫る。
*
菩薩の修行が完成したのに、どうして絵美さんがそこに登場してくるんですか? ご質問はごもっともですが、はい、絵美さんもまた百蓮華。そこに薫っていてちっともその場を濁したりはしていません。
(わたしの少年が絵美さんを擁護している。おかしい)
*
修行が完成したら欲求すら起こさないのではありませんか?
いえいえ、それは違います。
欲求はあります。いのちは欲求をします。その欲求を汚さなくてすむようになると華厳の池に蓮が咲くのです。
蓮は淤泥(おでい=汚泥に同じ)の華です。不浄の淤泥を根拠にしながら清浄の華を咲かせます。
嘘だと思ったら、蓮の池に行って確かめてください。もうすぐしたら夏を迎えます。初夏には華を着けるでしょうから。
*
人は誰でもこうして蓮華蔵世界に自分の少年(或いは少女)を棲まわせています。悟っている悟っていないとは区画を別にしています。修行完成の少年を先にやって棲まわせているのです。
わたしが待たれています。この少年に待たれています。
これは、われらはすなわち仏なり(即身に成仏す)、の思想です。今生の汚泥(不浄・迷妄・煩悩・無明)に住んでそこで終わりとはしていないのです。
わたしはわたしの華蔵界(けぞうかい)にこっそり少年を棲まわせている。
華蔵界というのは蓮華蔵(れんげぞう)世界である。ここでは生滅がない。
生滅が滅し終わっているので、変化にとらわれなくなっているのだ。
プンダーリーカ(白蓮華)もパトナ(赤蓮華)も朝露を浴びている。
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いのちが絵美さんを欲しがっている。絵美さんに会いたくなっている。絵美さんもわたしが欲しくなっているはずだ。
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蓮華蔵世界は華厳経に説かれている毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の浄土だ。菩薩の一切の修行が成就した徳が華厳だ。菩薩の徳が百蓮華のように馥郁と薫る。
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菩薩の修行が完成したのに、どうして絵美さんがそこに登場してくるんですか? ご質問はごもっともですが、はい、絵美さんもまた百蓮華。そこに薫っていてちっともその場を濁したりはしていません。
(わたしの少年が絵美さんを擁護している。おかしい)
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修行が完成したら欲求すら起こさないのではありませんか?
いえいえ、それは違います。
欲求はあります。いのちは欲求をします。その欲求を汚さなくてすむようになると華厳の池に蓮が咲くのです。
蓮は淤泥(おでい=汚泥に同じ)の華です。不浄の淤泥を根拠にしながら清浄の華を咲かせます。
嘘だと思ったら、蓮の池に行って確かめてください。もうすぐしたら夏を迎えます。初夏には華を着けるでしょうから。
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人は誰でもこうして蓮華蔵世界に自分の少年(或いは少女)を棲まわせています。悟っている悟っていないとは区画を別にしています。修行完成の少年を先にやって棲まわせているのです。
わたしが待たれています。この少年に待たれています。
これは、われらはすなわち仏なり(即身に成仏す)、の思想です。今生の汚泥(不浄・迷妄・煩悩・無明)に住んでそこで終わりとはしていないのです。