<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

今生の汚泥で終わりとはしない

2014年05月26日 11時41分11秒 | Weblog
絵美さんに会いたい。そう言っているのは少年のわたしである。

わたしはわたしの華蔵界(けぞうかい)にこっそり少年を棲まわせている。

華蔵界というのは蓮華蔵(れんげぞう)世界である。ここでは生滅がない。

生滅が滅し終わっているので、変化にとらわれなくなっているのだ。

プンダーリーカ(白蓮華)もパトナ(赤蓮華)も朝露を浴びている。



いのちが絵美さんを欲しがっている。絵美さんに会いたくなっている。絵美さんもわたしが欲しくなっているはずだ。



蓮華蔵世界は華厳経に説かれている毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の浄土だ。菩薩の一切の修行が成就した徳が華厳だ。菩薩の徳が百蓮華のように馥郁と薫る。



菩薩の修行が完成したのに、どうして絵美さんがそこに登場してくるんですか? ご質問はごもっともですが、はい、絵美さんもまた百蓮華。そこに薫っていてちっともその場を濁したりはしていません。

(わたしの少年が絵美さんを擁護している。おかしい)



修行が完成したら欲求すら起こさないのではありませんか?

いえいえ、それは違います。

欲求はあります。いのちは欲求をします。その欲求を汚さなくてすむようになると華厳の池に蓮が咲くのです。

蓮は淤泥(おでい=汚泥に同じ)の華です。不浄の淤泥を根拠にしながら清浄の華を咲かせます。

嘘だと思ったら、蓮の池に行って確かめてください。もうすぐしたら夏を迎えます。初夏には華を着けるでしょうから。



人は誰でもこうして蓮華蔵世界に自分の少年(或いは少女)を棲まわせています。悟っている悟っていないとは区画を別にしています。修行完成の少年を先にやって棲まわせているのです。

わたしが待たれています。この少年に待たれています。

これは、われらはすなわち仏なり(即身に成仏す)、の思想です。今生の汚泥(不浄・迷妄・煩悩・無明)に住んでそこで終わりとはしていないのです。
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わたしも小さくはありませんなあ

2014年05月26日 11時05分30秒 | Weblog
わたしも
わたしのいのちを生きているのですが、
宇宙全体も
宇宙全体のいのちを生きているというのであれば、嬉しいですなあ。

宇宙がいのちを生きている、というのは嬉しいですなあ。
死んでいないで生きているというのが嬉しいですなあ。
これまで一度だって死滅をしたことがないという事実は嬉しいですなあ。
(幾度も小さな死滅を繰り返してもそれでも続いていますからなあ)

わたしのいのちは早晩その小さな形をなくしてしまうことになりますが、
それでもいのちの全体がなくなってしまうということではないのであれば、
安心をしていられますなあ。

その上というのは強欲ですが、宇宙のいのちが次へ次へどんどん向上をしていって
次の進化さらにその次の進化を遂げているというのですから、明日が楽しみですなあ。
どんな宇宙になっているのか楽しみですなあ。

こんなわたしなんかが、その確かな構成員として、
宇宙のいのちの楽しみを未来永劫楽しんでいられるですから、
わたしも、あっはっはおっほっほ、小さくはありませんなあ。
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侵さず殺さず己を語らずのレベルまで

2014年05月26日 10時33分38秒 | Weblog
山野の草木類には食糧危機というものがないらしい、未来永劫。

太陽が照っていて水分が補給できて炭酸ガスを吸っていれば、デンプン・ブドウ糖の栄養が受給できるからだ。

人間様は賢者を装っているが、この3者が供給されても自力でデンプン・ブドウ糖を精糖できないらしい。

人間だけに限らずおよそ動くことのできる生き物には体内にこの製糖工場がない。

でもって、山野の草木類は、哀れみを垂れて動物たちに自分を食べさせている。食べさせても食べさせてもどんどん生えて増殖をしてくるので心配はないのだ。

これがいったん乱心して、一斉に動物を襲って喰うことにでもなれば大変なことになるが、植物はあの通りの自足を貫いて、ずっとずっと涅槃寂静を決め込んでいるので乱心は起こさない。

人間は人口爆発を迎えているので早晩食糧危機に陥ることになるだろう。解決法がある。

それは人間が植物になることだ。自力でデンプン・ブドウ糖・アミノ酸が作れるようになれば、生きる道が確保される。自給自足ができるなら争いも起こるまい。

人間はじっとしてそこに立っているだけでは満足するまい。存在価値を問うのに忙しいからだ。

あっちへ行きこっちへ来て、ああだこうだ活動をして初めてそこに生き甲斐を見つけることを得意技にしている種類だからなあ。



進化を遂げ続けていることには間違いないとしても、いつになったら山野の草木類のレベルまで到達するのだろう? 自給自足して動かず争わず、侵さず殺さず、己を語らずの静謐レベルまで。
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問えば自分を責めることになる

2014年05月26日 09時58分44秒 | Weblog
威張る人が嫌い。
だったらお前は威張るな。

脅す人が嫌い。
だったらお前は脅すな。

ひけらかす人が嫌い。
だったらお前はひけらかすな。

嫌いというのは
そうするだけの力量に乏しいということだな。


それで
そうしないでもすんでいるだけでありました。



田圃の畦にケセラケセラ虫がいる。
坑を掘って畦を壊してしまうので
農夫に嫌われている虫である。

今朝は雨になった
虫がさっきから自問自答をしている。



だがな、
そうしてもいいというステージに上がると
これが一変するのだ。

威張るなと言っていた人ほど威張り、
脅すなと言っていた人ほど脅し、
ひけらかすなと言っていた人ほどひけらかしてくる。

虫は
ノカンゾウの花に
こう
たしらめられて二の句が告げられなくなった。



野にノカンゾウの花が咲く季節を
迎えていたのだ。

ノカンゾウは黄色い花である。
落ち着いて素朴な風趣である。

問えばすなわち自分を責めることになる。

虫は静かになった。

しばらくそこに佇んでいる間
雨がずっと
虫と花芯を濡らした。
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きみはそんなことが楽しいのか

2014年05月26日 09時21分05秒 | Weblog
何を楽しみとしているか。これは人それぞれである。それでいい。



「きみはそんなことが楽しいか」と揶揄されても、楽しいものは楽しいので容易に明け渡さない。



A君の楽しみとB君の楽しみは種類が違う。A君のそれをB君は楽しめない。B君のそれをA君は楽しめない。



「へえ、そんなことで楽しくしていられるんだね。驚いたよ」ということにもなる。



でも、楽しみにしていることがずっと続くわけでもない。変化をする。若い頃のそれと老いてからのそれとは異なっている。



楽しくしていないでは、この苦界を生きていけないから、あれこれと楽しみを見いだしていることになる。



度衆生心(どしゅじょうしん)をもってよろこびとしているのは大乗仏教徒である。衆生を度す。苦しんでいる衆生(人間ばかりではなく、いのちを持つものすべて)を救済する(=度する)心を抱くことをわがこころの楽しみとしている、という人もいる。



わたしひとりの楽しみを楽しむことで一生を費やしてしまう人もいる。わたしはこの範疇に居る。



生き終わったときになってやっと、「なあんだ、おれはおれひとりを乗せる乗り物に乗って粋がってきたのか、あまりにも小さなスケールを生きたな」と後悔する。



今度こそはもっと違う楽しみを楽しむだけのスケールを持とうと誓う。喉元過ぎれば熱さ忘れるのことわざが待っているが、次生では、それも忘れないで、もう少しスケールの大きい楽しみを獲得する。



こうやって3生、4生・・・10生が過ぎ去った。幾多の生を振り返ってみる。そうすると、楽しみとしてきたその楽しみの内容が進化を遂げてきているということが分かる。そうなればしめたものだ。



あれこれ類推を重ねた。結論に入ろう。

「もうそんな楽しみは楽しみとしないでもよくなった」というところにまで進んで来たくなったのだ。



楽しみは尽きない。人間として生きる楽しみは、尽きないほどにたくさんある。一つ二つではない。だからこの楽しみがなければ生きていけないということはないのだ。あっさり明け渡しをしてもいいのだ。



おれは次は何を楽しみとするか。これ(楽しみのリサーチ)を楽しんでもいられるのだ。
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3ヶ月ぶりにサイクリングに出た

2014年05月26日 08時49分38秒 | Weblog
 昨夕、3ヶ月ぶりのサイクリングに出掛けた。麦刈りが終わった田圃は、耕されて、水張りが進んでいた。白鷺が5羽たたずんでいた。これから麦刈りというところもあった。村落を流れる小川にはすでに蛍が飛んでいると聞いた。神社の前の畑は栗の畑。鳥居を入るときに栗の花の強い匂いがした。振り返るとそこに、木全体を覆い尽くすほどの白花の穂が垂れていた。神社の大楠は樹齢1000年。新緑に取って代わられた古い葉が、落ちて境内を埋め尽くしていた。
 この3ヶ月の間に3病を乗り越えた。体重はしかし8kgほども減量になった。ペダルは重たくなかった。快調な体調に戻っていることが嬉しくなった。サイクリングを終えて帰宅したときには身体が火照って汗を感じた。それからしばらく畑に座って草取りに従事した。
 夜、食事の後、腹痛が襲ってきて2度もトイレに駆け込んだ。腹はぺしゃんこになった。



夜中、雨の音が聞こえていた。朝になっても止んでいなかった。風はない。岐阜に居る中学時代の友人が新茶を贈ってくれたので、お礼の電話をした。毎年この時季になると彼の心尽くしの新茶が飲める。彼は製茶業をしていて今が一番忙しいらしい。元気いっぱいだった。
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